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2024年7月7日 礼拝「主の再臨を待つ心備え」 ルカ12:41~48

 今日私たちは、主イエスが語られた、ご自分が再び来られることに関するたとえから、

私たちが自分の主とあがめる、主イエスの再臨を待つ心備えを確認します。

 私たちが、いつも確認しておきたいことは、私たちは、終わりの時代を過ごているとい

うことです。主イエスが人としてこの世に来られ、十字架での死と死者の中からの復活に

よって、罪の赦しと罪からの救いが完成しました。その時から終わりの時代に入ったので

す。私たちは今、終末を生きているのです。このことの確認は大事です。そして終末は、

主イエスの再臨によって実現します。主イエスの再臨はいつ実現しても良いのです。

 私たちキリスト信仰者は、主イエスの再臨の約束も事実であると受け入れており、その

日を待っています。主イエスは予告されたとおり、約束の通りに、再び来られます。王の

王として、主の主として、公正なさばきを行うさばき主として来られるのです。その再臨

の日が、私たちにとって恵みと喜びの日となるのか、嘆きと悲しみの日になるのかは、私

たちの、主イエスを待つ、その心備えによるということを覚えたいのです。

 今日の箇所で主イエスは、主人の帰りを待つしもべのたとえを話されました。ここでた

とえられている主人は主イエスであり、しもべは主イエスを信じる私たちキリスト信仰者

です。そして主イエスは、しもべの忠実さを期待して、このたとえを話されたのです。

 主人の帰りを待つしもべのたとえ話は、36節からにもあります。36節。ここでは、主

人のしもべに対する期待は、自分の帰りを待っていることそれ自体です。自分が帰ってき

たときに、すぐに迎えに出られるように待機していてほしいと願っておられるのです。婚

礼に出かけた主人の帰りは、いつになるのか全く見当のつかないのが当時の状況です。真

夜中になるのか、夜明けになってから帰って来るのか、結局帰って来ないのか、当時の婚

礼では、ほとんど予測はたてられない状況でした。38節。

 主人がしもべに期待しているのは、自分の帰りを、すぐに向かいに出られるように待っ

ていることです。そしてそのようなしもべに対して37節。この主人は、しもべのために喜

んで給仕役を買って出るのです。こんなことは、通常考えられません。しかしこの主人は

しもべのために、喜んで仕えてくださるのです。主イエスご自身がそうなのです。

 38節。主イエスは、ご自分の再臨を待つ信仰者を励ましたいと考え、語られました。婚

礼に出かけた主人の帰りはいつなのか、予測できません。しかしいつ帰って来ても、いつ

でも出迎えたいと心を備えている、そのようなしもべであることを期待されています。そ

れは主人を愛するゆえの備えです。そしてその心は無視されません。主人もまた、そのし

もべの愛に愛をもって応えるのです。これが主イエスと私たちキリスト信仰者との、愛を

基盤にした関係です。「そのしもべたちは幸いです」と言われています。

 私たちの主イエスは、しもべを横暴に扱うのではなく、しもべを人格ある存在として関

わられます。だからしもべに対しても、心のこもった振る舞いを期待しておられます。私

たちの主イエスは、約束の通り必ず再臨されます。それがいつかは知らされていません。

私たちは主イエスがいつ来られても、いつでも迎えれるように、心から備えましょう。私

たちが愛し、敬うお方が帰って来られる、そのお方を迎える心備えです。

 41節。ペテロが質問しました。このたとえは、自分たちのためか、それとも群衆のため

のかと質問したのです。皆さまはどう考えるでしょうか。主イエスは、ペテロの質問に、

直接答えないで、別のたとえ話をされました。主人としもべの関係は、いつでも、主イエ

スとキリスト信仰者たちの関係がたとえられています。

 42節からのたとえも、私たち、キリスト信仰者のためのたとえです。ここでは、どのよ

うにして待っているのか、特に他のしもべよりも重い責任を委ねられた者として、どのよ

うに待っていることが期待されているのかのたとえです。

 42節。忠実で賢い管理人は、直接的には、ペテロなど、使徒と呼ばれる弟子たちがたと

えられています。使徒たちには、他の信仰者とは違った働き、つまり霊的な指導をすると

いう責任が委ねられています。食事時には決められた分を与える、つまりいのちのパンで

ある主イエスを、またいのちのみことば、神のことばを忠実に届ける働きです。「いった

いだれでしょうか」と問いかけることで、あなたがたこそ、と語りかけたのです。

 43節。そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いですとあるように、主イエス

は、弟子たちが忠実であることを期待されました。そして、その忠実さに応じて、さらに

大きな働きと責任とを委ねようとしていることが分かります。44節。

 ここで私たちは、私たちに委ねられている働きとか責任は、千差万別であるということ

を確認しておきましょう。各人の働きを比較するなら、その責任の重さは違います。人間

的に評価するなら、重い責任を委ねられている人が、より優れていると見なされます。人

間は、その人が、どれほどの責任ある働きを任せられているかで評価しますが、主の評価

は、全く違っています。主の評価の基準を知っておくことが大事です。

 主なる神が私たちに委ねておられる働きは千差万別です。違いがあります。人間はそこ

に優劣を付けます。どんなことに対しても優劣で評価するのです。しかし主なる神は、優

劣を評価しません。主の御前では、違いがあっても、優劣はありません。ここに、この世

の基準と、主なる神の基準との、根本的な違いがあります。主なる神がご覧になるのは、

何をしたかではなく、その働きに対する忠実さです。

 主なる神が各人に委ねた働きに対して、人は評価します。しかし主なる神は、その働き

に対してではなく、その働きにどれだけ忠実であったかを評価するのです。忠実か否か

は、主人との信頼関係から生じるからです。自分の働きは主人に委ねられたもので、主人

に忠実に仕えたいとする心が、その働きへの忠実さとなって現れるのです。

 45節。主人を敬っていないしもべは、主人が不在であれば、これ幸いと、自分の欲のま

まに振る舞います。自分に委ねられた地位や権力を、自分の欲求を満たすために使い出す

のです。主人の前では忠実さを装っていても、心では喜んでいないので、主人が帰って来

ないうちに、好き勝手に遊ぼうとなるのです。その不忠実さは必ず明らかになります。

 私たちは吟味しましょう。主イエスに対する信頼と愛の心が冷えていないか注意したい

のです。主イエスに対する自分の心を吟味し、忠実でありたいと思う思いが薄れているな

ら、もう一度十字架を見上げましょう。自分はどれだけ愛されているのか、どれだけ罪が

赦されたのか、いのちを捨てるほどの愛で愛されていることをもう一度覚えて、感謝を新

たにするのです。滅びからいのちに移された私たちキリスト信仰者ですから、喜んで主に

仕えたいという思いを取り戻しましょう。

 47節。主の心を、真の意味で知ることが大切です。主の心を正しく知って、委ねられた

働きを、忠実に、誠実にしているなら、これほどの幸いはありません。私たちが忠実に、

誠実に、主に仕えることができないとするなら、それは主の愛と、主は最善に導いてくだ

さるお方であるという信頼が薄れているのです。まずこの点を正していただく必要があり

ます。主の愛を確認し、主への信頼が回復されたなら、喜んで主に仕えることになり、主

に委ねられた働きを忠実に、誠実に果たそうとする者となります。

 主イエスは再び来られます。それがいつかは、だれも分かりません。今日かも知れない

し、100年後かも知れません。主の再臨がいつであっても、終末を歩んでいる私たちは、

主イエスのおいでを心から待ち臨むのです。いつ来られても、いつでも喜んで、感謝して

迎えに出られるように備えましょう。委ねられた日々の歩み、働きにおいて、忠実で賢い

管理人として、主に仕えることが、その心備えです。何をしたかではなく、どのように主

に仕えようとしたか、自分の心を吟味し続けることが大切です。

 主の再臨を待つ心備えができていれば、いつでも主イエスとお会いできます。主の再臨

が先か、私の終末が先か、に関係なく、主の再臨を心から待っているなら、今日主が再臨

されても、私が死んでも、喜びと感謝の中で、主とお会いすることになるのです。

 38節。主の再臨を心から待ち望んで、日々、忠実に、誠実に、主にお仕えしましょう。


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