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2024年4月7日 礼拝「主イエスに支配される」ルカ11:24~28


 私たちは今、第一日曜日に、ルカの福音書9章51節~19章27節を読み進めています。

医者であり、歴史家であるルカが、主イエスの生涯を綿密に調べて書き記したのですが、

ルカが独自の視点で、エルサレムへの道、十字架へと向かう道を書き記している、その部

分です。読みはじめて、今日はその6回目となります。

 主イエスは様々な病気を癒やし、悪霊に憑かれた人を悪霊から解放し、自由を与えてお

られました。それらを神のわざとして、公然と行い続けてきたのです。人々は、主イエス

のわざを見て、主イエスを神に遣わされた者と受け止め、神をほめたたえていました。

 今日の箇所14節では、口をきけなくする悪霊を追い出し、口のきけなかった人がものを

言い始めた出来事が記されています。群衆は神のわざを見て驚きました。しかし普段から

主イエスを認めようとしない人々、特にユダヤ教指導者たちは、はっきりと神のわざであ

ると認められるにもかかわらず、ケチをつけたのです。15節。「悪霊どものかしらベルゼ

ブルによって、悪霊どもを追い出しているだ」と。

 17節。主イエスは彼らの心の頑なさをあわれむように、その発言の不合理さを指摘され

ます。内輪もめをしたら、国でも、家でも、荒れすたれ、倒れるのだから、サタンが仲間

割れを起こして、サタンの国が立ち行かなくなることなどあり得ないと。そうして、

 20節。主イエスは宣言します。ご自分は、神の指によって悪霊どもを追い出していて、

神のわざは行われている。神の御子によって神のわざが行われているのだから、すでに神

の国、神の支配はあなたがたのところに来ているのだ。それを認めないのかと。

 21~22節。サタンや悪霊どものがどれほど強いとしても、そして人間を支配したとして

も、サタンよりも強い者、神の御子、主イエスが襲って、サタンに打ち勝つので、悪霊ど

もは分捕り物とされ、人々は解放されます。悪霊の支配から自由とされるのです。

 さて、今日の箇所で、具体例が示されています。24節。汚れた霊に憑かれた人から汚れ

た霊が出ていきました。主イエスが来て、その汚れた霊を追い出し、その人は汚れた霊か

ら解放されたのです。そうして追い出された霊は次に憑く人を捜し回るけれど、適当な人

が見つからないので、元の人のところに戻ってきたという話です。

 25節。戻ってみると、その家、汚れた霊に憑かれた人はきれいに片付いています。

 26節。それを見て、その汚れた霊は、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れてきて、

その人に憑き、住みつきます。そうなると、その人の状態は、初めより悪くなるのです。

 さて、主イエスはこの話をすることで、私たちに何を悟らせようとしたのでしょうか。

現代に生きる私たちは、悪い霊とか汚れた霊に憑かれることはほぼないでしょう。主イエ

スの時代のように、悪霊の働きが顕著ではない時代、文明、文化が進んでいる時代を生き

ている私たちは、悪霊に憑かれることなど、ほとんどありません。悪霊どもも時代をわき

まえていて、直接的に関わることはしていないのが現代です。

 しかし現代において、様々な思想があり、価値観があり、社会を動かしている仕組みも

複雑化しています。これらの背後に悪霊どもは関わっています。巧妙に私たちを創造者で

ある神から遠ざけているのです。地上の生活を優先させ、物質的な祝福を求めさせます。

いろいろな誘惑に引き込み、創造者であるまことの神との関わりよりも、より多くの時間

と労力を費やすようにと誘導する巧妙な仕組みが張り巡らされています。気がつかないう

ちに、創造者であるまことの神への思いが消されていることもあり得ます。

 忙しく動かされ、多くの責任を負わされ、二進も三進もいかない状況に追い込まれ、次

第に肉体的にも、精神的にも限界を超えて、病を発症することもあるでしょう。経済的な

困窮に陥ることもあります。様々な事件や災害に巻き込まれることがあります。しかしそ

れらは好機でもあるのです。自分の生き方を振り返り、正す機会になるからです。

 そうして、それらの状況において、ある人は主イエスを知り、助けを求め、救いに与り

ます。その結果、様々な問題に解決が得られ、元気を取り戻します。本当に幸いだと言え

ます。しかしそこで留まってしまうなら、この具体例と同じです。対処療法的な解決が与

えられ、良い状態に回復するけれど、それは掃除されてきちんと片付いている状態であっ

て、そのままであるなら、初めよりも悪い状態になり得るのです。それは根治されていな

いからです。一時的に改善されました。癒やされました。治りました。しかしきれいに片

付いただけでは本当の解決ではなりません。また同じような困難が、もっとひどい困難が

襲ってくることがあり、その時、さらに深く落ち込むことになるのです。

 主イエスが教えられたのは、きれいに掃除して、きちんと片付けてもらうことは必要で

あるけれど、その上で、どなたに住んでいただくか、だれに支配したもらうかです。主イ

エスは神の指によって悪霊どもを押し出しており、神の国はあなたがたのところに来てい

ますと宣言されたように、主イエスによる神のわざを受け続け、神の支配に自分を明け渡

すことが大事なのだと悟りましょう。

 今週のみことばから。闇から光に、サタンの支配から神に立ち返ることがなければ、聖

なるものとされた人々ともに相続に与ることはできないのです。

 27~28節。主イエスがなさる神のわざを見、その話を聞いていた群衆の中から、ひと

りの女性が声をあげて、主イエスに、あなたの母親ほど幸いな人はいないと言いました。

自分も主イエスのような息子を産みたかったという憧れとも言えます。しかし主イエスは

そのことばを受けて、神の国での真理を伝えます。「真に幸いなのは、むしろ神のことば

を聞いてそれを守る人たちです」と。

 何か大きなこと、人々がすばらしいと感嘆するようなことを行えたなら、それは幸いだ

と感じるのがこの世の常識です。しかし神の国、神が支配する領域では、人々に褒めそや

される大きな働きをすることが幸いなのではなく、神のことばを聞き、それを守るという

地道な歩みそのものが、真に幸いなのだと、主イエスは言われたのです。

 今私たちは、主イエス・キリストを信じる者となりました。これから信じる人もいるで

しょう。信じることで、様々な問題の解決を得られ、新たな出発ができます。しかし信じ

たことと、信じ続けることとは別問題です。主イエスを救い主と信じることは幸いです。

しかし与えられた救いを生きるのでなければ、救われたことが真の祝福、幸いを与えるこ

とにはならないのです。救われた者が、救いを生きることは、「神のことばを聞いてそれ

を守る」と言い換えられるのです。

 私たちも毎週神のことばを聞きます。毎日神のことばを聞くことができます。聞いただ

けで何もしないなら、聞いていないことと同じだと言われます。神のことばを聞くのは、

それを守るためです。しかし私たち罪人は、神のことばを守るいのちを持ち合わせていま

せん。だから主イエスを自分のかしらとして、キリストの支配下に自分を明け渡すことが

必要になるのです。救いに与りました。感謝です。様々な問題の解決を得ました。本当に

幸いです。しかしきれいに片付けてもらった自分の心に、新たな支配者を招き入れないで

いるなら、再び襲う者が襲い、しかも初めの状態よりも悪くなると言われています。

 さて、ユダヤ人たちがどうなったか、私たちは歴史を知っています。主イエスを神が遣

わされた救い主と信じた人たちが多くいました。そして主イエスは、ご自分を信じたユダ

ヤ人たちを、その先に招いたのです。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、

本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」

と。しかし彼らの多くは、主イエスを自分のかしらをすることを拒み、主イエスのことば

にとどまらず、主イエスの弟子になろうとはしませんでした。

 その結果、彼らは、十字架につけろと叫んで、神に敵対する者となったのです。主イエ

スを信じて、いろいろな問題を解決してもらい、きれいに片付けてもらったけれど、主イ

エスに支配してもらうことには進まなかったので、初めの状態より悪くなりました。

 キリスト信仰者としての大切な信仰姿勢は、主イエスを自分のかしらとして歩むこと、

主イエスに倣い、主イエスに聞き、従って歩むことです。神の国は来ています。私たちは

神の支配に自分を明け渡して歩むことを求めましょう。主イエスに支配されるのです。


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