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2024年4月14日 礼拝「主の御腕の中で休む」列王Ⅰ19:1~18


 神の民イスラエルは、南北王朝に分裂しました。南王国ユダは、主に聞き従おうとする

王と、主に背く王とによって、国は霊的に祝福を受けたり、霊的に退廃し、道徳的にも腐

敗したりを繰り返しています。北王国イスラエルは、主に背く王ばかりであって、先の王

朝が滅ぼされ、次の王朝が立てられても、その霊的退廃は続けられていました。

 今私たちはオムリ王朝の時代を見ています。北イスラエルはアハブが王となり、国中に

バアル信仰を蔓延させてしまいました。アハブは、シドンからイゼベルを妻として迎えた

のですが、その父、シドン人の王エテバアルは、自らバアルの祭司となっていたのです。

その娘イゼベルを妻として迎えたことにより、アハブはバアル信仰を国中に広めたという

ことです。バアルとは、天候を支配し、農作物に豊穣をもたらす神とされていました。

 前回私たちは18章から、エリヤがただ一人、主なる神の預言者として立ち、バアルに仕

える450人の預言者と対決した出来事を確認しました。祭壇の上にいけにえとして雄牛を

置き、それぞれが自分の神を呼び求め、天からの火で雄牛を焼き尽くす方こそ、まことの

神であるとしたのです。バアルの預言者たちは、朝から昼過ぎまで、熱心にバアルを呼び

求めたけれど、答えはありませんでした。バアルは神ではなかったからです。

 その後、エリヤが主なる神に祈り求めます。その求めに答えて、主なる神は天から火を

下されました。天からの火が下ってきて、いけにえの雄牛も、薪も、すべてをなめ尽くし

たのです。この結果、主なる神こそが生けるまことの神であることが示されたのです。

 このような、すばらしい神のみわざに用いられるエリヤを見る時、私たちは、エリヤは

特別な人だから、格段に信仰が深いのであって、私たちとは本質的に違う信仰者で、主な

る神に用いられたに違いないと思うかもしれません。

 しかし今日、私たちは、意気消沈しているエリヤを見ます。そして、どうして、と思い

ます。生けるまことの神がともにおられ、どれほど苦境と思われる状況の中にあっても、

毅然として神のことばを語り続け、自分を通してなされる神のみわざの偉大さを知ってい

るはずのエリヤが、イスラエルの王妃イゼベルの、しかも一言の脅しのことばに、これほ

どの恐怖を抱くものなのかという、そのギャップに、驚いてしまうのです。

 しかしエリヤも、私たちと同じであるということを覚えたいのです。バアルの預言者と

勇敢に対決するエリヤも、今日の箇所にある、恐れて、自分の死を願うエリヤも、私たち

と何ら変わらない、弱く、脆さを抱えている、同じ人だということです。主なる神は、エ

リヤを用いられたように、私たちをも用いることができます。また私たちも、エリヤと同

じように意気消沈し、恐怖に襲われて、死を願うほどに落ち込むこともあるのです。

 エリヤが自分の死を願うほどに落ち込むきっかけは、2節です。イゼベルが使者をエリ

ヤに遣わして、おまえを明日までに殺すと脅したからです。もしイゼベルが本当にエリヤ

を殺すつもりなら、わざわざ使者を遣わして脅す必要はありません。1部隊を送って襲撃

させれば良いはずです。イゼベルは殺害の予告をしただけです。

 3節。その予告を受けたエリヤは恐れ、自分のいのちを救うために北イスラエル王国を

出て、南ユダ王国に入り、しかもユダ王国の南部にあるベエル・シェバまで逃げました。

 4節。エリヤは一人荒野に退き、主なる神への祈りをします。「主よ。もう十分です。

私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから」と。もうこれ以上

預言者として働くことはできません。もう疲れ果てました。もう終わらせてくださいと訴

えたのです。エリヤは精神的に極限状態に置かれていたと考えられます。主なる神がエリ

ヤを用いて、事を行いました。そうしてバアルと対決させ、偶像礼拝に突き進むアハブ王

やイスラエルの民に、悔い改めを説き続けさせたのです。しかしエリヤは、事態は何も変

わらないと感じたのです。いわゆる燃え尽き症候群の状態に陥ったのでしょう。

 そのようなエリヤに対して、主なる神は関わってくださるのです。5~7節。主なる神

はエリヤに対して、呆れてしまうことはなさいません。失望もなさらないのです。ゆっく

りと休ませてくださいました。訴えつつ祈り、眠ってしまったエリヤに対して、頃合いを

見て、優しく起こし、声をかけます。「起きて食べなさい」と。主なる神は、焼いたパン

菓子と水の壺を置いてくださったのです。エリヤはそれを食べ、水を飲んで、また寝まし

た。疲れた時には、なによりも休むことが重要です。疲れたままでは、良い状況を思い浮

かべることはできません。悪い方へ、悪い方へと考えが進んでしまうのです。

 エリヤは精神的にも、肉体的にも、さらに霊的にも、疲れ果てていました。天から火を

下して、ささげ物を焼き尽くすという主の大きなみわざ、奇跡のために用いられたエリヤ

です。これはエリヤ自身の信仰の戦いでもありました。特別に大きな事業を終えた後は、

それがすばらしい成功であっても、疲れ果てるものです。そして疲れた時には、とにかく

休むことが大事です。疲れたままで様々な判断をし、決断を下すことは危険です。だから

主なる神は、エリヤを休ませました。食事を与えます。エリヤは主なる神の懐でいこいま

す。弱さを露呈しても、そのままの自分が、主なる神に受け入れられていることを確認し

て、肉体的にも、霊的にも、回復していくことができたのです。

 主なる神はエリヤに、「旅の道のりはまだ長いのだから」と語りかけます。主なる神が

地上生涯を終わらせるまで、私たちは、この地上では旅人であり、寄留者であることを覚

えておくことは大事です。天の御国に帰るその日まで、旅は続くのです。そして主なる神

は、私たちに使命を与え、働きを委ねて、地上生涯を、地の塩、世の光として導いてくだ

さいます。だから、疲れたなら、とにかく休むことが先決です。主の懐で安らぎ、憩いを

得、再度活力をいただいて、地上生涯という旅を続けていくのです。

 8節。エリヤはホレブ、シナイ山に行きました。主なる神がモーセに語られ、モーセを

召された場所であり、イスラエルの民に律法が与えられた山です。信仰の原点に返って、

もう一度、主なる神の御前で自分を見つめ直すということでしょう。私たちも、真に休む

べき場所は、主なる神の懐でなければなりません。霊的な活力を取り戻すのでなければ、

真の回復は得られないからです。それは主なる神との霊的な交わりにおいてのみ与えられ

るものです。エリヤはホレブで、主の語りかけを聞きたいと願ったのでしょう。

 9節。エリヤは、シナイ山の洞穴に入り一夜を過ごしました。そして主の語りかけを聞

くのです。主なる神は弱気になっている私たちを見捨てることも、見限ることもなさいま

せん。そして私たちも、エリヤのように、自分の正直な思いを、主なる神に訴えることが

できます。10節です。これが今の、エリヤの心を支配している思いです。主に熱心に仕え

てきました。それは自分一人だけであり、もう疲れてしまいましたと。どんなに熱心に主

に仕えてきても、主のことばを語り、人々に悔い改めを訴えても、何ら良い変化も見いだ

せないまま、自分のいのちさえも狙われる。自分だけが、という意識が、エリヤをして、

主に仕えることに対して、むなしさを味わわせていると言えるのです。

 そのようなエリヤに、主なる神は外に出るようにと招きます。11節です。その時主が通

り過ぎられ、主の御前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いたとあります。超自然的

な現象をエリヤに見せたのです。これらの現象はしばしば主なる神の臨在の象徴としてな

されることがあります。しかしそのような超自然的な現象の中に、主はおられなかったと

あります。激しい大風の中にも、その後の地震の中にも、その後の火の中にも、主はおら

れませんでした。臨在の象徴ではあっても、主そのものではないということです。

 12節。火の後に、かすかな細い声がありました。その声に導かれるように、13節、エ

リヤは洞穴を出て、洞穴の入口に立ちました。そのエリヤに、主なる神は、もう一度、同

じ語りかけをします。「エリヤよ。ここで何をしているのか」と。

 14節。エリヤは、10節と全く同じ答えをします。そのようなエリヤに、主なる神は新し

い使命を与えました。15~18節。主のお考えは、エリヤの考えとは違います。主のご計

画、主のみわざは、人である私たちには測り知れないものなのです。エリヤは、自分だけ

がという思いに支配されましたが、主は7千人の主に仕える人々を残しておられました。

 エリヤはアハブとイゼベルの絶大な支配力を恐れましたが、アハブ家の没落が予告され

たのです。オムリ王朝が終わり、次の王朝が定められます。さらに預言者エリヤの後継者

として、シャファテの子エリシャが立てられることも明示されます。人は変わっても、創

造者である神のみわざは、その人を通して行われ、主の計画は進められるのです。

 私たちも疲れ果てることがあります。弱気になったり、意気消沈したり、不信仰になる

こともあります。そのありのままの状態で、主の懐に飛び込み、自分の訴えを述べ、主の

語りかけを聞くことが大事です。主の御腕の中で憩い、休みをいただいて、活力を取り戻

さなければなりません。今私たちには、聖書が与えられています。主の語りかけを、いつ

でも、どんな状況の中でも、聞くことができる環境が整えられています。このような幸い

に置かれていることを忘れてはなりません。みことばは近くにあり、私たちキリスト信仰

者の心には、助け主の聖霊が住んでおられ、いつも主に助けを求め、どのような状況に置

かれても、主の助けを受けることができるのです。

 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。

わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」

 私たちキリスト信仰者は、父なる神の子どもとされ、キリスト・イエスを自分の主と仰

ぎ、心に助け主の聖霊を宿しているという、自分のすばらしい立場、インマヌエルの神と

ともに歩んでいるという事実を忘れないようにしましょう。


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