主イエスは「その人のいのちは財産にあるのではない」と語られました。冷静に考える
なら、それは当然であると同意しますね。しかし日々の歩みの中では、いつしか、いのち
は財産によって守られていると錯覚し、そうしていのちを守るために、物質的な富を追い
求め、蓄えようとしていることはないでしょうか。私たちは、神のことばは何と言ってい
るのかを確認して、そのことばに自分を合わせる信仰の歩みを、第一に求めましょう。
15節。主イエスは「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい」と言われました。そうし
て一つのたとえ話をされたのです。そのたとえ話の最後に「自分のために蓄えても、神に
対して富まない者はこのとおりです」と言われています。今日私たちは、主イエスのこと
ばから、真に神の前に富む者とされ、愚か者と言われない生涯を確認します。
貪欲とは、決して満足しない欲望です。今持っているものでは満足できず、もっと欲し
いと求めていきます。貪欲に陥ると、持っているものを有効に用いることをしないで、さ
らに求め続けます。しかし、どれほど手に入れても、決して満足することはありません。
主イエスは「人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にはない」ことを
教えるために、このたとえを話されました。20節で、この金持ちは愚か者と言われます。
それは、自分の終末について無知であり、財産によって自分は守られると錯覚し、創造者
である神と無関係に、自分と自分の持ち物により頼んでいたからです。
16節。この金持ちの畑が豊作となりました。この世の常識で考えるなら、彼は愚か者で
はありません。賢い人であり、地道に努力を重ねる人、自分の持ち物に対しても管理能力
に優れた人物です。彼が金持ちになったのも、そして今大豊作を得たのも、これまでの地
道な努力の積み重ねの結果だと言えます。肥沃な土地を作るために、毎年土地を耕し、肥
料を与えて種を蒔き、水を注ぎ、雑草を取り除くという、地道に畑の世話をしていたから
です。そして収穫があれば、それを浪費するのではなく、それを基にして次の年の計画を
立てます。このような地道な積み重ねをして、豊かな富を築いていったと考えられます。
そうしてこの年、これまで経験したことのない大豊作を得ることができました。
彼は、この世の基準で評価するなら、愚か者ではなく、賢い人、実直な成功者、怠け者
ではなく、勤勉な努力家です。大豊作で得た非常に多くの穀物に有頂天となって、それら
を浪費しないように、大きい倉を建て直し、そこに蓄えるという管理能力があり、将来へ
の生活設計をも立てることのできる人物なのです。私たちも、この部分については模範と
すべきです。手をこまねいて何もしないで、成功を収めることなどできません。できるこ
とを実直になし、地道に努力を重ねる先に成功はあるのです。
しかし彼は、いのちは財産にあるとの錯覚に陥ったのです。私たちの周りにも、この錯
覚に支配されている人たちが大勢います。私たちはそのような人たちに囲まれていて、い
つしか、いのちは財産に守られるという錯覚に引き込まれるのです。気をつけましょう。
私たちは警戒しなければなりません。いのちは財産にあるとの錯覚に陥るとき、人は貪
欲になり、物質的な豊かさを求めさせます。貪欲は、より豊かに、より多くの物質的な富
を求めさせるのです。手にしているものでは満足しなので、ここまでという目標もありま
せん。いつまでも、これで良いとはならないのです。飽くなき追求が始まり、その追求は
とどまるところを知りません。終わりのない、満足しない欲求、それが貪欲です。
この金持ちは、この世では、賢い人であり、実直な成功者です。しかし主イエスは、彼
を愚か者と呼びました。なぜ彼は愚か者とされたのでしょうか。それは彼の考えの中に神
への思いが全くなかったからです。旧約聖書の詩篇に「愚か者は心の中で『神はいない』
と言う」とあります。彼が愚か者と呼ばれた理由が、ここにあります。
彼が愚か者であったがゆえに見落としていた3つのことがあります。まず豊作は神が与
えてくださる祝福であることを見落としていました。確かに彼は、勤勉で、よく畑の世話
をしました。しかし神が彼を恵み、祝福を与えてくださらなければ、彼がどんなに努力し
たとしても、それで豊作が得られることはないのです。私たちも気をつけましょう。物質
的な祝福を手にしたのは、自分の才能や努力の結果であると錯覚してはなりません。私た
ちが健康であり、働く場が与えられ、賃金が得られているのは、主なる神の恵みが注がれ
ており、支えられているからだと覚えたいのです。私たちは生かされていて、神の祝福を
得ています。この点を見落とすと、神への感謝はなくなり、愚か者となります。
2つ目は、神は何のために物質的な祝福を与えておられるかを知らなかったことです。
彼は豊作を、どのようにしたら自分のための最善の使い方になるのかと考えました。膨大
な量の穀物と財産を、どのように神のために、また人のために用いるかを全く考えなかっ
たのです。彼の頭の中は、自分の、自分の、自分のでした。17、18節。彼は、私の作物、
私の倉、私の穀物や財産と言っています。自分ものを自分のために使うことしか考えない
ことは、真の豊かさを味わっていないと言えます。私たちも気をつけないと、持っている
ものを自分のためにしか使わなくなります。私たちは、神の様々な恵みの良い管理者とさ
れていることを覚えましょう。そして私たちが与えられたものを、主なる神のために、ま
た人のために豊かに用いていく者とされましょう。そのために、主は私たちに物質的な祝
福を豊かに与えてくださるのです。
彼が見落としていた3つ目のことは、人のいのちは、創造者である神の主権のうちにあ
ることです。19節。彼は自分のたましいに言うのです。将来のための必要はみな蓄えられ
た。もう何の心配もない。休め。食べて、飲んで、楽しめ。彼の将来設計は万全でした。
彼は物質的な豊かさの中で将来設計をし、この先は安泰だと考えたのです。しかし彼は、
自分の終末について無知でした。自分の死後についても、全く考えていなかったのです。
自分は生かされていること、そして神がご主権のうちに、自分のいのちを取られること、
死後、地上生涯について公正にさばかれることなど全く考えませんでした。
20節。厳粛な宣言です。創造者である神がすべてを与え、すべてを取られることを知ら
ない人は悲劇です。私たちは裸でこの世に生まれ、裸でこの世を去って行くのです。私た
ちは自分の意思でこの世に生まれたのではありません。そして自分の意思でこの世を去る
こともできません。すべては神の恵みと祝福であり、すべては神の支配にあると知って、
神により頼んでいる人は、真に幸いです。神が力強い御手をもって守り、養っていてくだ
さるからです。全能の神の御手が私たちを守ります。何と幸いであり、安心ではないで
しょうか。そしてキリスト信仰者は、永遠のいのちが与えられ、永遠に生きるのです。
この世は創造者である神を知りません。この世は創造者である神を知ろうとしません。
だから神の前に富むことを求めません。この世は人に、終末を考えさせないのです。世の
終わりも、自分の終わりも考えさせないで、この世を楽しむことを求めさせます。この世
は、いのちの価値は、物質的な豊かさにあるように錯覚させ、そうして私たちに、この世
の富を求めさせ、この世での豊かさを追い求めさせるのです。
私たちは注意しましょう。いのちも物も創造者である神の御手の中にあります。私たち
に地上生涯を許しておられる神は、私たちのための必要をすべて満たしてくださる祝福の
神です。私たちは、神の前で愚か者ではなく、神に対して富む者となりましょう。私たち
はこの世にどれほど多くを蓄えても、天の御国には、何も持って行くことはできません。
33~34節。天に、擦りきれない財布を作って、尽きることのない宝を積みなさいと招
かれています。天の御国に自分専用の口座を持ち、その口座に送金するということです。
創造者である神が与えてくださる物質的な富を、自分のためにだけではなく、主の働き
に参与するために、また人のためにも活用することが、尽きることのない宝を天に積むこ
とになります。私たちは、神のさまざまな恵みの良い管理者となり、委ねられたものを活
用して、主に仕える地上生涯を歩みましょう。人からではなく、主なる神から賢いと呼ば
れる地上生涯を過ごすのです。 今週のみことば ~満足し、活用する~
金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは
決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。
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