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2024年4月28日 礼拝「主イエスの権威に従う」 ヨハネ5:1~9

 私たちは自分の人生を歩む中で、いろいろな問題にぶつかります。病気をしたり、精神

的に落ち込んだり、経済的なトラブルに巻き込まれたり、思いがけない事件や事故に遭う

こともあります。解決の糸口が見えないこともあります。そのすべてが自分の罪に原因が

あるとは限らないのですが、明らかに自分の罪が原因になっていることもあるのです。

 さて、みなさまは今、どのような問題を抱えているでしょうか。それが自分の罪が直接

の原因となっているとしても、自分の罪とは関係なく起こっているとしても、主なる神は

それらを、私たちの益のために用いることができます。それを得させるのは、神の権威に

従うことによってです。主なる神はすべてを働かせて益とするお方です。また私たちは、

問題や病を通して、自分の生き方を、主にあって是正することもできます。

 今日私たちは、一人の男性の癒しを通して、主イエスの権威に従うときに起こること、

そしてその後の、主イエスの促しについても確認します。

 今日の聖書の箇所に、38年もの長い間、病気で横になっている男性が登場します。彼が

が寝ているのは、エルサレムにあるベテスダの池を囲む回廊です。そこには大勢の病人や

障害者が伏せっています。彼らが何を待っているかは、脚注に記されています。3節。

 当時主なる神は、病人や障害者たちのために、あわれみのみわざを行っていました。主

の使いがこの池に降りてきて水を動かす時、最も早く池の中に入った者は、どれほどの重

病でも、どれほどの障害でも癒されたのです。だから医者から見放された、直る見込みの

ない病人や障害者たちはこの池の周りに床を敷いて、その瞬間を待ち続けていました。

 5節。この男性も、他の病人たちと同様に、ベテスダの池で起こる奇跡に期待して、床

を敷いていました。しかしいつも後れをとるのです。主の使いが降りてきて池の水を動か

すときに助けてくれる人は誰もいない、これがこの男性の38年間でした。

 38年もの長い間、病気の癒しを願い、奇跡に与ることを期待してその場にいながら、い

つも後れを取り、自分以外の人が癒されていくのを見続けている生涯。誰か助けてくれる

人を求めても、誰にも相手にされない惨めさ、寂しさ。もう病気が直る期待もなくしてい

たと思います。かといってその場から離れることもできません。本当に惨めで、悲しい生

涯だと言えます。もし皆さまがこの男性であるならどうでしょうか。希望もなく、毎日池

を眺め、そして奇跡的に癒されていく人を見て、良いなと思う。その繰り返しです。

 6節。そのような男性に、主イエスは、ご自分の神としての権威で「良くなりたいか」

と声をかけたのです。主イエスは、病気を直す権威を持っている神です。もう絶望してい

るけれど、そこを離れられないこの男性に、癒しへの招きをしたということです。

 私たちの癒し、私たちの回復、私たちの救い、私たちの解決のために、神の側から近づ

いてくださることに、主の恵みがあります。主なる神は私たちをあわれみ、苦難の中にい

る私たちを可哀想に思い、私たちが救いや助けを求めることができるように、そのきっか

けを備えてくださるのです。だから私たちは、主なる神に対して救いを求める思いが生じ

たなら、その機会を無駄にしてはなりません。素直に主に助けを求めることが大事です。

主なる神は私たちの状態にかかわりなく、豊かな恵みで救いへと招いておられます。

 この男性は主イエスの語りかけに、もしかしたら自分を助けてくれるかも知れないと期

待を膨らませました。それまで声をかけてくれる人もいなかったでしょう。それで7節。

彼は、ベテスダの池に奇跡が起こるとき、自分を入れてほしいという願いを込めて、自分

の実状を話したのです。

 良くなりたいに決まっています。良くなれるなら、そうなりたい、彼はずっとそう思い

ながら、池のそばに伏せっていたのです。主イエスは、そう思っているであろう男性に、

あえて問いかけました。良くないたいと願っているのは分かっている。では、良くなるた

めに、行動を起こす気はあるのかとの問いかけなのです。ただ漫然と願っていても、状況

は変わりません。何の解決にもなりません。良くなるための一歩を踏み出す意思はあるか

という招きを、主イエスはこの男性にしたのです。

 そうして8節。主イエスは、彼が思いもしなかった行動を命じます。「起きて床を取り

上げ、歩きなさい」と。これは、さらに残酷な命令ではないでしょうか。38年間も伏せっ

ています。どう歩けば良いのかさえ忘れてしまっているでしょう。筋肉もありません。歩

くなど絶対に無理です。しかし主イエスは、人間的には不可能、をあえて命じました。

 この命令で主イエスは、この男性の信仰を問いました。ご自分を権威ある神と信じるか

という問いです。信じるとは、その相手に従う意思の表明をすることです。主イエスは、

良くなりたいのなら、ご自分に従うようにと招きました。ご自分を権威ある神と認め、そ

の信仰によって、ご自分の命令に従うことを求めたのです。

 私たちが主イエスを信じることも同じです。神を信じるとは、神の語りかけに従って行

動を起こすことです。神のことばを聞いて、そのことばを生きること、それが神を信じる

とことです。信じていると口でどれだけ言っても、神を信頼して、神のことばに自分を合

わせて、一歩足を踏み出さなければ、信じていないことと同じです。信仰による行動を起

こさない限り、何も起きません。信じるとは、神を信頼するので、そのことばに自分を委

ねること、そのことばに自分を合わせて生きることなのです。

 主イエスは、あえて不可能、を命じました。主イエスを信じるか、信じないかの決断を

迫ったのです。信仰が問われています。そのことばを語った方をどう考えるかで、その応

答は変わります。そのお方を信じるなら、そのことばに従うことになります。そのお方の

権威を認めるなら、その権威に自分を委ねます。そのことばに従わないのは、それを語ら

れた方を信じないからです。その方を自分の主とはしないということなのです。主イエス

はこの男性に、ご自分に対する信仰による行動を促しました。

 9節。その人はすぐに治ったと記されています。彼は立ち上がり、床を取り上げて歩き

出しました。主イエスの促しに応じて立ち上がり、歩き出したのです。ここにこの人の信

仰があります。自分に命じた、その権威に従ってみようと考え、一歩踏み出しました。命

じられたことばの通りに行動を起こしたのです。これが信仰の応答です。その時、主イエ

スの権威が彼に及びました。主イエスの神としての権威が彼を覆い、彼に歩く力を与えた

のです。これが信仰とその結果です。主なる神の招きに応じたときの祝福です。

 主イエスが私たちを招く信仰は、自分はこれだけ信じているから、その信仰に従って生

きるという、自分の信仰の力ではありません。私たちが招かれている信仰は、主なる神を

自分の神とし、信頼して、そのことばを生きる一歩を踏み出す信仰です。神が語っておら

れます。そのことばに従うようにと命じられます。自分を見つめるとき、自分にはとても

できない、一歩を踏み出す信仰はないと思います。しかし命じておられる主なる神にかけ

てみようと考え直し、一歩踏み出すこと、これが神が招いておられる信仰です。そしてそ

のことばの通りに一歩踏み出すとき、神の約束の通りに事が進むのです。

 この男性は、主イエスの「起きて床を取り上げ、歩きなさい」ということばを聞きまし

た。そうは言われても、とても歩けるわけがないと思ったと考えられます。しかし彼は思

い直すのです。ここで起き上がらなければ何も変わらない。今までと同じだ。自分に命じ

ているこの方に、そのことばにかけてみよう。これが信仰です。

 結果として何も起こらなかったとしても、これまでと同じというだけです。しかし神の

ことばは、神のことばの通りに事を進ませるのです。神のことばは生きていて、力がある

からです。この神への信仰が、神の力に与る秘訣なのです。主イエスの神としての権威、

そのことばにある力が、この人に及びました。主イエスのことばは、この人が従ったとき

に現実となったのです。その一歩が、彼を立たせ、床を取り上げて歩き出させました。

 主イエスが語られるとその通りになります。神としての権威があるからです。ただし私

たちの応答を条件にするのです。私たちが従うときに、その通りになります。主なる神は

私たちに与えた自由意思を尊重されます。私たちをロボットのように従わせることはなさ

いません。私たちの自発的な応答、信仰による応答を求めておられるのです。

 この病人は主イエスを信じました。そのことばを生きる決断をし、起きあがりました。

その起き上がろうとした応答と同時に、彼は癒されました。彼の筋肉は一瞬のうちに、歩

くことのできる状態にまで回復したのです。しかし彼の問題は病気が癒されることで解決

することにはなりませんでした。根源的な解決、罪に対する解決が必要だからです。

 14節。主イエスはこの男性を見つけました。この男性が抱えている根源的な問題を取り

扱うためです。「もう罪を犯してはなりません」と、彼が病気になったのは、罪が関係し

ていると指摘されたのです。罪の問題、具体的なことは分かりませんが、自己中心に生き

てきて、主なる神を自分の神としてあがめることも、神に聞き従うこともしてこなかった

のです。主イエスは彼に、悔い改めへの招きをしました。自己中心を止めて、神を中心に

して、神のことばに聞いて、それを生きようとする歩みへと招いたのです。

 私たちも主イエスを信じます。主イエスを信じていると言います。しかし、自分の納得

を求めていないでしょうか。納得できるなら従うけれど、納得ができなければ従わないこ

とはないでしょうか。あるいは自分の好みや都合に合わせて、主イエスの語りかけを取捨

選択していることはないでしょうか。そのような時、主イエスは私たちを生かすことはし

ません。私たちはこの男性に、信仰を倣いましょう。私たちは日々、聖書から神の語りか

けを聞いています。父なる神が、主イエスが、聖霊ご自身が、みことばを通して語りかけ

ています。主なる神を自分の神として、そのことばを生きる一歩を踏み出すのです。

 主イエスは、あなたを愛し、あなたの罪を赦すために、あなたの代わりに、十字架で罪

の処罰を受けてくださいました。私たちがすることは、その神の恵みによる罪の赦し、罪

からの救いのみわざを、自分のためであると受け入れ、救い主としての主イエスを信じる

だけです。十字架で処刑されたナザレのイエスは神の御子であり、救い主であることを信

じて受け入れ、自分の罪を認めて、罪の赦しを求めるだけです。

 そうして救いに与り、神の子どもとされる特権に与った私たちキリスト信仰者は、主イ

エスを自分の主と崇めて、神のことばを聞き、それを行う一歩、一歩を踏み出し続けるの

です。主イエスを信じる私たちは神の子どもとされています。特別な権利をいただいてい

るのです。そうして全能の神、天地万物の創造者である神を父なる神とあがめ、父なる神

とともに歩む者となっています。そうして、主なる神が約束された恵みと祝福のすべてに

与る者とされているのです。

 日々神のことばを聞き、神のことばに素直に応じるなら、祝福と恵みの約束が私たちに

も実現し、その祝福と恵みを味わう信仰生涯を歩むことになるのです。信じて生きる、神

を信じるから神のことばを生きる。これが神の祝福に与る信仰生活の秘訣です。


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