私たちは今日、主イエスが十字架で処刑される直前の夜の出来事を確認します。2024年
の受難日は3月29日(金)となります。現代の暦では、木曜日の夜に、弟子たちと最後の食
事を取り、その後、ユダヤ教指導者たちに捕らえられ、罪に定めるための不当な裁判がな
されました。翌日の金曜日にローマ総督に引き渡され、十字架刑の宣告を受け、処刑され
ます。ユダヤ歴では、日没から金曜日が始まりますので、最後の晩餐も、不当な裁判も、
十字架刑も、そして死も、金曜日の一日の出来事となります。
過越の食事の時に、主イエスは弟子たちに、今夜、あなたがたはみな、わたしにつまず
きますと言われました。先ほど交読したマタイの福音書26章で、その出来事を確認したの
ですが、ルカの福音書では、22章31~34節と簡潔に記されています。
主イエスはペテロに「あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あな
たは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。ペテロが主イエ
スを知らないと口走ることをご存じの主イエスは、ペテロのその後の立ち直りをも予告す
ることで、教会の指導者としての役目を委ねたと言えます。
ペテロは、他の弟子たちがみなつまずいても、私だけは決してつまずきませんと言い張
りました。ペテロは、あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできてお
りますと、決意を述べるのです。ペテロの思いに嘘はなかったでしょう。彼は心底、主イ
エスのためなら死ぬこともできると考えていたのです。
主イエスは、弟子たちとゲツセマネの園に行きます。先ほど交読したマタイの福音書26
章36節から確認しましょう。主イエスは心を注ぎ出して祈ります。その祈りに、ペテロと
ヤコブとヨハネの三人を参与させようとして、一緒に目を覚ましているようにと命じまし
た。ペテロたちにも祈らせることで、神が立てられた救いの計画に備えさせようとした、
その配慮と言えます。しかしペテロたちは、みな、眠りに逃げてしまったのです。弟子た
ちは、主イエスの悲しみもだえる姿を見たくないと思い、目を背けたいとの誘惑を受け、
祈ることをやめて、眠りに自分を委ねました。
さてルカの福音書に戻りましょう。22章54節。主イエスは捕らえられ、大祭司の家に
連れて行かれました。ペテロも一旦は逃げてしまったけれど、思い直して、遠く離れてつ
いて行くのです。一緒に死ぬことも覚悟していますと口にした手前でしょうか。
しかし空元気は、やはり空元気でしかないことが、はっきりします。平時にはそれなり
に繕うことができても、有事の時には、肉の頑張り、覚悟だけでは通用しないという悲し
い現実を突きつけられます。恐怖に襲われてしまうと、全く通用しません。
56節。一人の召使いの女性がペテロを見つめて、周りの人に声をかけました。この人も
イエスと一緒にいました、と。ただそれだけです。イエスの仲間とか、イエスの弟子と思
う、ではないのです。しかし恐れで心が一杯になっているペテロには、このことばで自分
は訴えられたと思い込むのです。そしてすぐに否定しないと大変なことになると考えたペ
テロは否定しました。57節。その人を知らない、と。
58節、他の男が、今度は「彼らの仲間」だと言い、59~60節では、別の男が「確かに
この人も彼と一緒だった。ガリラヤの人だから」と強く主張するのです。最初の女性に対
して、そうですと認めていたなら、それで終わったと思います。マタイの福音書では、嘘
なら呪われてもよいと誓い始めたことが記されています。そうして鶏が鳴きます。
61節。主イエスは振り向いて、ペテロを見つめました。主イエスのまなざしは、どのよ
うであったかと想像します。叱責に満ちたものとか、言ったとおりになったねというよう
な見下すものではなく、赦しに満ちたまなざしであったと想像するのです。
主イエスはペテロがご自分を否定することを予告されました。そうしてペテロが、その
ような自分を許すことができない人物であることもご存じでした。だからご自分を否定す
るとの予告の前に「あなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。あ
なたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。
主イエスはペテロの弱さも、他の弟子たちの弱さも、そのまま受け入れておられ、その
上で、その弱さに自分を委ねるのではなく、主にあって、その大能の力によって強められ
るためには、祈り備える必要を説き、祈りへと招いたのです。しかし弟子たちはみな、祈
り備えることをしないで、眠りに逃げました。祈り備えなかった弟子たち、その代表とし
てペテロが、恐怖に襲われて、ご自分を知らないと言うことは当然のこととして受け止め
られたのです。主イエスのまなざしは、ペテロの失敗を受け入れるものであり、立ち直る
ことへと招く、あわれみと恵みに満ちたまなざしだったと思うのです。
62節。ペテロは外に出て行って、激しく泣いたとあります。自分の弱さに向き合い、祈
るべき時に祈らなかったことを悔い改める涙ではなかったでしょうか。
私たちも同じです。私たちが抱える弱さは人それぞれです。人と比べて、自分は強いと
思っているかもしれません。しかし現実の私たちは、強さも弱さも併せ持っています。自
分は強いと思っている部分でも、自分のその強さで立ち向かうことができないほどの困難
や危険が襲うこともあり、その時、自分の肉の頑張りでは、到底太刀打ちできない恐怖に
晒されたとしても、私たちキリスト信仰者は、偉大な神の大能の力によって強められるこ
とができ、立ち向かえるとの約束があります。主にあって、その大能の力によって強めら
れなさいと、パウロは勧めました。キリスト信仰である私たちは、自分の肉の頑張りに
よってではなく、大能の力によって強められることが大事です。祈り備えた者は、全能の
神の、大能の力によって強められるのです。
さて主イエスの祈りを見て、私たちもその祈りの姿勢に倣いましょう。42節。主イエス
はご自分の思い、願いを率直に訴えます。この部分を、マタイの福音書はもっと詳しく記
しています。「わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」と
祈られました。眠っている弟子たちに対して「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っ
ていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」と語り、父なる神への祈りを、3回繰り
返して祈ったことが記されています。主イエスの祈りは、自分の願いを父なる神のみここ
ろに合わせる祈りであり、祈り込んで、自分を父なる神に従わせました。
今週のみことばにあるように、私たちが招かれているのは「あらゆる祈りと願いによっ
て、どんなときにも御霊によって祈りなさい」ということです。忍耐の限りを尽くしての
祈りに招かれています。自分の思いを神のみこころに合わせるために、忍耐の限りを尽く
して祈ることが必要であるということです。
礼拝招詞、ピリピ人への手紙4章6~7節では、「何も思い煩わないで、あらゆる場合
に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただ
きなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリ
スト・イエスにあって守ってくれます」と招きます。自分の思いを父なる神のみこころに
合わせることができるなら、私たちの心と思いは、あらゆる状況で守られるのです。
私たちの父となってくださった創造者である神、全能の神は、私たちに、自分の願い事
をことごとく述べるようにと招いています。思い煩いを脇に置いて、その思い煩いから解
放されて、愛の神、祝福と恵みに富んでおられる神との人格的な、霊的な交わりに自分を
差し出し、自分の願いを率直に申し述べることが大事です。
主イエスは、ご自分の思い、願いをまっすぐに、父なる神に訴えました。この杯をわた
しから取り去ってくださいと。十字架での死以外に、罪人に罪の赦しを備える方法がある
ならば、その方法を用いてくださいと願ったのです。十字架で処刑され、死ぬことは避け
たいとの思いを、その願いを正直に述べました。
これは、自分の願いの通りにしてくれないと困るという、自分の思いの押しつけ、自己
主張の祈りではありません。自分の思い、自分の願いはこうであるけれど、あなたの御思
いはどうでしょうかとの問いかけであり、それが異なるのであれば、あなたのご計画に従
いますという、父なる神への献身の祈りなのです。
私たちは、父なる神に、どのような祈りをしているでしょうか。自分の願いや思いを述
べることそれ自体は、父なる神に喜ばれます。私たちの父なる神は、私たちにご自分の子
どもとなる特別な権利、恵みを与えてくださいました。そうして神の子どもとされた私た
ちキリスト信仰者が祈ることによって、父なる神との霊的な交わりを深めることを喜んで
おられるのです。ですから、私たちは、より熱心に祈る者となりましょう。
そうして私たちは、父なる神に祈ることで、父なる神と自分との関わりを確認し、自分
の思いと願いを、父なる神のみこころに合わせる作業をするのです。主イエスが父なる神
に祈られた祈りに見倣いましょう。自分の願いは自分の願いとして申し述べ、その上で、
あなたのみこころのとおりになりますようにと、自分の思いを父なる神の御思いに合わせ
て、自分を全能の神、全地の主に委ねていくのです。私たちが祈る、祈りの目的です。
ペテロを始め、弟子たちは、祈るべき時に、祈りませんでした。自分の思い、自分の願
いに固執したまま、父なる神のみこころに思いを向けることなく、主イエスの捕縛を迎え
たのです。祈り備えていなかったので、父なる神の救いのご計画であると受け止められず
に、慌てふためき、恐れを抱き、逃げ出しました。悲しい現実です。
もしペテロたちが眠らずに、誘惑に陥らないで、目を覚まして祈り続けていたなら、主
イエスの祈りを真正面から受け止め、その祈りに自分を合わせたなら、その後の状況は全
く別物となっていたでしょう。主イエスの捕縛も、その後の裁判、そして十字架刑も、父
なる神の救いの計画の実現であり、罪人に、全人類に、罪の赦しが備えられると受け止め
たはずです。そうしてペテロも、父なる神の大能の力に支えられて、主イエスを知らない
などと言わずに、大胆に証しができたのではないでしょうか。
やがて、助け主の聖霊が、主イエスを信じる者たちに遣わされ、ペテロも、弟子たちも、
みな聖霊の助けを受けて、主イエスの十字架と復活による、罪の赦しと罪からの救いを大
胆に証したように、祈り備えていたなら、この時に、彼らは大胆に証しができたのだろう
と考えます。
今私たちは、キリスト信仰者として、父なる神に祈ることができます。自分の思いは自
分の思いとして、自分の願いは自分の願いとして、あらゆる場合に、感謝と願いによって
父なる神に知っていただくことができます。そうして、祈り備えた者は、父なる神のみこ
ころに自分を合わせて、自分を主に献げ、従うことができます。忍耐の限りを尽くして祈
りなさいと招かれています。この招きに喜んで応じる者となりましょう。今日の箇所のペ
テロのように、悲しい現実を迎えることのないキリスト信仰者として歩みたいのです。
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