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2024年5月5日 礼拝「神を正しく恐れる」ルカ12:1~7

 主イエスは、ユダヤ教宗教指導者たちを厳しく叱責しました。彼らの、神のことばに対

する、表面的で、形式的な向き合い方を糾弾し、それはわざわいだと言うのです。先ほど

交読した11章37節からの箇所で指摘されたことは、彼らの、神を恐れない、自分に都合

良く神のことばを曲げてきた言動に対する叱責です。それは、民に対して、神に立ち返ら

せる救いを知らせる使命が委ねられているのに、彼らは、神のことば、律法を、民を束縛

する窮屈な規定に、救いの喜びから遠ざける人間の教えに、引き下げていたからです。

 1節。主イエスは、数え切れないほどの群衆が集まってきたときに、民衆にではなく、

まず弟子たちに話をされました。その内容は、第1に、パリサイ人のパン種、すなわち彼

らの偽善に気をつけるように、です。なぜ群衆にではなく、弟子たちに語られたのでしょ

うか。それは、群衆の多くはまだ、パリサイ人たちを、その立場のゆえに、尊敬し、信奉

していたので、主イエスの断罪を素直には受け入れられないと判断されたからでしょう。

 第2は4節。真に恐れなければならない方は、ゲヘナに投げ込む権威を持つ神です。

 第3は6~7節。主イエスを信じる者は、神に忘れられてはいないことです。

 まず2~3節。なぜ宗教指導者たちの教えに気をつけるのかは、彼らの教えは偽善だか

らです。彼らは神を信じていると口では語り、神のことばを伝えているつもりです。だか

ら多くの群衆は彼らの教えに従って歩んでいました。しかし民衆の多くは疲れ切っていた

のです。事細かに規定された言い伝えの律法を義務的に守らされていることの疲れです。

モーセを通して神が定められた律法ではなく、その律法を生活にどのように適用すべきか

を定めた指導者たちによる人間が作った規定であり、それらの言い伝えの律法によって、

神が定めた律法の本来の意味が否定されることで、神の民イスラエルは、指導者も、多く

の民衆も、神ご自身を退けたのです。それが偽善の教えと言われる所以です。

 しかし偽善は隠されたままになることはありません。必ず偽善であることが明らかにさ

れる時が来ます。神ご自身が明らかにするからです。主イエスが宗教指導者たちを糾弾す

ることで、彼らの偽善が明るみに出され、神への背きとして断罪されたのです。

 彼らは、人々には、表面的には神に従っているように見せていますが、その心は、神と

人に仕えようとはせず、神のことばを使って、民衆を支配していました。主イエスは、そ

れらを暴露されたということです。

 第2のことは4~5節。私たちの存在は、この地上生涯だけではありません。もし地上

生涯だけであるなら、この主イエスのことばは意味のない警告となります。そうして私た

ちは、いのちを奪おうとする者に対して、神経質に警戒する必要があります。しかし、地

上生涯は私たちの全存在の一部、永遠の中の一瞬でしかありません。

 私たちはだれもが、死の時を迎え、地上生涯を終えます。長寿を全うしての死であって

も、事故でいのちを奪われるとしても、何らかの事件に巻き込まれて死んだとしても、重

い病気にかかって死ぬとしても、死に方はいろいろあるけれども、必ず死ぬという厳粛な

事実を、真正面から受け止めておく必要があります。そしてその後も、私たちの存在、霊

の存在は続くのです。人々の多くは、どのように死んだか、その死に方にまで、幸不幸を

当てはめようとしますが、ほとんど意味のないことです。

 どのような死に方をしたかは、残された人々には意味があっても、死ぬ本人には全く意

味がないからです。死に方はいろいろあっても、死の現実は変えられません。殺されると

いう、悲劇的で、不本意に思えることも、死の一つの形態です。それを必要以上に恐れる

ことはないのです。殺されるよりは、長寿を全うして、平穏無事に、楽しく過ごし、みん

なに惜しまれて死ぬことができるなら、それは、周りの人にとっても良いことでしょう。

 しかしどのように生きたとしても、いつかは必ず死の時を迎えます。地上生涯の終わり

は定められています。だから、たとえ殺される状況に巻き込まれたとしても、殺そうと脅

す者たちを恐れて、自分の信仰を捨ててはなりません。殺されることを恐れて、真理を偽

りと取り替えたり、悪の道に妥協したなら、その悪に対する当然の報いを受けるのです。

 5節。主イエスは、真に恐れなければならない方について語ります。私たちが真に恐れ

なければならない方は、殺した後でと言われるお方です。殺した後でとは、どのような形

の死であれ、それが、殺された結果だとしても、その死を許可されたのは創造者である神

ということです。この厳粛な事実を覚えておかなければなりません。

 創造者である神が私たちの生存を許可しておられるので、私たちは地上生涯を歩んでい

ます。そして主なる神が許可された時、私たちはこの世を去ります。主なる神が許可され

ないならば、どれほど危険の状況に置かれたとしても、私たちは守られます。そして主な

る神が許可されたとき、私たちが厳重に自分を守ったとしても、この世を去るのです。そ

して死後、主なる神は私たちを、すべての人を公正に裁きます。

 人が私たちに関与できるのは、生きている間だけです。その最大の加害は殺すことまで

で、殺した後は何もできません。私たちが真に恐れるべきお方は、私たちの死後に対して

関与される創造者である神です。私たちの罪を見過ごしにはなさらずに、必ず罰し、ゲヘ

ナに投げ込む権威を持っておられるお方です。このお方を真に恐れなければなりません。

 さて、私たちが真に恐れなければならないお方は、私たちとどのように関わろうとして

おられるのでしょうか。これが第3のことで、6~7節です。ここで主イエスは、恐れる

ことはありませんと命じます。私たちが真に恐れなければならないお方に対して、正しい

恐れを持つなら、恐れることはなくなると言われたのです。

 5羽の雀は2アサリオンで売られていると主イエスは言われました。アサリオンとは当

時の通貨の単位で、8レプタに相当します。レプタは一番小さい硬貨、アサリオンは下か

ら3番目の銅貨であり、日本なら10円銅貨にあたります。2アサリオンだから20円と単

純に換算できませんが、雀は安価に買えると言えるでしょう。

 マタイの福音書では、2羽の雀は1アサリオンで売られているとあります。つまり2ア

サリオン出すと1羽おまけになります。このような雀の1羽でも、神の御前で忘れられて

はいません。とするなら神は、神のかたちとして創造されたあなたに対しては、どれほど

の関心を寄せ、覚えているかを悟りなさいと主イエスは言われるのです。あなたの髪の毛

さえも、すべて数えて知っているほどに、主なる神はあなたに関心を寄せ、あなたの必要

をを満たそうとしておられるのです。人を恐れて心配になるのではなく、主なる神をこそ

正しく恐れて、神との正しい関係を歩むことで、心からの安心を得るべきです。

 人を恐れるのは止めましょう。創造者である神を正しく恐れるとは、自分を振り返り、

罪を正直に認め、素直に悔い改めることです。差し出されている救いを感謝して受け取る

ことが、神を神として認めることです。あなたの髪の毛を知っているほどに、あなたのす

べてを知り、あなたの罪をもすべて把握した上で、あなたを招いておられるお方です。

 このお方を正しく恐れるとき、私たちは人を恐れる誘惑から守られます。真に正しい生

き方を、公正な神の御前で行うように整えられます。この方は私たちと共に歩み、私たち

を生かします。恐れることはありませんと語られる主イエスを仰ぎ、本当の安心を味わい

つつ地上生涯を歩み続けることができます。あなたは愛され、覚えられているのです。

 箴言に「人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。

支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である」とあります。人を

恐れて罠や惑わしに引き込まれるのではなく、創造者である神を正しく恐れて、神の御前

で正しく歩む私たちとされましょう。

 今週のみことば 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありませ

ん。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅び

を刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」

 創造者である神を侮ってはなりません。私たちをこよなく愛される神は、どんな些細な

罪や過ちも見過ごすことをせず、必ず罰するお方です。愛の神であり、義の神であるがゆ

えに、神の御子を世に遣わし、十字架で、すべての人の罪に赦しを備えたのです。


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