本日はペンテコステです。ギリシア語の50がペンテコステースで、これが語源です。主
イエスが十字架で死なれ、三日目に死者の中から復活した日から50日目に、聖霊が賜物と
して、主イエスを信じる者の心に遣わされ、ずっと心に住んでくださることの記念の日、
聖霊降臨日です。またキリストの教会が誕生した記念の日でもあります。
今日私たちは、ペンテコステの出来事そのものではなく、聖霊に導かれて、主の働きに
用いられているパウロについての記録から、みことばを確認します。私たちは第3主日に
使徒の働きを読み進めていますが、使徒の働きとは、使徒たちを通してみわざをなされる
聖霊の働きの記録です。聖霊がどのようにキリスト信仰者を用いて働きを進めておられる
かという視点で、使徒の働きを読み進めることが大切です。
パウロを用いての3回にわたる伝道旅行が終わりました。パウロは、エルサレムの教会
に、ギリシアの諸教会からの支援献金を届けるために、エルサレムに来ました。そのパウ
ロを、ユダヤ教徒たちは目の敵にして、まさに殺そうとしたのです。その時に、主なる神
はローマ兵を用いて、その困難から救い出されました。私たちが地上生涯においてなお使
命が委ねられているなら、主なる神はどのような危険、困難からでも救い出します。
パウロは自分の生涯を証する機会を得ました。前回私たちは、パウロの証から、自分の
救いの証について、つまり、主イエスを信じる前の自分はどうであったか、どのようにし
て主イエスを信じることになったか、主イエスを信じた後どのように変えられたかを、ま
とめておくことの重要性を確認しました。
さて今日の箇所ですが、ユダヤ人たちは、パウロの証を最後まで聞かないで、パウロを
排除しようとしたことが分かります。24節。その騒乱を鎮めようとしていたローマ軍の千
人隊長は、なぜユダヤ人たちがこれ程までにパウロを抹殺しようとしているのか、その理
由を調べるためにパウロの鞭打ちを命じました。拷問による取り調べを命じたのです。
この時パウロは、自分の身分を明かします。25節。百人隊長に、自分はローマ市民であ
ることを述べ、ローマ市民を、裁判もかけずに、つまり有罪判決が出ていない段階でむち
打つことの不法を訴えたのです。ローマ市民は、ローマ帝国内で、特別な権利が認められ
ていました。なぜパウロはこの時、ローマ市民権を行使したのでしょうか。
今日交読した聖書の箇所では、パウロは初め、市民権を行使しませんでした。ピリピの
町で住民たちに訴えられたときに、パウロは弁明することもせず、自分がローマの市民で
あることも公表せずに、何度もむちで打たれ、牢に入れられたのです。パウロは自分の権
利をむやみに主張することはしませんでした。主張するならむち打たれるという不当な扱
いを避けることができるのに、それをしなかったのです。むち打たれ、投獄されることを
甘んじて受けることは、主の主権に委ねているパウロの、聖霊による導きではなかったか
と思います。むち打たれ、投獄されることにも、主の導きを覚えていたのでしょう。
使徒の働き16章で、パウロは当初、アジア州での福音宣教を考えていました。トルコ半
島の最西部にあるアジア州に福音を伝え、その後エーゲ海を越えてヨーロッパ宣教へ、と
いうのがパウロの計画でした。しかし聖霊がそれを禁じました。そして聖霊の導きを受け
てヨーロッパへと渡り、マケドニア州の植民都市ピリピでの福音宣教の場が備えられた結
果として、その騒動に巻き込まれたのです。そのような経緯の中で、主の主権を覚え、聖
霊がなさるみわざに自分を委ね続けようとしたのだと思います。
そうしてパウロは、牢獄の看守とその家族に福音を伝え、家族全員が救いに与るという
主のみわざに用いられました。そしてパウロは釈放時に、自分がローマ市民であることを
明かすことで、ピリピに誕生したキリスト信仰者たちの群れを、反対する者たちから守る
手立てとしたのだと考えられます。
パウロは常に、聖霊に導かれての信仰の歩みを目指していました。そうしてキリスト信
仰者たちにも、聖霊に導かれての歩みを促していたのです。ガラテヤ人への手紙では「私
たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか」と。
そのようなパウロですから、この22章での、ローマ市民であることの公表は、ローマ軍
からの鞭打ちを避けると同時に、ローマへ行くまで、ローマ帝国の保護に身を置くのが良
いと、聖霊に導かれて判断したのだと考えられます。パウロは19章で、御霊に示されてエ
ルサレムに向かうときに「ローマも見なければならない」と語っていました。
ローマ市民であることを打ち明けられた百人隊長は、千人隊長に報告します。26節。
ローマ市民権を持つ者を、裁判もかけずにむちで打とうとしたことを、ローマ総督に知ら
れたなら、その責任を取らせられることになります。何の罪の見出されなかったとしたら
相当の罰を受けることにもなりかねません。だから千人隊長は事実を確認したのです。
27~28節。千人隊長は多額の金を払って、ローマ市民権を買い取ったのですが、パウ
ロは生まれながらの市民でした。市民権を持っていても、生まれながらの市民か、市民権
を買い取ったかで、市民としての権利の差があります。だから29節。パウロが生まれなが
らの市民であることを知った兵士たちは、一様に恐れたのです。
今日私たちは、パウロが自分の持っている権利をどのように使ったのかを見ました。私
たちも、置かれた社会で、いろいろな権利を持っています。その権利を主張することがで
きますし、主張して良いのです。しかし私たちは、主にあって、主の主権の中で、どのよ
うに使うのか、使わないのかを、慎重に判断することが大事です。そのために祈りとみこ
とばによる霊的な整えが重要となります。主のみこころを求め、主のみわざに参与するに
あたって、当然主張できる権利を、あえて主張しないということもあり得るからです。
パウロはコリントの町で福音を伝えるときに、自分の権利を主張しなかったことを手紙
に書き記しています。「同じように主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活の
支えを得るように定めておられます。しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでし
た。また、私は権利を用いたくて、このように書いているのでもありません。それを用い
るよりは死んだほうがましです。私の誇りを空しいものにすることは、だれにもできませ
ん」と。さらに次のようにも書き記しています。「私はだれに対しても自由ですが、より
多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷になりました。ユダヤ人にはユダヤ人のよ
うに・・・弱い人たちには、弱い者に・・・すべての人に、すべてのものとなりました。何とか
して、何人かでも救うためです。私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音
の恵みをともに受ける者となるためです」と。福音を伝えるための妨げとなるなら、自分
が持っている権利を放棄するという姿勢を身につけていました。
パウロはキリストとその教会を迫害して、神に敵対する者となっていました。しかし神
のあわれみによって、自分の間違いを知らされ、罪を悔い改めて罪を赦され、救いに与る
者とされたのです。しかも主イエスの十字架と復活による罪の赦しと罪からの救いの福音
を伝える宣教者とされる特別な恵みを与えられました。だから、神の一方的な恵みによっ
て与えられた救いと、自分に委ねられた福音宣教の使命に忠実であろうとしたのです。
パウロはローマ人への手紙で次のように書き送っています。「私たちの中でだれ一人、
自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もないからです。私たちは、生き
るとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにして
も、死ぬにしても、私たちは主のものです」と。私たちとは、主イエスを信じた者たちで
あり、十字架の死によって滅びからいのちに移される恵みを受け取った者たち、私たちキ
リスト信仰者です。私たちは、このパウロの告白を、自分の告白とするでしょうか。
とを知り、そのために神の御子、主イエス・キリストが十字架で死んでくださったのは、
私のためであると受け入れて、罪の赦しと罪からの救いに与りました。滅びからいのちに
移され、永遠のいのちを持つ者とされ、死後のさばきの座で、さばくべき罪は何もないと
の宣言を受ける者とされています。
私たちの地上での歩みは、旅人として、寄留者としての歩みとなりました。この世の歩
みを終えて、天の御国に凱旋していきます。この世のものではなくなった私たちが、この
世での歩みが与えられているのは、主イエスによって、この世に遣わされたからです。そ
の目的は、神の栄光を現し、人々に福音を伝えるためです。キリストのからだである神の
教会が建てあげられるために、キリスト信仰者は、キリストのからだを構成する、大切な
各器官を担っており、互いに結び合わせて、組み合わされて、一つのからだとして、愛の
うちに成長していくのです。
この委ねられた使命を果たすために、私たちは互いの権利を尊重し、必要とあらば、自
分の当然の権利を放棄することもします。まさに「私にとって生きることはキリスト、死
ぬことも益です」とパウロがピリピの教会に書き送ったとおりです。「私たちは、生きる
とすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます」とパウロは告白したのです
が、主イエスを信じ、主イエスを自分の主とあがめて生きる私たちキリスト信仰者も、こ
の告白を、自分の告白として、心からしようではありませんか。
今週のみことば。ローマ人への手紙13章3節に「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行
いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行
いなさい。そうすれば、権威から称賛されます」とありますが、1節では「上に立つ権威
に従うべきです」とパウロは命じました。その理由は「神によらない権威はなく、存在し
ている権威はすべて、神によって立てられているから」です。
私たちは、この世の権威ある者を意識するのではなく、真の権威を持つお方を意識する
ことが重要です。主なる神の御前での善を行うことを求めているなら、世の支配者を恐ろ
しく思うことをしなくなります。真に恐れるべきお方を恐れることが、この世での歩み、
言動を、真に善を行うことへと向かわせるのです。それぞれに与えられている権利を、正
しく使う自由を身につけましょう。使う自由、使わない自由を、私たちは主にあって、正
しく用いることになるのです。
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