これまで、第3日曜日の礼拝では、使徒の働きを読み進めてきましたが、7月からは、
ローマ人への手紙を読み進める計画です。パウロが知らせる福音について確認し、私たち
の福音理解を深めたいと考えています。今日は書き出しの部分を確認します。
1、7節。ローマ人への手紙は、使徒パウロからローマにいるすべての、神に愛され、
召された聖徒たちへの手紙です。16章23節には「教会全体の家主であるガイオも」と挨拶
していますから、この手紙は、第三回伝道旅行時のエペソ滞在後、コリントで書かれたと
考えられます。その時の行動は、使徒の働き20章1~3節に記されています。ギリシアに
三か月滞在した、その期間に書き送られたと考えられるのです。
1節。パウロは冒頭で「キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使
徒として召された」と自己紹介することで、読者に「神の福音」を意識させます。パウロ
自身が福音の恵みを味わい知った、その体験者として「神の福音」を知らせるのです。
パウロは神のあわれみを受けました。ナザレのイエスをキリストと信じる者たちに強硬
に反対し、迫害してきたパウロに、復活された主イエスが、直接現れてくださったので
す。その語りかけを受けて、パウロは自分の間違いを認め、悔い改めて、主イエス・キリ
ストを自分の救い主と受け入れ、自分の主と仰ぎました。そうして自分は、神の福音のた
めに選び出され、キリスト・イエスのしもべとされ、使徒としての召されたことを、神か
らの栄誉と受け止め、異邦人に福音を伝える使命に自分を献げたのです。
ローマにキリストの福音が伝えられ、神の教会が誕生したのは、パウロや12使徒たちの
働きではなく、一般のキリスト信仰者たちの宣教によったと考えられます。ペンテコステ
の日に、主イエスを信じた滞在中のローマ人たち、その後ローマに行ったキリスト信仰者
たちが証した結果です。このローマに誕生した信徒中心の教会に、体系的に、系統立て
て、福音を指し示す必要を覚えて、パウロは手紙を書き送ったのだと考えられます。
使徒の働き18章でパウロは、第二次伝道旅行の際に、コリントの町でアキラとプリスキ
ラ夫妻に出会います。彼らは、ユダヤ人退去命令が出されたことによってローマから移っ
てきた人々でした。このアキラとプリスキラ夫妻から、ローマのキリスト信仰者たちの霊
的な様子を聞いていたとも考えられます。
2~4節。「この福音は」と説明を始めます。この福音は、神が預言者たちを通して、
聖書、つまり旧約聖書にあらかじめ約束されたもので、神の御子に関するものです。まず
「肉によれば」と記し、御子は受肉された神、人となられた神であると説明します。
メシヤ、救い主は、神であられるのに人となる必要がありました。それは罪人に、罪の
赦しを備えるために、十字架で身代わりの処罰を受けるためです。約束のメシヤはアブラ
ハムの子孫として、ダビデの子孫として生まれることが預言されていました。
ナザレのイエスはダビデの子孫として生まれましたが、このイエスは神の子であるとの
霊的な事実を説明をするために、続けて「聖なる霊によれば」と書き記します。聖霊が処
女マリアに臨み、いと高き方の力がマリアを覆うことで、マリアは胎内に神の御子を宿し
ました。そうしてイエスとして誕生し、人として地上生涯を送り、十字架で処刑され、殺
され、墓に葬られたのです。しかし死んで終わりではなく、死者の中から復活したことに
より、ナザレのイエスこそ力ある神の子であると公に示されました。
主イエスの、死者の中からの復活こそが、神の御子に関する福音の根幹です。主イエス
は罪人の身代わりとして十字架で処刑されましたが、もし死者の中から復活されなかった
としたなら、その死に何の意味もありません。あの十字架の死は、私の罪の処罰を代わり
に受けてくださった身代わりの死だと信じて、罪の赦しに与ったと感謝しても、神の約束
のことばであると主張しても、もし死者の中から復活されなかったなら、それは私たちの
単なる思い込みに過ぎないことになるのです。罪の赦しなど、ただの戯れ言になります。
だからパウロは、死者の中からの復活という歴史的な事実に言及するのです。
こうして私たちは、歴史を確認します。ナザレのイエスは、ローマ帝国の権威の下で十
字架刑に処せられ、殺され、墓に葬られました。三日目に、その墓が空になり、主イエス
の遺体はなくなりました。ここまでは歴史的な事実であって、誰もそれを否定することは
できません。聖書によれは、主イエスは復活した40日後に、天に帰られました。だから、
その後、だれもイエスのからだを指し示すことなく、今日を迎えているのです。
十字架での処刑と死、主イエスが葬られた墓は三日目に空になり、その後、そのからだ
はだれも見つけることができない。これが歴史的事実です。主イエスは復活され、天に帰
られたのか。それとも誰かが盗んで行って、その遺体を隠したので、今に至るまで見つか
らないのか。そのどちらかです。その後の弟子たちの様子やユダヤ教指導者たちの言動、
ローマ帝国による迫害とキリスト信仰者たちのふるまいを客観的に見る時に、主イエスの
復活は事実と捉えたほうが合理的です。
イエスの弟子たちは、ユダヤ教指導者たちを恐れて、隠れていました。先生と仰いでき
たイエスと同様に捕らえられ、殺されるのではないかと怯えていたのです。しかしある時
から、弟子たちは大胆に、人々に主イエスの十字架と復活による罪の赦しと罪からの救い
の福音を宣べ伝え始めました。ユダヤ教指導者たちの脅しに屈することなく、むち打たれ
てもさらに力強く、福音を宣べ伝え続けたのです。それは、ローマ帝国に迫害されてから
も変わりませんでした。なぜ彼らは変えられたのでしょうか。なぜキリスト信仰者たちは
いのちの危険に晒され、殺されても、福音を伝え続けたのでしょうか。これを合理的に説
明できるのは、主イエスの復活が事実だとうことです。彼らは復活された主イエスにお会
いしました。主イエスから永遠のいのちを、主イエスの平安を受け取ったのです。
ユダヤ教指導者たちの行動も、主イエスの復活の事実を裏付ける結果となります。彼ら
はイエスの弟子たちを脅して、福音を語らないように命じました。もし本当に、弟子たち
がイエスの遺体を盗んでいったのなら、弟子たちを脅すのではなく、拷問をして、遺体の
隠し場所を吐かせれば良いだけです。しかし彼らはそうしませんでした。弟子たちが盗ん
だのではないと分かっていたからです。
パウロの変化も、主イエスの復活を裏付けます。彼はキリスト教会を抹殺することが神
からの使命であると確信し、熱心にその使命を果たそうとしました。キリスト信仰者たち
を捕らえ、回心させ、殺すことまでしました。そうして遠くダマスコにいるキリスト信仰
者たちを捕らえ、エルサレムに引いてくる、その許可をユダヤ教指導者たちから得て、ダ
マスコに向かう、その途上で、復活された主イエスにお会いしたのです。
その時主イエスご自身から、新しい使命を授けられました。パウロは次のように証しし
ています。「主はこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見
たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人
に任命するためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのと
ころに遣わす。それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返ら
せ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた
人々とともに相続にあずかるためである』」と。彼は主イエスを信じました。そうしてキ
リスト教会の大迫害者サウロは、キリストの福音を伝える大宣教者と変えられたのです。
5節。この方によってパウロも、恵みを与えられ、使徒の務めを受けたのです。ダマス
コ途上での、復活された主イエスの現れは、神のあわれみと恵みそのものでした。神に敵
対する者として罰せられ、滅ぼされて当然なのに、罪を赦され、救い出されて、福音宣教
という全く新しい使命を委ねられ、使徒として召されたのです。その使命は、福音を伝え
ることで、すべての異邦人の中に信仰の従順をもたらすためのものです。
6節。その異邦人の中に、あなたがたもいるとパウロは言います。あなたがたも召され
たのであり、イエス・キリストのものとなっていると、ローマのキリスト信仰者に、キリ
ストとの霊的関係を示すのです。この手紙の目的は、ローマにいるキリスト信仰者である
あなたがたにも、信仰の従順をもたらすためなのです。そしてそれはそのまま、今この手
紙を読み進める私たちにも、信仰の従順をもたらすための手紙です。
ここに私たちがローマ人への手紙を読み進める目的があります。私たちキリスト信仰者
は信仰の従順を自分のものとする必要があるということです。信仰の従順を知り、それを
自分のものとするという目的を明確にして、この手紙を読み進めていきましょう。
7節。キリスト信仰者は神に愛され、神に召され、聖徒とされています。これはローマ
にいるキリスト信仰者だけのことではありません。すべてのキリスト信仰者が同じ霊的立
場にいます。神に愛され、神に召され、聖徒とされています。キリスト信仰者である私
も、あなたも同じです。
聖徒とは聖人君子のような人々を指すのではありません。神のものとされた、神の側に
いる、神の所属とされた人々を指すことばです。聖の対象語は俗です。私たちはみな、か
つては世俗の者でした。神から遠く離れた、神の側から除外された俗なるものだったので
す。それが今、聖なるものとされたということです。
キリスト信仰者である私たちは、この全く新しい霊的な立場が与えられた者であると確
認し、信仰の従順を身につけましょう。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますよう
にと、パウロは神の祝福を祈って、挨拶の部分を終えます。私たちは、「福音」「御子に
関するもの」「信仰の従順」という鍵語を基に、この手紙を読み進めていきます。
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