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2024年5月12日 礼拝「へりくだる者をあわれむ神」列王Ⅰ21:17~29

更新日:5月13日

 今日私たちは、北イスラエル王国史上最悪の王アハブが、主なる神の前にへりくだり、

主なる神がそれを受け止めてくださった出来事を見ます。私たちが主とあがめる、創造者

である神は義の神で、罪を罰するお方ですが、罪人がへりくだり、主なる神に立ち返るこ

とを待っておられる愛の神でもあることを確認します。

 アハブは北イスラエル王国中に、バアル崇拝という偶像礼拝を蔓延させました。彼の妻

イゼベルが、バアルの祭司で、シドン人の王エテバアルの娘であったことが、アハブの霊

的堕落を引き起こしたのです。しかしどのような理由であれ、きっかけであっても、アハ

ブが偶像礼拝の罪を蔓延させた張本人であることに変わりはありません。

 この21章前半には、神のことばに忠実であろうとして、アハブ王の要求を拒んだナボテ

が殺害される事件が起こります。1節。ナボテが持っていたぶどう畑は、アハブの宮殿の

そばにありました。2節。アハブはナボテにその畑を譲ってほしいと頼みます。しかしナ

ボテはその要求を拒むのです。3節。神の律法を、ことばとして知っているアハブは、そ

の拒絶を受け入れざるを得ませんでした。しかし4節。アハブ不機嫌になり、食事もしよ

うとしなかったとあるほどに激しく怒っていたのです。その姿を見たイゼベルがナボテ殺

害を企てました。アハブはぶどう畑を奪い取るために、ナボテの畑に来るのですが、預言

者エリヤが遣わされ、神のさばきが宣言されたのです。17~18節。

 19節。この罪の責任は、イゼベルではなく、アハブが負います。イゼベルが悪事を働く

ことを予測しながら、それを放置したのがアハブだからです。神はエリヤを通して、アハ

ブが殺害と強奪の罪を犯したと糾弾されました。その処罰として、犬たちがアハブの血を

なめるという預言は22章で実現します。

 アハブに対するさばきの宣告は21~22節です。アハブが引き継いだオムリ王朝の滅亡が

予告されます。その実行役として、次の王朝に定められているニムシの子エフーが選ばれ

ました。私たちが前回、19章で、主なる神の予告を確認したとおりです。

 主なる神は義の神であり、私たちが犯した罪を見過ごしにすることはありません。必ず

報いを与えるのです。私たちは主なる神を正しく恐れる必要があります。神は侮られるよ

うな方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになるのです。

 22節。ヤロブアム王朝が滅ぼされ、バアシャ王朝が滅ぼされ、そうしてオムリ王朝への

滅亡が宣告されました。主なる神はあわれみ深く、悔い改めへの招きをして待っておられ

ますが、悔い改めることはないと判断されたとき、滅ぼし尽くすのです。私たちは主なる

神を正しく恐れて、へりくだることが大事です。

 25~26節。アハブについての評価です。自らを裏切って主の目に悪であることを行った

と言われています。彼が取り入れた偶像礼拝は甚だしいものでした。妻イゼベルがそその

かしたのであると、イゼベルがきっかけとなったのは事実ですが、そそのかされ、自らを

裏切り、主の目に悪であることを行ったのはアハブそのものでした。人のせいにしてはな

りません。そそのかされてはならないのです。自らを裏切ってはなりません。それらは自

分の意思による選択であり、実行したのは彼の決断によることなのです。

 私たちも様々な惑わしを受け、そそのかされる危険はあります。しかしそれに引き込ま

れるか、引き込まれないかは、主なる神を意識しているかにかかります。自分をいつも、

主の前に立たせているなら、そそのかしや惑わしに引き込まれることはありません。

 使徒ペテロはその手紙で次の警告をしました。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あ

なたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回って

います」と言うのです。獲物を狙う肉食獣は、吼えたけることはしません。風下から姿勢

を低くして近寄り、捕らえることができると判断したときに襲いかかるのです。

 私たちの敵である悪魔は、吼えながら探し回るとあります。だから霊的に目覚めている

なら、悪魔が近づいて来たことも、その策略にも気づくはずです。だから「目を覚まして

いなさい」と注意勧告がなされます。続けてペテロは言います。「堅く信仰に立って、こ

の悪魔に対抗しなさい。ご存じのように、世界中で、あなたがたの兄弟たちが同じ苦難を

通ってきているのです」と。

 主の兄弟ヤコブも書き記しました。「神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪

魔はあなたがたから逃げ去ります」と。私たちが信仰に立っているなら、悪魔は私たちに

打ち勝つことはできないのです。私たちキリスト信仰者は、霊的に目を覚ましていて、主

なる神から引き離そうとする様々な策略に対して、毅然と対抗することが大事です。主と

ともにいる私たちに対して、悪魔は何もすることができません。

 アハブは霊的に盲目になり、イゼベルのそそのかしに引き込まれ、偶像崇拝という、主

なる神が最も忌み嫌う霊的堕落を拡げました。その報いとして処罰が宣告されたのです。

23~24節。その宣告は酷たらしいものでした。

 27節。その宣告を受け、アハブは打ちひしがれます。自分の外套を裂き、身に粗布をま

とって断食をしたとは、悔いたことの表明です。ただ悔いはしたけれど、悔い改めには進

まなかったことが、この後の歴史を見ると確認できます。

 28~29節。主なる神はあわれみに富むお方です。悔い改めには進まなかったけれど、神

の前にへりくだった事実を受け入れ、アハブの生存中には、宣告された処罰は行わないと

誓われたのです。アハブは主なる神を侮らずに、心からの悔い改めに進むべきでした。そ

うしたなら、主なる神は、宣告を思い直されたはずです。主なる神はイスラエルの前に、

祝福とのろいを置かれました。神に聞き従うときには祝福し、神に背くときには呪うと言

われたのです。レビ記や申命記でも確認できますが、今日はエゼキエル書を見ます。

 預言者エゼキエルを通して語られた主のことばです。33章12~16節。主なる神が「あ

なたは必ず死ぬ」と言っても、彼が自分の罪から立ち返り、公正と義を行い、いのちの掟

に従って歩むなら、彼が犯した罪は何一つ覚えられず、「彼は必ず生きる」と宣言される

のです。この逆も言われていますが、主なる神は、私たちが自分の罪を認め、悔い改め

て、罪を離れることを待っておられるのです。

 主イエスを通して定められた新しい契約に生きる私たちにも、この原則は同じです。そ

して私たちが神に義と認められるのは、救い主イエス・キリストを信じること、あの十字

架は、私の罪を赦すための身代わりの処罰であると受け入れることによってであると言わ

れています。主イエスを信じる者は、過去がどれほどの罪にまみれていたとしても、何一

つ覚えられることはなく、罪のない者、罪を犯さなかった者と見なされるのです。これが

赦されるということです。主イエスを信じる以外にこの救いは与えられません。

 アハブは主の前にへりくだりました。その行為を主は喜ばれたのです。そうして、宣告

した処罰を思い直されました。もしアハブが真の悔い改めに進み、主が定めたいのちの掟

に歩む者と変えられたのなら、その後の歴史も変えられたでしょう。しかしアハブは、真

に悔い改めることはしませんでした。そうして彼は22章で戦死します。アハブの子たちは

偶像崇拝を引き継ぎ、その子ヨラムの時代に、23~24節で言われたとおりの、主のさば

きが実行されるのです。

 今日私たちは、主なる神を再度確認しましょう。聖書を通してご自身を知らせておられ

ることを通して、創造者である神を知ることが大事です。自分がどう思うかではなく、自

分が願う神であってほしいと期待するのでもなく、主なる神はご自分をどのように紹介し

ておられるかを知って、そのままを受け入れて、自分の神とすることが重要なのです。

 主なる神はアハブに対して、すぐにさばきを行うことはしませんでした。その治世は22

年であり、長い期間を北イスラエルの王として立てておられたのです。主なる神がなぜア

ハブを退けることをせずに、偶像崇拝が国中に広まることを許可されたか。その真意を私

たちは正しく知ることができません。しかし神は、アハブをイスラエルの王として立て、

預言者エリヤを遣わして、繰り返し悔い改めへと招きました。しかしアハブが悔い改める

ことはなかったのです。今日の箇所で、そのさばきの恐ろしさのゆえに、打ちひしがれま

すが、それは悔い改めではありませんでした。アハブのように悔い改めようとしない者に

対して、公正なさばき主である神は、罰せざるを得ないのです。

 私たちは神の愛を、いのちを捨てるほどの愛で神に愛されていることを伝えます。私た

ちキリスト信仰者は、神を愛を受け入れ、神の愛を味わい知った者として、大胆に神の愛

を伝えるのです。そうして私たちは、人々に伝えます。あなたがどれほどの罪を犯してい

しても、主なる神はその罪に赦しを備えて、あなたを待っておられますと。

 すべての人の罪に赦しを備えるために、神の御子は、神のあり方を捨てて人となられ、

私たちの世界に生まれました。罪のないお方が、罪を全く犯すことなく、神の前に義と認

められる地上生涯を過ごされ、その上で、私たち全人類の罪をその身に負って、十字架で

身代わりの処罰を受けたのです。それは私たちに罪の赦しを備えてくださるためです。

 主イエスの十字架の死は、私の罪を赦すための身代わりの処罰であったと受け入れ、主

イエスを神とし、救い主と信じ、自分の主とあがめるとき、私たちは罪の赦しと罪からの

救いを受け取ることになるのです。主なる神は、私たちをこよなく愛し、すべての人が悔

い改めて、ご自分を神としてあがめるようになることを望んでおられるのです。

 創造者である生ける神は、愛の神であるとともに、義の神でもあります。愛の神は、す

べての罪人に罪の赦しを備えて招き続けておられます。私たちのすべてを愛して、だれを

も受け入れようとしておられます。しかし義の神は、私たちのうちにあるどんな些細な罪

をも憎み、ことごとく罰するのです。神は私たちを愛して、受け入れたいと考えておられ

ますが、罪を抱えている私たちをそのままで受け入れることはしません。神の義は罪を罰

するからです。この解決のために、神の御子の十字架が備えられました。神は、罪のない

神の御子に、私たちのすべての罪を負わせて罰することで、罪の罰を終わらせたのです。

 主なる神は私たちに、罪の赦しを差し出して、罪を悔い改めて、救いに与るようにと招

き続けています。あの十字架は私の罪を赦すための身代わりの処罰であると受け入れ、主

イエスを自分の救い主として信じ、自分の主と仰ぐ者を、主なる神は、罪のない者、罪を

犯さなかった者と見なされるのです。これは真にへりくだることによってのみ可能となり

ます。

 私たちは主イエスを信じ、十字架による罪の赦しを受け取るとき、罪のない者と見なさ

れるので、主なる神は私たちを、神の子どもとして受け入れるのです。「神は高ぶる者に

は敵対し、へりくださった者には恵みを与えられる」のです。

 主なる神を正しく恐れて、主の御前で、へりくだり続ける者でありましょう。


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