北イスラエルの最悪の王アハブは戦死し、その子アハズヤが王となりました。アハズヤ
は父アハブ、母イゼベルがイスラエル王国に蔓延させたバアル崇拝の道に歩み、主の怒り
を引き起こしたと列王記第1 22章52~53節で説明されています。
列王記は、神の民イスラエルを統治した王たちの記録です。私たちは現在、ソロモン後
の王たちの記録を読み進めてきました。神の民とされたイスラエルも、その王たちも、な
ぜと思うほど、そのほとんどは、主なる神を神とせず、聞き従うこともせずに、バアル礼
拝や近隣諸国の神々を慕い求めて、社会的にも、霊的にも堕落する歴史となっています。
主なる神はそのような王たち、その王に引きずられるように霊的に堕落していく神の民イ
スラエルに、神のもとに立ち返る機会を備えて、悔い改めへと招き続けます。しかし王た
ち、そして神の民は、神を自分の主と仰ぐことを頑なに拒み続けるのです。特に北イスラ
エル王国の霊的な退廃はひどいものでした。南ユダ王国は、主なる神に信頼する王と、背
く王に影響されて、民は霊的に退廃したり、主に立ち返ったりを繰り返すのです。
これは、自分を守ってくれる神は求めても、自分を支配する主権者としての神は要らな
いという意思の表れです。自分を助ける神は必要であっても、聞き従うことを求める神は
退けるのです。この傾向は私たちの周りの人々、創造者である神を信じない人々に見られ
ます。そして私たち自身にも、この傾向はあるのです。私たちも気をつけていないと、自
分を助けてくれる神はありがたく求めるけれど、自分の支配者としての神は求めない、自
分が従わなければならない神は要らないということをしかねません。
今日の箇所は、アハズヤという王の死の記録です。紀元前852年頃のことです。私たち
はこれまで何度か、その父アハブに対する、主なる神の介入を見てきました。預言者エリ
ヤを通して数々の不思議がなされ、アハブ王と民に対して、悔い改めへの招きがなされた
のです。アハブはその時々に、少しは心を動かされるのですが、悔い改めに進むことはあ
りませんでした。主なる神を頑なに拒み、悔い改めないまま、戦死したのです。
アハズヤは、父アハブへの主なる神の介入を目の当たりにしていたのに、彼もまた、主
なる神に聞いて生きることを頑なに拒み続けたのです。そうして治世2年で、主なる神に
退けられます。
2節。アハズヤは欄干から落ちたことをきっかけに病気になります。そしてペリシテ人
の町エクロンの神、バアル・ゼブブに伺いを立てるために使者を遣わすのです。バアル・
ゼブブとは蝿の主という意味です。自分の病気は蝿を媒介にしたものであると考えたの
か、その大本の神と考えられるバアル・ゼブブに伺いを立てたということです。病気を直
してほしいと神に願い求めるのではなく、直るかどうかを伺うということに、アハズヤの
神に対する基本的な態度が現れています。真意は直りますとの宣告を受けたいのですが、
神に隷属することになるので、直してほしいとは言いたくないということです。この根本
的な姿勢が、主なる神を認めることを拒ませるのです。自分が主であるためには、絶対的
な主権者、力ある神を認めたくない、自分の主とはしないということです。
そのようなアハズヤにも主なる神は介入されます。3~4節。必ず死ぬのなら、別にそ
れを知らせなくても良いと思われます。しかしここに、主なる神のあわれみの御手が伸ば
されているのです。悔い改めの機会を備えたということです。「イスラエルに神がいない
ためか」とエリヤに語らせます。歴史の支配者、主権者である神がいることを知っている
はずではないかという問いかけです。そのお方を自分の神とあがめ、そのお方に聞き従っ
て生きるという、本来のあり方に戻るようにとの招きなのです。
5節。使者たちは預言者エリヤを知らないようですが、そのことばの厳粛さからか、す
ぐに王アハズヤの所に戻ります。アハズヤは使者たちからのことばを聞いて、それを告げ
た人が誰であるかを確かめようとしました。薄々、エリヤかもしれないという思いはあっ
たでしょう。ここにもアハズヤが悔い改める機会は設けられていました。しかしアハズヤ
は心を頑なにするのです。エリヤを敵視することで、神への反逆を続けます。
9節以降で、50人隊長とエリヤとの攻防が記されます。50人隊長は、ことばでは「神の
人よ」と尊敬を込めて呼びかけ、語りかけますが、実際には命令しています。神の権威に
基づいて行動している預言者であっても、王の権威に服従するのは当然であるという意識
です。当時の霊的な貧困状態を見ます。主なる神を恐れ敬うという意識はありません。
私たちも気をつけましょう。創造者である神を、真に自分の神として恐れ敬う意識が、
いつしか希薄になっていないかと注意したいのです。神を自分の権威の下に、神を自分の
役に立つ存在に、貶めていないかを、ことばでではなく、日々の生活において表していな
いかを吟味し、もしそのようであるなら、自分の態度を改めることが大事です。
10節。エリヤは、神の人と呼びかけた、そのことばの重みを知らせます。神の権威を知
らせたということです。神を侮ってはなりません。神を自分の言いなりにできると思って
はならないのです。50人隊長とその部下は、神からの火に焼かれてしまいました。
11~12節で、同じ状況が繰り返されます。2番目の50人隊長は、さらに厳しく王の命
令に従わせようとしたことが分かります。急いでと付け加えたわけです。「神の人よ」と
ことばでは呼びかけてみても、その心は神の人と思ってはいない、単なる呼称として語っ
ているに過ぎないのです。だから彼も、神からの火に焼かれてしまいました。
アハズヤはただ同じことを、虚しく繰り返すだけです。主なる神を頑なに拒み続けるこ
とを、エリヤを敵視し、捕縛し、殺すことで果たそうとしているかのようです。見通しの
ないいたずらな命令で動かされる部下は迷惑です。
第3の50人隊長は、真に神を恐れました。13~14節。神の人であるエリヤを恐れたの
です。彼はエリヤの前に跪き、懇願します。王の命令を受けたけれど、王の権威を超えた
権威があることを認め、主なる神の権威に自分を差しだし、いのちを助けてほしいと懇願
しました。そうして彼らは助けられました。
15節。アハズヤへの最後の悔い改めの機会です。主なる神はエリヤを遣わして、ご自分
のことばを直接語らせます。16節。アハズヤは数々のしるしを見てきたはずです。父アハ
ブ生存中に、絶対的な主権と絶大な力をもって働かれる主なる神のみわざを目の当たりに
したはずです。主なる神は繰り返し、悔い改めの機会を差し出しました。しかしアハブは
頑なに拒み続けたのです。主なる神を自分の神とすること、つまり主なる神に服従するこ
とを拒んだのです。そうして、主なる神のことばの通りに戦死しました。
それを見聞きしていたはずのアハズヤにも、ずっと悔い改めの招きが差し出されていま
した。イスラエルには絶対的な主権者である神がおられます。そのことはアハズヤも承知
しています。しかしそのお方を自分の神として仰ぐことをアハズヤもまた頑なに拒み続け
たのです。自分を支配する権威は認めないということです。
そして死の危険が及んでいる、この最後の機会にも、アハズヤは頑なに悔い改めること
を拒みました。心を頑なにする者の哀れとしか言いようがありません。そうして17節。エ
リヤが告げた主のことばのとおりに死んでいくのです。
詩篇18篇25~27節に「あなたは 恵み深い者には恵み深く 全き者には全き方。清い
者には清く 曲がった者にはねじ曲げる方。まことにあなたは 苦しむ民を救い 高ぶる
目を低くされます」とあります。私たちの主なる神への態度、姿勢が、神の私たちへの態
度、関わり方となるのです。私たちは、主なる神に対して、その愛と恵みを味わい知った
者として、主を愛し、主を信頼して、主に聞き、自分を合わせる者でありましょう。
日常生活において、自分の主なる神への態度はどうでしょうか。創造者であり、主権者
である神を、都合の良い助け主の存在に貶めていないでしょうか。自分の主権者、聞き従
うべき絶対的な神としてあがめているでしょうか。自分の好き勝手を助け支えてくれる神
であってほしいけれど、自分が聞き従う存在としての神を拒んでいることはないでしょう
か。罪人の罪人たる所以は、自分が神の立場に立ち、自分の思い通りに事を進めたいと考
えることなのです。だから主権者である神は認めたくありません。自分の好き勝手にする
ことができなくなるからです。だから神の権威を貶めて、自分を助ける存在だけの神を欲
するのです。
しかし私たちキリスト信仰者は知っています。天地万物を創造され、すべてを支配して
おられる主なる神がおられることを。私たちは素直に認めましょう。自分は神に聞き従う
存在として造られたということを、です。創造者である神を仰ぎ、素直に聞き従う自分と
するといことです。ここに私たち人間の真の幸いがあるのです。
心を頑なにしてはなりません。十字架で死なれた主イエスをとおして、私たちは神の愛
を知りました。いのちを捨てるほどの絶大な愛で愛されていることを知っています。この
お方だから私たちも愛します。このお方だから私たちは聞き従います。
心を頑なにしないで、神の愛をたえず確認しましょう。主の十字架を仰ぎ見て、いのち
を捨てるほどの愛で愛されたことを確認して、主イエスを自分の主と仰ぎ、主のことばに
素直に聞き従う者となるのです。
自分の中にある罪の性質、自己中心と戦い、打ち勝ちながら、主なる神を神とする、神
中心の信仰姿勢を確立して行くのです。日々の繰り返しが大事です。主の御前で素直に従
うことを繰り返すのです。アハブ、アハズヤ、その他、心を頑なにしたイスラエルの王た
ちの哀れに倣ってはなりません。主なる神は私たちへの最善、最良を備えて、そこに導こ
うとしておられることを忘れてはなりません。
今週のみことば ヤコブの手紙 1章 21節
ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直
に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
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