今日私たちは、私たち一人ひとりが神の最高傑作品であると、確認します。皆さまは、
自分が神の最高傑作品であると言われたとき、その通りですと応答するでしょうか。そん
なことは思ったこともないと応答するでしょうか。私たちは何を基準にして自己評価を、
あるいは他人を評価するかによって、その評価は全く変わります。私たちは創造者である
神が語られたことばを基準にして、自分を、また他人を、評価したいのです。
皆さまは、自分の存在について考えたことがあるでしょう。自分が存在しているのに意
味はあるのか。自分は何のために生きるのか。自分はどこから来て、どこへ行くのか。生
きる目的は何なのか。自分はいったい誰なのか。などなどです。
これらの問いに明確な答えを持っている人は幸いです。しかし多くの人は、自分の存在
の意味について、自分は何のために生きるのか、について、はっきりとした答えを持てな
いでいます。皆さまはいかがでしょう。
私たちがどのように存在したかを説明するふたつの大きな考えがあります。進化による
存在と、創造者である神の創造による存在です。私たちの国日本では、進化による存在が
真理であるかのように教えられています。このことが、私たちが自分の存在の意義も、意
味も、目的も分からなくさせています。
ダーウィンが進化論を唱えてから、今はずいぶんと複雑化し、細分化してきましたが、
基本的には、生命の起源を物質に、そして偶然の産物として説明します。最初に無機物が
あり、それが何らかの化学変化を起こして高分子化し、そしてたんぱく質などができ、そ
れらの高分子系が何らかのまとまりを得て最初の細胞、すなわちアメーバーができたとし
ます。そのアメーバーが少しずつ進化して複雑な細胞を持つ、少し高等な生物になり、そ
れがだんだんと進化して魚や鳥や爬虫類や哺乳類になったとする考え方です。その延長線
上に私たち人間が進化してきたという説明です。つまり、私はたまたま偶然の産物として
存在したのであって、それ以上でも、それ以下でもありません。だから自分の存在意義な
ど考えること自体が無意味であり、愚かとされるのです。自分の存在の意義や目的を考え
るよりも、この地上でどのように成功を収めるかを考えた方が良いということです。
ちなみに天文学では、宇宙の誕生は約137億年前と言われていますが、生物学では、無
機物から自然発生的にいのちが誕生し、それが進化して現在の生態系になるには、百数十
億年では短すぎる、不可能だとも言われます。
さて、なぜ私たち人間は、自分の存在の意義を求めるのでしょうか。存在の意味や目的
を考えるのはなぜなのでしょうか。進化による偶然の産物であるなら、そのようなことを
考えること自体、起こり得ないはずです。ここに、私たち人間が抱える問題があります。
偶然が偶然を呼んで、物質からいのちが生じ、生物が生まれてきたとして、また突然変
異を繰り返して、私たち人間が進化してきたとして、私たち人間だけが持っている人格は
どのように生じたのでしょうか。物質から人格的な存在が生まれたとするなら、それはど
のようなプロセスによってかは答えられません。さらに、私の存在の意味は何かという問
いには、決して答えないのです。私はどこから来て、どこへ行くのか、私が生きている目
的や意味は何なのか。人格を持っている私たちは、これらの問いに対する明確な答えを欲
しています。自分の存在の意味、目的が分からなければ、私たちは、自分の人生に意義を
見いだせないからです。しかしこれらの問いに対して、進化論は完全に沈黙します。
もし進化論が真理で、私が進化の産物として存在するなら、私の存在は偶然によって生
じたことになります。偶然の連続の中で、私はたまたま存在したに過ぎないのです。だか
ら私の存在に、意味や目的などはありません。進化論からは、たまたま運が良かった、そ
れで存在しているということなのです。そしてここから恐ろしい考え方が生まれます。
他者と比べて、相対的な見方で、有用か否かという基準で、その存在の価値を判断する
ことをします。有用であると判断されれば、その存在の価値が認められます。しかし無用
と判断されたなら、存在価値はないとみなされます。極論するなら、強いもの、優秀なも
の、力のあるもの、健康なもの、つまり役に立つと見なされるなら存在価値があり、そう
でなければ存在の価値はないと断定されるのです。しかも有用無用の判断基準は、時代に
よって変わります。恐ろしい状況です。その時代の基準で、無用と判断されたなら、存在
価値はなくなり、抹消されても仕方がないとみなされるのです。
進化論は仮定や仮説の積み重ねによる推測の産物です。それは全く証明されていない、
人間が勝手に作り上げた、一見科学的に見える思想です。しかも進化論は、私たち人間が
人格的な存在になったのかに対して、何も答えません。また私たちが心から求めている自
分の存在の意味については、沈黙するのです。
では聖書、神のことばの宣言を確認しましょう。創世記1章では、宇宙とその中にある
万物の起源、そして私たち人間の創造が記されています。聖書は、宇宙の初めや万物の存
在について、科学的な説明はしていません。万物の存在の事実を記すのです。そしてこの
記述は、現代に至る科学的な発見と矛盾しません。現代科学が示していることと、今から
3500年も前に記された聖書の記述に矛盾がないこと、このこと自体にまず驚くべきです。
そして聖書はその冒頭で、「はじめに神が天と地を創造した」と宣言することで、万物の
起源は創造者である神にあるのだと宣言します。時間が存在する前に、永遠の初めに、絶
対者であり全能である、生けるまことの神がおられ、宇宙を造り、万物を創造し、地球に
生命を誕生させ、その生命を維持する惑星とされました。何も存在しない無から、有を、
そして万物を造りだし、いのちを生じさせ、それを保っているのです。
さて、神が人間を造られたのは、一連の創造の最後です。神はすべての環境を整えてか
ら、私たち人間を他の動物とは違う、特別な存在として創造されました。4、10、12、
18、21、25節を見ると分かるように、神は創造のわざを御覧になり、それらが良いもの
であると確認しています。そして31節。それは非常に良かったと宣言されたのです。良し
とされてから、非常に良かったとされるその間になされたこと、それが人間の創造です。
人間が創造されて初めて、この世界は完全に良いものとして完成したということです。
25節。主なる神は、その「種類ごとに」動物を創造しています。これは進化論と全く対
立するわけです。「種類ごとに」という表現は、動物だけでなく、植物(12節)、水に棲む
生き物と鳥(21節)の創造でも使われています。この「種類」の枠を厳密に定めることは難
しいのですが、現代の科学をもってしても、種を越えての雑種を作り出すことはできない
わけです。犬と猫の雑種はできません。猿と人間の雑種はできないのです。
26~27節。ここに、私たち人間と他の動物との決定的な違いがあります。人間だけが
神のかたちとして、神の似姿に造られました。そしてここに、人間とは何か、私は誰か、
私の存在の意味、目的は何か、に対する答えがあるのです。
神は霊であって、形はありません。つまり、私たちが神のかたちとして造られたとは、
外形が神に似ているということではなく、私たちが、霊である神と人格的に交流できる霊
的な存在、人格を持つ存在だということです。私たち人間だけが、自分を意識する霊的な
人格を持つ存在とされました。そして人間だけが神を求め、宗教的な営みをするのです。
猿も含め、他の動物が宗教活動、礼拝行為をすることはありません。人格的存在、ここに
私たちの価値があります。自分はユニークな存在だから、存在に価値があるのです。
私たちは、この世の進化思想によって作られた価値基準に惑わされてはなりません。こ
の世の基準で、優秀だと見なされても、そうでなくても、人間としての存在価値と尊厳は
同じです。詩篇139篇13節、15~16節。創造者である神が一人ひとりを、母親の胎内で、
織り上げられました。健康であっても、病弱であっても、障害があっても、健常であって
も、その存在に、人間としての最高の価値があるのです。主なる神が、私を、あなたを造
られました。創造者である神は一人ひとりを、最高傑作品として、世界にただ一つしかな
いユニークな存在として造られました。だからこそ主なる神は語りかけます。「わたしの
目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と。
私たち人間も様々な物を作り出します。創造主である神の、物を作るという資質を与え
られたからです。人間は、材料を用いて物を作ります。創造主である神は、材料がなくて
も、造り出すことができます。これがまことの神と人間との違いです。人間は物を、目的
を持たせて作ります。時計、音響設備、電子ピアノ、椅子、テーブル、蛍光灯などなど、
あらゆる作品には目的があります。そして、その目的に従って使われる時に、存在価値を
発揮するのです。電子ピアノは音を奏で、時計は時間を知らせることで、存在の目的を果
たします。私たち人間も、目的をもって造られています。主なる神が一人ひとりを創造さ
れました。だから自分の造り主を知り、造り主から聞くことによって、自分の存在の目的
がわかります。生きる意味を見いだすのです。自分は何のために造られたのかを知ってい
るのは、私を、あなたを造られた創造者である神です。
しかし人間は、与えられた人格を、その自由意志を、主なる神に聞いて生きることでは
なく、自分の目に正しいと思えること、自分の心の欲するままを行うために使い始めたの
です。このあり方を、聖書は罪とします。罪とは的外れを意味します。創造者である神に
聞いて生きるとき、真に自分らしく、真に正しく、造られた目的にふさわしく、自由に生
きる者とされている私たちは、神の絶対的な基準を捨てて、相対的な基準で、その時々で
良いと思うことを行っているので、様々な間違いを、いろいろな罪を犯すのです。
罪に陥った私たちが、造られた本来のあり方に戻るために、創造者である神は救いの道
を備えました。神が愛であることを知らせ、神に信頼して、神に聞いて生きる者へと招く
ために、私たちを罪から救い出してくださったのです。私たちは様々な罪や間違いを犯し
てきました。皆さまはどれほどの間違いを犯し、罪や悪を行ってきたでしょうか。そのよ
うな私の罪を、あなたの罪を赦し、罪から救うために、神のひとり子、主イエス・キリス
トは十字架で、私たちの代わりに処罰されたのです。この主イエスを信じ、主イエスの十
字架は私のためであると受け入れた者は、神の自分への絶対的な愛を味わい知るのです。
あなたは神のかたちとして、神の似姿に造られました。神の最高傑作品として、世界に
ただ一人しかいない、ユニークな存在として造られたのです。自分の強さも弱さも、優れ
ている部分も劣っている部分も、そのすべてがあなたの持ち味です。私の弱さはあなたの
強さに助けられるため、あなたの劣っている部分は私の優れた部分で補うために備えられ
たものです。強弱も、優劣も、助け合い、愛し合い、補い合うために与えられていると受
け止めるなら、平和な社会を作り上げる一員として用いられるのです。
主なる神の愛の中を生き、神のことばを聞き、神のことばを行う一歩を踏み出して、神
と共に生きる時、どのように生きることが、真に自分らしく生きることになるのかを見い
だします。あなたのために、私のために、十字架で死なれた主イエスを信じることで、神
の自分への絶大な愛を味わい知り、神を愛するがゆえに神に聞いて生き、神の愛で互いに
愛し合う。この、全く新しい生き方を、主イエス・キリストを信じる信仰によって始める
のです。あなたも私も、神の最高傑作品なのです。
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