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2024年4月21日 礼拝「パウロの救いと召命の証」使徒22:1~16

更新日:4月22日

 使徒の働きからの学びも30回目となりました。パウロの第3次伝道旅行が終わり、エル

サレムに支援献金を届けるために滞在したとき、ユダヤ人たちに殺されそうになり、ロー

マの軍隊に助け出されたのを、前回見ました。主なる神はご自分に従う者を、あらゆる危

険から守り、ご自分のご計画を進める大切な器として用いてくださるのです。

 その時にパウロは、ユダヤ人たちの前で弁明する機会を得、自分が救われたこと、そし

て自分に委ねられている使命について証をするのが今日の箇所、22章です。

 今日私たちは、パウロの証を見ることで、私たちも、自分が救われたこと、救いに導か

れたことについて、どのように証すれば良いのかを確認したいのです。そして証をする機

会が与えられたときに、証の用意ができているなら幸いです。

 パウロの証は3つに分けることができます。主イエスを信じる前の自分はどのような状

態であったのか、そのような自分はどのようにして主イエスを知ったのか、そうして主イ

エスを信じたことで、どのように変えられたのか、この3つです。

 主イエスを信じる前のパウロはどのようであったのでしょう。3節。自分の出身と幼い

頃に置かれた環境を証します。キリキヤのタルソで生まれたユダヤ人です。キリキヤのタ

ルソはトルコ半島にあり、幼い頃から旧約聖書の律法を両親から教えられ、13歳で戒律の

子として、律法を守る存在になったことを表明し、パウロはすぐにエルサレムに向かい、

パリサイ派の重鎮である教師ガマリエルに師事して、彼から律法についての厳格な教育を

受けたのです。これがパウロの人格形成に大きな影響を与えたと言えます。彼は律法に精

通し、熱心に神に仕えていたのです。その熱心さは、キリスト信仰者たちを迫害し、死に

までも至らるほどでした。それは律法に「木にかけられた者は神に呪われた者だから」と

あり、十字架につけられたナザレのイエス、神に呪われた者をキリストとあがめる者たち

は神を冒瀆していると、パウロは断罪したのです。4節。

 5節。そうしてパウロはダマスコへ向かいます。大祭司、長老会全体から許可を得て、

ダマスコにいるキリスト信仰者たちをエルサレムに引いてきて、処罰するためです。これ

が、主イエスを信じる前のパウロの姿です。神への熱心さのゆえに、主イエス・キリスト

に強硬に反対すべきと考えて、実際に行動しました。

 そのようなパウロが、どのように主イエスを知り、信じるようになったのでしょうか。

それが6節からです。ダマスコの近くまで来たとき、天からのまばゆい光がパウロの周り

を照らしました。神のあわれみによる介入です。主イエスと信仰者たち、キリストのから

だである神の教会を迫害することは、明らかに神への敵対行為となるのですが、律法を厳

格に守り、神への熱心さからの、間違った行動なので、主なる神はあわれみの御手を伸べ

られたのです。主のあわれみは尽きないからだとありますが、神の一方的な恵みです。

 7~8節。復活された主イエスが直接パウロに語りかけました。「サウロ、サウロ、ど

うしてわたしを迫害するのか」と。教会への迫害は、そのまま主イエスへの迫害となると

いうことを、私たちも知っておく必要があります。主イエスを信じて、救いに与った者た

ちは、キリストのからだである神の教会に属する者とされます。これが、主なる神がご自

分を神と信じる者との間で交わされた新しい契約です。新約に生きる私たち、主イエスを

自分の救い主として信じ、自分の主と仰ぐ私たちは、キリストのからだである神の教会を

構成する大切な一器官とされています。この霊的事実を否定することは、かしらであるキ

リストを否定することになり、神に対する反逆でもあるのです。キリストのからだである

神の教会について正しく知っておくことは、とても重要です。

 10節。パウロは復活された主イエスに、これからどうしたら良いのかと尋ねます。する

と主イエスは指示されました。ダマスコに行きなさいと。そこでパウロが行うように定め

られているすべてのことが告げられると言われ、パウロは主イエスが言われたことに素直

に従って、ダマスコに入ったのです。

 12節。主なる神は、ダマスコにいるアナニヤをお用いになります。アナニヤはダマスコ

に住んでいるすべてのユダヤ人たちに評判の良いキリスト信仰者であったと紹介されてい

ます。そのアナニヤがパウロに主のことばを語り伝えたのです。

 13~14節。まず、パウロの目が再び見えるようになること、神がパウロを特別に選ばれ

たことと、それは神のみこころを知らしめるために、義なる方、すなわち主イエス・キリ

ストを見させ、主イエスから御声を聞くようにされたということです。

 パウロは律法の定めに基づいて、十字架につけられたナザレのイエスを神に呪われた者

と決めつけ、神への熱心のゆえに、そのような者をメシヤ、キリストと仰ぎ、伝えている

者たちを異端であると断定して、その存在の抹殺を図ったのです。しかし今、復活された

主イエスが直接パウロに声をかけてくださいました。自分の間違いに気づいたのです。

 神のみこころは、罪人に罪の赦しを備えるために、メシヤ、キリストを十字架で処罰す

ることであり、罪人が救われるためには、十字架につけられたイエスこそキリストである

と認め、自分の救い主であると信じ、あの十字架刑は、自分の罪を赦すための身代わりの

処罰である受け入れることなのです。そうして、この方、主イエスを信じる以外に、罪人

が救われる道はないということです。

 15~16節。パウロはアナニヤを通して語られた神のことばに素直に応じました。主イ

エスを信じてバプテスマを受け、主イエスのために、すべての人に対して、見聞きしたこ

とを証する証人となるように召されたのです。

 第3は、主イエスを信じた後、どのように変えられたかです。このことについては妨害

されたために、証することができませんでした。このことは26章で確認します。26章でパ

ウロは、ヘロデ・アグリッパ王の前で証する機会が与えらています。

 ここでパウロは、主イエスからの召しについて、22章では触れなかったことを証してい

ます。15~16節は22章とほぼ同じです。17~18節。主イエスはパウロを、ユダヤ人と異

邦人の中から、つまり人類すべての中から救い出して、ユダヤ人と異邦人のすべてのとこ

ろに遣わすとの使命を与えられたのです。その目的は、彼らの目を開き、闇から光に、サ

タンの支配から神に立ち返らせ、主イエスを信じる信仰によって、信じるすべての人が罪

の赦しを得て、聖なる者、すなわち神に属する者として、ともに相続に与るためです。

 19~20節。パウロは、主イエスの召しに応じました。天からの幻、啓示に背かずと証し

ています。そしてすぐにダマスコで、ナザレのイエス、十字架で処刑されたイエスこそ約

束されたキリストであると伝え始めたのです。パウロはアナニヤが来るまでの三日間、目

が見えない中で、旧約聖書を思い巡らしていたと考えられます。メシヤ、キリストについ

ての預言の数々を思い巡らしながら、ナザレのイエスの生涯を検証したのでしょう。そう

して特にイザヤ書53章に記された苦難のメシヤについての預言を、復活された主イエスと

いう光に照らされて見直すことによって、メシヤの十字架によって罪の赦しと罪からの救

いが備えられたことが、神のみこころであるとの確証を得たのだと考えられます。

 だからパウロは、大胆に主イエスの十字架の死と復活による、罪の赦しと罪からの救い

という福音を伝え続けました。ユダヤ地方全体に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に

立ち返るように、また悔い改めにふさわしい行いとするようにと宣べ伝えたのです。

 これがパウロがした、救いの証です。私たちもそれぞれ、自分が主イエスを信じたこと

を証できます。それぞれがみな、その人だけの体験を持ち、同じ証はないと言えます。た

だ共通しているのは、主イエスを信じる前の自分、主イエスを信じることへの導き、主イ

エスを信じたことでどのように変えられたのか、です。内容は各自みな違いますが、主イ

エスを信じる前、信じた時、信じた後、があるのは同じです。

 主なる神が、主イエスが、私たち一人ひとりに関わってくださり、どのようにして主イ

エスを信じるようになったのか、その体験をまとめておくことが大事です。主イエスを信

じるまで、みなさまはどのような歩みをしていたのでしょう。どのような価値観を持ち、

何を目指して歩んでいたのでしょう。その時の自分をありのまま証するのです。

 そのような自分に対して、主なる神は、どのようなきっかけを与えて、主イエスを知ら

せ、信じるように導いてくださったのでしょう。その主のみわざを証するのです。

 そうして、主イエスを信じたことで、自分はどのように変えられたのでしょうか。その

状況を証するのです。この3つが証の骨子です。この骨子を整理しておくのです。そうし

て証する機会が与えられた時に、置かれた状況に合わせて、話すべきではない内容とか、

詳しく話した方が良い内容とか、その時々に応じて適用できるようにするのです。

 22章と26章での証を見比べるときに、同じ内容の部分と、違う内容の部分があること

に気づきます。それは置かれた状況、証する相手の違いに、ふさわしく対応することで、

どのように証することが良いかに導かれた結果と言えます。

 今週のみことばに「話すことは、その時に与えられるからです。話すのはあなたがたで

はなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です」とあります。

だから心配する必要はありません。肩肘張る必要もないのです。ただ備えておくことは必

要です。助け主の聖霊は、私たちを無視して、勝手に話すことはしません。私たち一人ひ

とりの持ち味を活かし、それぞれの体験を用いて、証するのを助けてくださるのです。聖

霊は勝手に話を作って、私たちに代わって話すことはなさいません。だから私たちは、自

分がどのように救われたのか、その証を備えておく必要があるのです。私たちが備えてい

れば、聖霊ご自身は、私たちが証する状況において、自由に、大胆に、適切な証となるよ

うに助けてくださいます。

 備えておく内容を再度確認しましょう。

 1、主イエスを信じる前の自分はどのようであったのか。

 2、どのようにして、主イエスを信じることになったのか。神のみわざとしてまとめる

 3、主イエスを信じて、どのように変えられたのか。

 主なる神は、私たちを救いに導かれたみわざを、私たちが証することで、救いのみわざ

を推し進めてくださるのです。証する機会が与えられたとき、何を語ったら良いか分から

ない、とならないために、自分の救いの証を整理しておきましょう。


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