使徒の働きからの学びは、本日で終わりにします。次回からは、ローマ人への手紙を読
み進めようと考えています。使徒の働きは、パウロが無事ローマに行き、そこで、監視付
ではあっても、ある程度の自由が与えられての2年間を過ごした記録で終わっています。
その後釈放され、福音宣教を続けての各地訪問をし、最後はローマで殉教します。その後
の詳しい経緯は分かりませんが、テモテへの手紙第2は、殉教前の最後の手紙です。
本日は、パウロを乗せたローマ行きの船が嵐に翻弄され、いのちの危険に晒される中で
も、主のご主権に委ねているパウロの平安を確認します。私たちも、創造者である神を自
分の神として信じた者であり、主のご主権の中で、主の平安を歩む者とされています。
イエス・キリストを信じた後のパウロの生涯は、苦難と労苦に満ちたものでした。教会
外では、ありとあらゆる患難に遭い、教会内では、様々な問題の対応に明け暮れていたの
です。パウロはコリント人への手紙第2で、次のように書き記します。「労苦したことは
ずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に
直面したこともたびたびありした。ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが
五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが
三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民
から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟の難にあ
い、労し苦しみ、たびたび眠らずに夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さ
の中に裸でいたこともありました。ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、日々
私に重荷になっている、すべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くなっている
ときに、私が弱くならないでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まな
いでしょうか。もし誇る必要があるなら、私は自分の弱さのことを誇ります。」
このような苦難の連続となるなら、キリストを信じないほうが良かったと思うでしょう
か。キリストを信じ、キリストに従うことのゆえに、様々な苦しみを受けるのなら、信じ
ないほうが良いと思うでしょうか。現世利益を期待し、自分を喜ばせるために信仰する者
は、苦しみにあうことになる信仰はいらないと思うのでしょう。
しかし私たちキリスト信仰者は、全く異なるものを得ています。自分中心という罪から
解放され、神を中心として生きる、造られた本来のあり方に戻ったのです。創造者である
神を無視しての自分のための歩みではなく、神とともに歩む歩みです。主のご主権に委ね
ての歩みであり、主の栄光が私たちを通して現されることを光栄に思う新しい生き方に自
分を合わせたのです。その結果、地上生涯が苦難に満ちたものであったとしても、この世
から成功したと評価されたとしても、そんなことはどちらでも良いのです。そのすべてが
主のご主権の中で行われているのであり、それが主の最善だからです。
パウロには苦難の生涯が与えられました。多くの労苦の中で、主なる神の働きに用いら
れたのです。そのほとんどは、この世からは称賛されなかったものですし、逆に憎まれ、
怒りを買いました。しかしパウロの心から、喜び、感謝、平安、希望が失われることはあ
りませんでした。彼の足跡は主の働きに大いに用いられ、主なる神に永遠に覚えられ、現
代に生きる私たちも、彼の働きの恩恵を、それも豊かに受けています。
今パウロは囚人として、ローマに向けて船旅を始めました。そしてこれは主なる神が計
画されたことであり、ローマで主イエスの十字架と復活による罪の赦しを語るという明確
な目的があっての出来事なのです。23章11節に、主なる神からの語りかけがあります。パ
ウロがユダヤ人たちに捕らえられ、ローマ帝国下で裁判を受け、囚人とされたのは、首都
ローマで主を証しするための、神のご計画によることです。
私たちは思います。ローマで証しするためであるなら、別に囚人になる必要はないので
はないか。もっと平和な、そして安定した生活において、証しする状況を備えても良いの
ではないかと。しかし私たちはそのような、人間中心の、自分中心の考え方から解放され
ています。この世、神を無視し、神に敵対する罪人が作り上げている社会で、罪人が自分
の罪に気づき、その醜さ、惨めさ、悲惨さを知って、罪からの救いを求め、罪の赦しを得
たいと願い、真の意味で救いに与るためには、キリスト信仰者の苦難を通しての証を用い
ることも、主なる神のお考えの一つだということです。
だからパウロは、どのような状況に置かれたとしても、ある時は恐れ惑い、ある時は苦
悩に心が引き裂かれる、そのような状況において、なお主なる神を仰ぎ、主に信頼し、主
の導きを確認しつつ、主に従い通したのです。主なる神はその時々において、パウロを慰
め、力づけ、主の計画を確認させ、主の平安で満たしてくださいました。
27章3節。ここに主なる神の配剤を見ることができます。パウロを護送する役目を担っ
たユリアスという百人隊長が、パウロに対して親切であったということです。これは大き
な慰めであり、励ましとなったことでしょう。パウロには比較的自由が与えられ、行く
先々でキリスト信仰者たちとの交流を持つことも許されました。
しかし船でのローマ行きが困難を究めたことも事実です。なかなかスムーズに進めない
まま時間だけが進んでいきました。9節。パウロはこれまでの経験から、地中海の航行が
危険な季節を迎えていると知ります。パウロは難船したことが三度あり、一昼夜海上を
漂ったこともあったと証言していたように、これからの季節、船で地中海を進むことは危
険極まりないと進言したわけです。しかし11節。百人隊長は、航海士や船長のことばを信
用します。これは人間的な常識でしょう。一介の囚人の体験談よりは、プロのことばに耳
を傾ける方が妥当です。ただしプロであっても、経済効率優先の考えには無理が含まれて
いることを知っていたなら、百人隊長は違う判断をしたと思われます。
とにかく先を急いで、積み荷を一刻でも早く運ぶという経済優先の考えで、ローマに向
かう機会を探ってわけです。13節。そのような時、絶好の機会がもたらされ、これがチャ
ンスだとばかりに事を進めたのです。人間は弱いですね。私たちの信仰生活においても同
様のことが起こります。主の導きを求め、主のみこころにかなうことを求めてはいても、
私たちが本当は何を求めているか、何を優先しているかによって、正しい判断を妨げるこ
とになるのです。自分の願いを主が受け入れてくださったと思える絶好の状況になること
があります。しかし注意が必要です。その好機は、自分の願いを満たすためには絶好の状
況であっても、主のみこころにかなうことではないことがあるからです。私たちは、自分
は何を願っているのか、何を優先しているのか吟味し、冷静に判断する必要があります。
絶好の南風は、まもなく最悪の北東の風に変わりました。南風を喜んだのも束の間、北
東の風に慌てふためくことになったのです。ユーラクロンとは、クレテという島にそびえ
る山々から吹き下ろす暴風のことであって、この暴風に巻き込まれると為すすべがない状
態になります。ただその嵐が収まるのを待つ以外にないということです。
私たちも気をつけましょう。自分を優先するとき、絶好と思われる南風は、最悪の北東
の暴風に変わるいうことを覚えたいのです。自分の心が何に支配され、何を優先している
のかを吟味しておくことが大事です。主なる神に聞き従いたいと思っていても、心の奥底
では、自分の願い、自分の都合、自分の計画、自分の欲求を優先しているなら、絶好の機
会と思われる状況が差し出されたとしても、それに乗ってはなりません。それは暴風につ
ながる、そして困難を究める状況に私たちを引き込むからです。
パウロの場合は、自分が決断して暴風に巻き込まれたわけではありませんでした。避け
られない状況の中で、他人が作り出した困難に巻き込まれたと言えます。しかしパウロは
その中で主なる神に祈り、主の為されるみわざを確認しようとしていたのです。暴風の三
日間、人々は船具をはずしたり、投げ捨てたり、積み荷を捨てたりしながら、少しでも船
を軽くし、沈没しないように努力しました。しかし20節。助かる最後の望みも絶たれよう
としていたという状況にまで追いやられたのです。「私たち」とありますから、そのよう
な思いは著者のルカにも、そしてパウロにもあったと思われます。
しかしパウロは人々を励まします。22節。「元気を出しなさい。いのちを失う者は一人
もありません」と言いきります。その根拠は23~24節です。再度ローマ行きの目的が確認
されました。そして同船している人々は皆パウロと同じ助けを受けるとの約束がなされた
のです。パウロはカエサルの法廷に立ち、ローマで証しするために行くのだから、その途
上でいのちが奪われることはないというのです。24節でパウロは御使いのことばを紹介し
ていますが、御使いが語りかけるまでは、パウロ自身にも恐れがあったとわかります。
私たちも様々な困難に巻き込まれるとき、それは自分が作り出すこともあるのですが、
恐れを抱いたり、絶望感に襲われたりするのは当然と言えます。しかしそこで私たちは、
神のご主権を覚え、神のみこころを尋ね求めることができます。そして主の御腕の中にあ
る自分を確認し直し、どのような状況に追いやられたとしても、主が備えておられる最善
に自分を委ねることで、主の平安を歩むことができます。
この時のパウロは、助かるという主の約束のことばに基づいて人々を励ましました。神
のことばの通りになるという確信によって励ますことができたのです。このように言い切
れる私たちは何と幸いではないでしょうか。神のことばを神のことばとして受けとめる者
に与えられる確信です。その確信に基づいて励ますことができるのです。
27節。パウロが確信をもってみなを励ましてから、10日ほど、状況は何も変わりません
でした。しかし暴風の直中という何も変わらない状況の中で、平安を歩み続けるパウロの
存在に、人々は、安心を感じていたのではないでしょうか。33節。翌朝、パウロは人々に
食事を取ることを促し、そうして彼ら、276人全員が、無事マルタ島に上陸します。
私たちも様々な困難に見舞われます。主イエスは「あなたがたは世にあっては苦難があ
ります」と言われました。私たちが主イエスを信じたとしても、この世での安定や平穏が
保障されているわけではありません。パウロも「キリスト・イエスにあって敬虔に生きよ
うと願う者はみな、迫害を受けます」とこの世で患難にあうことについて、覚悟させてい
ます。しかし私たちキリスト信仰者は、主にあって生きようと願うときにぶつかる様々な
人生の嵐の中で、主の平安に満たされるので、人々を励まし、力づけることができます。
私たちはどのような人生の嵐に襲われたとしても、その中にともにいてくださる神、そ
の状況を真に支配しておられる神とともに歩んでいることを確認しましょう。主なる神は
最善をなさるお方であり、どのような状況をも益に変えることができるお方です。そのお
方のみことばの約束に堅く立って、主の平安の中を歩むのです。
パウロが、嵐の中で人々を、主の確信と平安によって人々を励ましたように、私たちも
人々を励まし、力づけ、主の平安に満たす者とされているのです。主の平安を歩む幸い
を、日々の生活の中で、まず私たちが味わい、そうして人々に主の平安を届けましょう。
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