本日から受難週に入ります。今週29日(金)に、主イエスは十字架で処刑され、私たち全
人類の罪の処罰を代わりに受けて、私たち全人類に、罪の赦しを備えてくださいました。
主イエスの十字架の死は、私の罪を赦すための、身代わりの処刑であると信じる者は、罪
の赦しを受け取り、永遠のいのちが与えられるのです。
今日私たちは、十字架の死を前にして、このお方、主イエスを自分の救い主として認め
るのか、自分の救い主と認めることを拒むのかの選択をする人々を確認します。主イエス
の十字架の刑場にはいろんな人がいました。処刑執行をする兵士たち、民衆、最高法院の
議員たち、そして主イエスと一緒に処刑されている犯罪人2人です。
32節。主イエスの十字架刑は午前9時に始まりました。主イエスの他に二人の犯罪人が
十字架刑で処刑されたことが分かります。十字架刑はローマ帝国による極刑です。ローマ
に反逆する者を見せしめとして十字架で処刑するのです。その見せしめの犯罪人を晒すこ
とで、人々のローマ帝国への反逆を未然に防ぐことを目的にしています。
十字に組んだ縦の柱に足を重ねて釘で打ちつけ、横の柱に両手を伸ばして、手首を釘で
打ち付けます。処刑される者は、太い釘で足と手を打ち抜かれて、からだ全体を支えるの
です。呼吸する度に、からだを浮かせて息を吸い、からだを下げて息を吐く度に、釘で打
ち付けられた部分に、激しい痛みが走ります。そうして血が少しずつ流れ出ます。激痛と
喉の渇きが処刑される者を苦しめるのです。そのような状態で、見せしめとして晒され続
け、簡単には死なせてもらえません。人によって異なりますが、数日から、長いときには
一週間、晒され続けるのです。
34節。十字架上での主イエスの最初のことばです。自分を処刑する者たち、自分を侮蔑
し、嘲る者たち、処刑の状況を興味をもって見ている者たち、自分とは関係ないと思って
いる者たちを含め、すべての人の罪に赦しを求めることばが発せられました。「父よ、彼
らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
ここに登場する人々の多くは、創造者であるまことの神を自分の神とは認めませんでし
た。神を信じていると口では言っていても、自分の考えや願いと異なることは拒んだので
す。父なる神が、ひとり子の神を人として遣わされたこと、そのお方が主イエスであり、
キリスト、救い主であるとすることも、頑なに拒みました。神を信じない、拒んでいるこ
とを、如実に表していている態度です。これこそが最も大きな神への罪です。
さて、34節の「彼ら」に、私たちも含まれています。直接的には、ご自分を十字架につ
けている兵士たち、ご自分を十字架刑にすることができたことで喜んでいるユダヤ教指導
者たちとその追随者たち、そうしてご自分を嘲っている民衆たちですが、ここにまだ登場
していない私たちも、創造者であるまことの神を自分の神としない者たちです。神を自分
の神にしないことが、神に対する最大の罪であり、創造者である神と無関係に為す、すべ
てのことにおいて、自分が何をしているのかが分かっていないことなのです。何か悪いこ
とをするなら、当然罪だと認めるでしょう。しかし生けるまことの神を自分の神としない
ことが、最大の罪であるとは、ほとんどの人が知らないし、知ろうともしません。自分に
罪があるとは認めないので、自分には救いが必要であると思いもしないのです。
しかし主イエスは、自分が何をしているかが分かっていない、すべての人のために、十
字架で身代わりの処罰を受け、罪の赦しを備えたのです。この34節の祈りは、すべての人
の罪に赦しを備え、すべての罪人を救いへと招く、執り成しの祈りです。そうして救いを
必要とする者は、主イエスのこの祈りを、自分のためであると受け入れます。しかし救い
を必要としない人は、この祈りに何の意味も、意義も見いださず、無視するのです。
その姿が35~36節に現れています。民衆は立って眺めていました。急速に人気の高まっ
た人物の十字架での処刑を、興味津々に眺めているということでしょう。最高法院の議員
たち、ユダヤ教の宗教指導者たちはあざ笑って、侮辱のことばを述べます。「あれは他人
を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい」と、創造者であ
る神の救いのご計画に全く思いを寄せない、高慢さが滲み出ています。兵士たちも嘲るの
です。「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と。
この人々は、主イエスが、自分たちをも含めたすべての人を救うために、罪の赦しを与
えるための身代わりに神の処罰を受けていることを、全く知ろうとしません。もし主イエ
スがご自分を救うなら、自分の救いの道は閉ざされることを知らないのです。
39節。ルカは、十字架上の二人の犯罪人について書き記します。ルカは医者であり、歴
史家として、十字架刑の目撃者たちから聞き取りをして、この出来事について調べ上げた
のでしょう。犯罪人の一人は、他の多くの人々と同様に、イエスを罵ります。「おまえは
キリストではないか。自分とおれたちを救え」と言うのです。
40節。その時、もう一人の犯罪人がたしなめました。彼は十字架上の主イエスを見て、
十字架の意味を理解しました。主イエスは人々のために罪の赦しを求め、罪から救うため
に十字架刑に処せられており、彼らの罪の赦しを求めて祈っていると悟ったのです。そう
して、もしかしたら、その赦しは自分にも向けられているかもしれないと期待して、主イ
エスに救いを求めました。彼は、自分の救いを欲したのです。
まず自分が罪を犯してきたこと、その報いを受けていることを正直に認めます。そして
彼は今、神を恐れる者と変えられました。これまでの生涯は、神をも恐れないで、悪を
行ってきたと言えます。自分の欲望に従って、自分さえ良ければと思って、様々な悪を欲
しいままにしてきたのです。その結果としての極刑です。
しかし主イエスの十字架での様子、そのことばを受けて、神を恐れる者となり、自分の
罪を正直に認めたのです。詩篇130篇に「主よ あなたがもし 不義に目を留められるな
ら だれが御前に立てるでしょう。しかし あなたが赦してくださるゆえに あなたは人
に恐れられます」とのことばがありますが、この詩の作者は、神である主は赦しの神であ
り、その赦しが差し出されているのに、その赦しを拒むことの報いは、どれほど恐ろしい
のかと、赦しの神だからこそ、恐れなければならないと告白しているのです。
41節。この犯罪人は、主イエスの無実を受け入れました。主イエスは悪いことは何もし
ていないのに、十字架刑に処せられている。この十字架刑は身代わりの処罰であり、全人
類の罪に赦しを備える、神の救いのご計画であると悟り、その中に自分も含まれているの
ではないかと受けとめたのです。救いを必要とする者、救いを欲する者は、差し出されて
いる救いを、自分のためであると受け入れようとします。
42節。そうしてこの犯罪人は、主イエスを神、救い主であるとしました。「あなたが御
国に入られるとき」とのことばが、主イエスこそ天の御国の権威を持つ神であるとの明確
な告白です。そして自分の救いを求めます。「私を思い出してください」と。
43節。主イエスはこの犯罪人の求めに真正面から応えます。「あなたに言います」とは
なんと幸いな、恵みとあわれみに満ちた語りかけでしょうか。34節では「彼ら」でした。
不特定多数に対する赦しと救いへの招きですが、ここでは「あなた」と限定され、個人的
で、親密な語りかけとなっています。そうしてはっきりと約束されました。「あなたは今
日、わたしとともにパラダイスにいます」と。この犯罪人の求めを喜び、受け入れ、そう
して救いへと導かれました。天の御国に入る権利を与えたのです。
さて、私たちは、この犯罪人が救われる様子を見て、どのように思うでしょうか。これ
ほど都合の良い人生はないと思い、こんな生き方に憧れるでしょうか。元気なうちは自分
の好き勝手な生活をし、人生の終わりに、創造者である神に立ち返り、救いを求めて救わ
れたなら、それがよいと考える人がいるかもしれません。しかしそれは惑わしです。創造
者である神を自分の神とし、主イエス・キリストを自分の主とあがめて生きる、真に幸い
な人生、真理に導かれる人生の素晴らしさを味わわない地上生涯であり、悲劇です。
この犯罪人は、死の間際に、主イエスを信じる信仰が与えられ、キリストを自分の主と
あがめることができました。しかし彼の、創造者と無縁の地上生涯は、真にすばらしい、
祝福された、良い一生だったと振り返ることのない生涯でした。もっと早く、若い時分か
ら、創造者である神を自分の神とし、真理を生きる歩みができていたならと、残念に思っ
たのではと考えるのです。救いに与った者が体験する、当然の喜び、感謝、希望、平安の
人生を味わうことがないのですから、当然の悲劇と言えます。
聖書交読の箇所に「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私
たちには神の力です」とありましたが、主イエスを信じた者は、本当にそのとおりですと
心から告白することばです。キリスト信仰者、主イエスを自分のかしらとして仰ぎ、キリ
ストに聞き従う者にとって、十字架の福音は、神の力そのものとなっています。
今週のみことば。「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人に
も、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」とは、私たちキリスト信仰者のすべ
てが、そのとおりですと同意する告白です。十字架の福音、主イエスが十字架で身代わり
の処罰を受けてくださったのは、全人類に罪の赦しを備える、救いの唯一の方法です。主
イエスの十字架の死と復活を信じることによって、罪が赦され、罪からの救いに与るとい
う喜びの知らせ、福音を受け入れることだけが、私たちが救われる唯一の方法です。だか
ら私たちキリスト信仰者は、十字架の福音を恥としません。福音は、信じるすべての人に
救いをもたらす神の力だからです。
主イエスの十字架を前にして、救いを必要とする者、救いを必要としない者が明確に分
かれました。犯罪人も、嘲る者と救いを求める者に分かれたのです。十字架につけられた
主イエスを救い主、神と受け入れるのか、拒むのか、どちらかを選ぶのです。
私たちキリスト信仰者は、十字架につけられた主イエスを自分の救い主と信じ、自分の
主とあがめる者となりました。この与えられた恵みを味わい、感謝して、さらに主イエス
を自分のかしらとして仰ぎ、主とともに、主に従って歩む私たちとされましょう。
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