列王記を読み進めていますが、これまでは北イスラエル王国の王たちを中心に見てきま
した。今日の箇所で私たちは、南ユダ王国の王アザルヤ、別名ウジヤを見ます。またこの
15章には、北イスラエル王国の最後の王までが記されています。30節にあるホセアが北イ
スラエル王国の最後の王で、アッシリヤ帝国によって滅ぼされるのです。
南北に分裂してからずっと主なる神に背き続けてきた北イスラエル王国でした。ダビデ
の血筋ではない者たちが王となり、クーデターによって王朝が変わる度に、当初は宗教的
な腐敗が若干矯正されても、すぐ偶像崇拝に戻り、霊的、道徳的に腐敗を深めるという、
その繰り返しでした。結局、主なる神のさばきを受け、滅ぼされるのです。
南ユダ王国の王アザルヤの治世は52年とあります。それと対比するように、北イスラエ
ル王国では、滅亡に向かう速度を増すかのように、王の交代劇が繰り返されて、そのほと
んどがクーデターによるのです。8節・ザカリヤが6ヶ月、13節・シャルムが1ヶ月、17節
メナヘムが10年、23節・ペカフヤが2年、27節・ペカが20年、そして30節・ホセアが王権
を奪うのですが、ペカフヤ以外はすべてクーデターです。しかも繰り返される指摘は「彼
は主の目の前に悪であることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの
罪から離れなかった」ということです。主なる神の度重なる警告にも関わらず、悔い改め
ることをしなかった結果としての滅びであることを覚えさせられるのです。
さてアザルヤを見ましょう。アザルヤ、別名ウジヤに対する評価は、3節「主の目にか
なうことを行った」です。南ユダ王国の王たちはすべて、ダビデの血筋であり、その多く
の王たちへの評価は「主の目にかなうことを行った」ということです。
ただし4節。これが南ユダ王国の現実です。創造者であるまことの神を律法にしたがっ
て礼拝するではなく、自分の好みに合わせた自己満足の礼拝が高き所での礼拝です。アザ
ルヤは主の目にかなうことを行ったけれど、民の偶像礼拝は禁じなかったのです。これは
アザルヤだけでなく、南ユダ王国のほとんどの王の現状でした。そこまで厳格にならなく
てもという、曖昧さを合わせ持つ従い方が、王国を霊的退廃に進ませるのです。
5節。アザルヤは主に打たれました。死ぬまでツァラアトに冒され、隔離された家に住
むことになったのです。その経緯が、先ほど交読した歴代誌に記されています。
歴代誌第二26章。ここではウジヤという名で記されています。17節に、祭司アザルヤが
出てきますので、ウジヤを用いたものと思われます。興味深い記述は5節「神を認めるこ
とを教えたゼカリヤが生きている間、彼は神を求めた。また彼が主を求めていた間、神は
彼を栄えるようにされた」です。ウジヤは霊的な指導者が助言している間は、主に従って
歩んだけれど、ゼカリヤがいなくなった後は、心が主から離れてしまいました。ウジヤの
信仰者としての姿勢が窺い知れます。霊的指導者がいてもいなくても、生涯主なる神に従
う信仰者であるなら、真に幸いな信仰の生涯を歩むことになったはずです。
ウジヤに大きな影響を与えたのは、父アマツヤの生涯かもしれません。25章に、父アマ
ツヤについての記述があります。1~2節。アマツヤも主の目にかなうことを行い、主の
恵みと祝福の中で、国を治めました。しかし27節。アマツヤは主に従うことから離れたの
です。このような悲しい現実はあります。若いときに主の恵みを受け、いわゆる成功を収
めたことが、主に従うことから離れる原因となることに、罪の恐ろしさを見るのです。
アマツヤが主から離れるた経緯は14節以降です。その結果、エルサレムの住民はアマツ
ヤに対して謀反を企て、王を殺し、その子ウジヤを王として立てました。
ウジヤは、父アマツヤの、主の目にかなうことを行っていたときの主の守りと祝福、そ
して主から離れた後の結末を知っていたのでしょう。16才という若さで国を治めなければ
ならない不安もあったかもしれません。主から離れることの危機意識も考えられます。こ
れは主を恐れるということよりも、人を恐れる結果なのですが。
主なる神はゼカリヤを助言者とされました。ゼカリヤについての詳細は分かりません。
ただゼカリヤははっきりと主の目にかなうことは何であるかを王ウジヤに語ることができ
たし、ウジヤもまた素直にゼカリヤが示す主の目にかなうことを行ったということです。
そして5節後半、主なる神は、ウジヤがどのような人物であるかを問題にすることなく、
ウジヤが主を求めている間、彼を祝福し、栄えさせたのです。
主なる神がウジヤを栄えさせたので、ウジヤは外交においても、内政においても、安定
と繁栄を手にします。いわゆる成功者となったのです。それは、主なる神が彼を助け、栄
えさせてくださった結果です。7節、神はウジヤを助けました。8節後半、ウジヤの名は
エジプトの入口にまで届きます。ウジヤを王とする南ユダの勢力が強くなったからです。
10節後半、ウジヤは農業を好みました。農産物を自給できる国造りはとても重要です。
15節後半。こうしてウジヤの名声は遠くにまで広まりました。彼が驚くべき助けを得、
強くなったからです。ウジヤ自身が素晴らしいのではありません。彼は主の助けを求め、
主はウジヤの求めた助けを与えたので、彼は強くなれたのです。
しかし罪人は愚かになります。業績を残してきたり、人から称賛されたりすると、自分
に力があるかのような錯覚に陥るのです。助けを得てできたことなのに、自分が事を行っ
たかのように錯覚するのです。その結果、罪人は高慢になります。高ぶるのです。
ウジヤはいつしか、自分に力があって、これらの繁栄を築き上げたと思い込みました。
助言者ゼカリヤが死にます。これがウジヤの凋落の始まりです。16節。その心は高ぶり、
ついに身に滅びを招いたとあります。ウジヤは神のことばに従うことではなく、自分の思
いを優先し始めたのです。これが主の信頼を裏切る結果となりました。
主なる神にではなく、自分の思い、自分の欲求に従うこと、主なる神をではなく、自分
を自分の主とすること、これが罪です。ウジヤは神を恐れる心をなくします。元々神を正
しく恐れていなかったのかもしれません。これだけの業績を残したのだから、神殿で香を
たくという祭司の務めを、自分がしても良いと考えたのです。ウジヤは神の聖を冒すとい
う暴挙に出ました。主なる神を真に恐れなくなった者の愚かさです。
17~18節。このようなウジヤに悔い改める機会が出されます。祭司たちがウジヤを制
するために立ちふさがったのです。ウジヤはこの時点で、主の目にかなうことを求めるこ
とができたはずでした。主に香をたくのは自分のすることではないとわきまえ知り、それ
に従うべきだったのです。
19節。しかしウジヤは激しく怒ります。そして駄々をこねるかのように、自分の欲求を
押し通しました。その結果、直接神が手を下し、ウジヤは王位から退けられたのです。
ゼカリヤとウジヤとの関係がどのようなものであったのか、私たちには知らされていま
せん。私たちが知りうることは、ゼカリヤという存在があって、ウジヤは主の目にかなう
ことを求めたという事実です。言い換えるなら、ゼカリヤという存在によって、主の目に
かなうことを知らされ、それを行ったということです。ウジヤ本人は、主の目にかなうこ
とを求める者ではなかったけれど、ゼカリヤによって主の目にかなうことを知らされ、そ
れを行ったということなのです。そして創造者である神は、どのような姿勢であっても、
主の目にかなうことを求め、それを行う者を祝福されるのです。だからウジヤは、目を見
張るような素晴らしい業績を残すことができました。
本来なら、主なる神との体験を続けていく中で、主の目にかなうことは何かを知り、そ
れを行う者となるはずです。具体的に何をするかということではなく、どのような姿勢で
主に仕えることが主の目にかなうことを求めることになるのかを知る者となるはずなので
す。しかしウジヤは、この霊的な姿勢を学ぶことはなかったということです。
私たちは繰り返し、結果は神のものであると自覚しましょう。すばらしい結果がもたら
されていても、それは私たちに力があるからではなく、主が祝福してくださったからで
す。この事実をわきまえ知りたいのです。主が祝福してくださるので、私たちはその祝福
に与ります。主が恵んでくださるので、私たちは恵みを受けるのです。私たちに、神の祝
福、神の恵みを受けるにふさわしい何かがあるからではありません。私たちは、神の御前
で、正しい謙虚さを身につけたいのです。高慢にならないためにです。
私たちは、ウジヤ、アザルヤを反面教師として学びましょう。私たちは人を、その業績
で判断してはなりません。その人が大きな祝福を受けていたとしても、その人の心が主な
る神に真に結びついているとは限らないからです。そしてこのことは、自分自身の信仰姿
勢を吟味することでも同じです。主が与えてくださっている物質的な祝福が、業績を残し
ていることが、私たちの信仰姿勢の正しさを証明することにはならないからです。
私たちは結果や業績で判断するのではなく、いつもで、今、自分の心は主にしっかりと
結びついているかを吟味したいのです。人の目を気にした結果での主との関係ではなく、
直接、主なる神と自分との関係は正しいのか、また自分は、主の目にかなうことを、人を
介してではなく、直接主の御前で求めているのかを吟味するのです。主との関係が正しい
歩みであるなら、状況がどのように変わっても、大きな祝福を受けても、すべての物質的
な祝福がなくなっても、変わらない主への信頼と、いつも主の目に正しいことを求める姿
勢をなくすことは決してありません。
言者によって保たれている信仰生活であるなら、一人立ちできるように改善する必要があ
ります。そうでなければ、どれほどの祝福を受け、どれほどの業績を残したとしても、私
たちの信仰姿勢は危ういままだと自覚しましょう。日々みことばに親しみ、主なる神に祈
るという、霊的で、人格的な主との直接的な交わりを積み重ねることで、主の目に正しい
ことを求め、それを行う信仰者としての歩みが確立されるのです。
私たちの信仰は、主なる神を自分の主と崇め、主ご自身に聞き従う歩みとすべきです。
キリストの十字架の死は、私の罪を赦すためにあったという、キリストとの直接で、個人
的な信仰の関わりを基盤としている私たちですから、キリストとの関係の中に、他の人
や、他の何かを介在させてはならないのです。まだ霊的な助言者のような存在を必要とす
るなら、霊的成長を目指して、その状態を卒業して、一人立ちできるようにしましょう。
霊的助言者がいなくなったとたんに、自己中心に陥るような信仰者のままであってはなら
ないのです。そうして、生涯、主の祝福を味わう信仰者として整えられましょう。
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