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2024年3月31日 礼拝「復活の主による大宣教命令」マタイ28:16~20 復活祭


 本日は主イエスが死者の中から復活された日、イースター礼拝です。先週29日(金)に、

主イエスは、私たちに罪の赦しを備えるために、十字架で身代わりの死を遂げられ、葬ら

れ、そして三日目によみがえりました。その記録が、マタイの福音書では28章です。

 主イエスが葬られた墓には番兵たちがいて、墓から主イエスの遺体が盗まれることがな

いように見張りの番をしていたのです。それは27章62節からに記されていますが、ユダヤ

教指導者たちのローマ総督ピラトへの要請の結果でした。63節、65節。

 1節。そうして週の初めの日を迎えます。マグダラのマリアともう一人のマリアが墓を

見に行ったとあります。他の福音書を見ると、数人の女性たちが一緒に、墓に行ったこと

が分かります。主イエスの復活の場にいたのは、女性たち、主の使い、番兵たちでした。

 2~4節。大きな地震が起こり、主の使いが天から降りて来て、墓の入口を塞いでいた

大きな石をわきに転がしました。主の使いの姿は稲妻のようで、衣は雪のように白かった

とあります。その恐ろしさに番兵たちは震え上がり、死人のようになったのです。

 5~6節。主の使いは女性たちに伝えます。十字架につけられたイエスは、もうここに

はいない、よみがえられたと、主イエスの復活を、その事実を伝えました。

 それに対して11節。御使いを見て死人のようになっていた番兵たちは、気がつくと、墓

が空になっているのを知ります。そうして彼らは、上官にではなく、祭司長たちにその事

実を報告しました。上官に報告しなかったのは、墓の番をする任務を全うできなかったこ

とによって、厳罰は免れないと考えたからでしょう。そうしてユダヤ教指導者たちに報告

することで、窮地からの脱却を図ったのだと考えられます。

 12節。祭司長たち、宗教指導者たちは集まって協議をしました。ここに彼らの心の頑な

さがあります。3年にわたって、主イエスは神のことばを語り、様々な神のわざを行い、

自分が神であることを受け入れられるようにしてきたのに、彼らは決して、それを認めよ

うとしなかったのです。死んで四日も墓の中に納められていたラザロをよみがえらせたと

きも、彼らは主イエスを神として認め、受け入れることを拒みました。そうして今、予告

されていたように、墓が空になりました。番兵が寝ずの番をしていたのですから、弟子た

ちが来て盗んでいくことなどあり得ない状況です。番兵たちは御使いを見ています。

 13節。彼らは協議します。この事実を隠蔽するためにどうすることが最も良いかを検討

したのです。事実を認め、主イエスは神が遣わされた救い主、キリストであると受け入れ

ることを頑なに拒み、どう誤魔化そうかと考え合うのですから、彼らの霊的貧困さは極限

にまで達していたということです。滅ぼされるのは仕方がないことだと言えます。

 彼らが考え出した、主イエスの遺体を納めた墓が空になった理由は「弟子たちがやって

来てわれわれが眠っている間にイエスを盗んで行った」と兵士たちに言わせることでし

た。その嘘を、墓からイエスの遺体がなくなったことの理由としたのです。

 14節。宗教指導者が庇ってくれ、なおかつ大金を受け取れるのですから、番兵たちには

渡りに船の提案でした。この提案に乗らないなら、自分たちが厳罰されることは避けられ

ません。宗教指導者たちが庇ってくれるなら、それに越したことはないのです。

 15節。番兵たちは金を受け取って、言われたとおりに嘘を広めました。そうしてユダヤ

人に中に、この嘘が広まっているのです。

 主イエスが葬られた墓は空になりました。その後、遺体であっても、生きているからだ

であっても、主イエスのからだはどこにもありません。歴史的事実として確認されている

ことは、主イエス・キリストは十字架で処刑されて殺されたこと、墓に葬られたこと、そ

して三日目に墓は空になり、その後どこにも主イエスのからだはないことです。

 その理由として考えられることは二つです。主イエスが死者の中から復活されたこと、

40日後にそのからだで天に帰られたので、主イエスのからだは、地上のどこにもないとい

うのが一つです。もう一つは、弟子たちが盗んで行ったので、墓は空になったということ

です。みなさまはどちらを事実とするでしょうか。

 信じられるか、信じられないかで判断するなら、死者の復活など考えられない、だから

信じられないとするのは当然です。しかし信じられるかで判断するのではなく、それは事

実か、嘘偽りかで判断すべきです。事実なら、信じられなくても、受け入れるべきです。

嘘偽りなら、信じたいと思っても、決して受け入れてはなりません。

 主イエスの復活は事実か、嘘偽りかで考えるとき、事実とすると、その後の歴史のすべ

てを、合理的に説明することができます。逆に、嘘偽りとすると、合理的には説明できな

くなるのです。どうして主イエスのからだはどこにもないのでしょうか。弟子たちが盗ん

で行ったのなら、ユダヤ当局も、ローマ当局も、弟子たちに、主イエスの十字架の死と復

活という福音宣教を禁じるのではなく、弟子たちを拷問して、主イエスの遺体を見つけ出

そうとはしなかったのでしょうか。復活は嘘偽りであると公表すれば良いだけです。

 弟子たちは、主イエスの十字架の後、当局の捜査を恐れて、逃げ、隠れていました。し

かしある日から、大胆に主イエスの復活を伝え始めたのです。迫害され、いのちの危険に

晒されても、十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いを伝え続けました。もし自

分たちが作った嘘偽りであるなら、そのためにいのちの危険を冒すことはしません。いの

ちの危険に晒されても、十字架と復活の福音を伝え続けたのは、主イエスの復活が事実だ

からです。その極めつけがパウロです。初めはサウロという名で登場します。

 サウロはガチガチのパリサイ人であり、十字架につけられた男をキリストとすることに

強硬に反対し、キリストの教会を荒らし回し、キリスト信仰者を捕らえては、いのちを奪

うことまでしていました。それが神への忠誠であると確信していたからです。彼はエリー

トであり、ユダヤ社会の将来を背負って立つ指導者として嘱望されていたのです。しかし

ある日を境に、サウロは大迫害者であることをやめて、十字架と復活を伝える大宣教者に

なりました。復活された主イエスに会ったからです。

 主イエスのからだはどこにもない、弟子たちはある日を境に変えられた、大迫害者サウ

ロは変えられ、ユダヤ社会でのエリートコースを捨てて、キリストの福音を伝える大宣教

者になった、様々な迫害に遭っても、いのちの危険に晒されても、いのちを奪われたとし

ても、キリスト信仰者たちは、主イエスの十字架と復活の福音を伝え続けたのです。

 これらの出来事を合理的に説明できるのは、主イエスの復活は事実だからです。もし主

イエスの復活は嘘偽りであるなら、これらのことは合理的に説明できなくなります。私た

ちは、主イエスの復活は、事実であると考えます。だから信じられないと思っても、事実

として受け入れます。これがキリスト信仰者の主イエスを信じる根拠なのです。

 さて、復活された主イエスは、弟子たちをガリラヤに集め、そこで彼らに遺言としての

使命を委ねられました。その命令を今日確認し、私たちへの遺言としたいのです。

 18節。主イエスは「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられてい

ます」と、大胆に宣言します。これはピリピ人への手紙2章6~11節で、神のあり方を捨

てて人となられ、十字架の死にまで従われことの故に、父なる神が御子イエスを高くあげ

て、すべての名にまさる名を与えられ、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの

のすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる

神に栄光を帰すると言われたことと同じです。すべての権威を持つ主イエスが、主イエス

を信じ、従う者たちに委ねた使命が19節だということです。

 19~20節。ここで主イエスが命じたことは、弟子としなさい、です。これは私たちが、

自分の弟子とするのではなく、主イエスの弟子となるように導くことです。私たちは気を

つけていないと、主イエスの弟子になるのではなく、尊敬する牧師や教師の弟子になるこ

とを誇りとすることがあります。「~先生の弟子です」と誇ることがあるのです。しかし

これはサタンの惑わしです。主が命じたのは、主イエスの弟子とすることです。伝道の最

終目標は、主イエスの弟子とすることです。これをしっかりと確認しておきましょう。

 対象は、あらゆる国の人々です。主イエスが12弟子を、また72人の弟子たちを遣わした

ときには、イスラエルの家の失われた羊たちのところと限定していました。しかし復活の

主イエスが命じたのは、全世界への福音宣教です。すべての人に福音を伝えるのです。

 まず祈ることから始めましょう。その人のために執り成し祈るのです。彼が、彼女が、

霊的渇きを覚えて、真理を求め、罪の赦しと罪からの救いを欲するようにと祈り、そうし

て主イエスを信じる者となれるように祈るのです。並行して、自分の救いの証の備えをし

ましょう。自分が救われたことの喜び、感謝を証できる機会が与えられるように祈り、そ

の機会が与えられたときに、証ができるように備えておくのです。

 その目的は、主イエスを信じて救われた人を、キリストの弟子とすることです。主イエ

スを自分の救い主として信じ、受け入れることで、救われます。しかし救われたことで留

まってはなりません。主イエスを自分の主とすることがなければ、本当の祝福を味わうこ

とはできないからです。救われたはずなのに、救いを生きることができません。救われた

者としての真の祝福を味わえない、真の喜び、感謝、平安、希望を体験できない信仰生活

になるので、様々な困難に晒され、誘惑を受けると、信仰そのものを捨て去る危うさを抱

えていると言えます。最悪、ヘブル人への手紙の著者が警告した「一度光に照らされ、天

からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来るべき

世の力の味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立

ち返らせることができません」という道を進むこともあり得るのです。

 だから主イエスを信じて救われたなら、キリストの弟子となるように祈りつつ、導くこ

とが委ねられているのです。キリストを自分のかしらとして仰ぎ、キリストに聞き、キリ

ストともに歩む。主イエスなら、どうするかと考えて、主イエスが喜ばれること、受け入

れられること、良しとされることを選び取ることが重要となります。

 父、子、聖霊の名においてバプテスマを授け、主イエスが命じられた、すべてのことを

守るように教えるのです。これはキリストをかしらとする、キリストのからだである神の

教会に委ねられた使命です。主イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと

ともいます」とインマヌエルを保証されました。復活された主イエスが、私たちに、神の

教会に、委ねられた使命をしっかりと受けとめ、この使命を果たす歩みを、ともに祈り合

い、励まし合いながら、進めていきましょう。まず私たち自身が主の弟子となるのです。

 復活の主がともにいてくださり、助け主の聖霊が私たちのうちに住んで、内側から助け

てくださるのですから、出ていって、大胆に福音を伝え、キリストの弟子とする、主に委

ねられた大宣教命令という使命を果たさせていただきましょう。私たちは、主イエスをか

しらとする、キリスト信仰者です。主を仰ぎ、主に用いていただきましょう。


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