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2024年3月10日 礼拝「神の御子を排除する罪」ルカ20:9~19

 主イエスの十字架での死が目前に迫っていて、ユダヤ教指導者たちによる、主イエスに

対する殺意は日増しに激しくなっていくのです。今日の箇所の前の段落、2節で、ユダヤ

教指導者たちが、主イエスに、何の権威で、商売人たちを神殿から追い出し、彼らが商売

することを禁じたのかと問いかけました。だれが、その権威を授けたのかと。

 19章45節に、主イエスの、いわゆる「宮きよめ」と表現される出来事が記されています。

神の宮、神殿には、すべての民が礼拝を献げることができる場所があります。祭司やレビ

人が入れる場所、ユダヤ人男性が入れる場所、女性が入れる場所、そして異邦人が入れる

場所と区別されていますが、神への礼拝は、すべての人に開かれていたのです。

 商売人たちは、異邦人の庭と言われる場所、つまり異邦人のために設けられた場所を占

拠し、巡礼者にささげ物にする動物を売ったり、神殿に納めるお金の両替をしたりしてい

ました。そして多くの利益を得ていたのです。主イエスは、商売人たちを異邦人の庭から

追い出しますが、その時に言われたのが46節です。「わたしの家は祈りの家でなければな

らない」と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを「強盗の巣」にした、と。

 ここにも、ユダヤ教徒たちの間違った選民意識が現れています。異邦人のための神への

礼拝の場が設けられているのに、その場を商売のために奪い、しかも敬虔なユダヤ人、巡

礼者たちを利用して利益を得ることを平気で行っていました。しかも、その利権の汁をユ

ダヤ教宗教指導者たちが吸い取っていたのです。主イエスに邪魔をされた彼らが、主の言

動に難癖をつけます。そして、だれがそのような権威を与えたのかと質問したのです。彼

らが主イエスに期待した答えは、神の権威によってということでした。その言質を取るこ

とで、神への冒瀆としてイエスを捕らえようとしたのです。

 主イエスは、彼らの問いかけに答えずに、逆に質問をしました。4節。「ヨハネのバプ

テスマは、天から来たのか。それとも人から出たのか」と。彼らの「知りません」との答

えを受けて、自分も答えないと言われ、そうして今日の箇所のたとえを話されたのです。

 19節で、律法学者たちと祭司長たちが気づいたとあるとおり、このたとえはユダヤ教指

導者たちの、神への反抗、敵対行為をたとえていること、そして神の御子を殺すことで、

彼らも神に殺されることになるとの予告となっているのです。

 9節。ある人とは父なる神、創造者である神がたとえられています。ぶどう園とは神の

民として選ばれたイスラエルであり、彼らに与えられた使命、主なる神を神として崇め、

主の栄光が現されることで、全世界の民の祝福となる、つまりあらゆる国民が主なる神を

自分の神として崇めるための祝福の基となる実を結ぶということです。農夫たちとは、神

の民を導き、その使命のために働く宗教指導者たちです。

 10節。このたとえの方法は、普通になされていました。地主が小作に畑を貸し出し、収

穫時に収穫の一部を納めてもらうということです。さて、収穫の時が来ました。収穫の一

部を受け取るために、主人はしもべを遣わすのです。しかし農夫たちはそのしもべを打ち

たたき、何も持たせないで帰らせたとあります。主人に対する感謝もなく、当然の支払い

を拒否する、主人への軽視、侮辱です。このしもべたちは、主の預言者たちと言えます。

 11~12節。別のしもべ、三人目のしもべを遣わすのですが、農夫たちはしもべたちを辱

め、傷を負わせて追い出してしまいました。神の民イスラエルの歴史が旧約聖書に記録さ

れていますが、王や宗教指導者たちは、偽預言者を重宝しても、主の預言者を毛嫌い、辱

めたり、殺したりしたのを確認できます。主なる神を軽んじ、退ける行為でした。

 13節。この主人は忍耐強く、農夫たちが更生するのを待ち続けます。そうして最後に息

子を遣わすのです。この子なら、きっと敬ってくれるはずだと期待して。

 14節。しかし農夫たちは、頑なに主人を軽んじ、侮り、拒みます。跡取りがいなくなれ

ば相続財産は自分たちのものになるとまで言い出す次第です。主人の忍耐強い関わり方に

対して、農夫たちの主人に対する尊敬のなさ、感謝のなさ、侮蔑の態度は度を超していき

ました。そうして15節。農夫たちは、その主人の息子を殺すのです。

 16節。主人はあわれみ深く、恵みに富み、忍耐強いお方ですが「あわれむのに疲れた」

と言われたなら、救いの道は完全に閉ざされます。主人は農夫たちを殺すとあります。恐

ろしいですね。そうしてぶどう園を他の人たちに、ぶどう園を委ねてくださった主人に感

謝して、その収穫を主人に納める者たちに与えるのです。

 このたとえを聞いた人たちは、そんなことが起こってはなりませんと言いますが、猶予

期間のうちに悔い改めなければ、容赦なく罰せられるのです。創造者である神は侮られる

方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。だから私たちは、

神に対してどのような種を蒔いているのか自己吟味し、正していかなければなりません。

 17節。主イエスは詩篇118篇のことばを引用します。家を建てる者たちが捨てた石、そ

れが要の石となります。ここで主イエスは、家を建てる者たちを、ユダヤ教指導者たちに

当てはめます。彼らが捨てた石とは主イエスのことです。捨てられた主イエスは、新しい

家の要の石となるのです。要の石が基になって、新しい家が建てられていきます。主イエ

スを基準とする神の家、キリストのからだである教会が建てられていくのです。

 18節。主イエスと敵対関係のままになることの恐ろしい結末が宣言されています。粉々

に砕かれ、押しつぶされるとあるように、御子を排除する者への完全な壊滅の宣言です。

 19節。律法学者たちと祭司長たちは、自分たちを指してこのたとえが語られたことに気

づきます。しかし心を頑なにするユダヤ教指導者たちは、神の前でへりくだることを拒み

続け、主イエスに対する敵対心を強めていきます。

 主イエスは、ご自分を、主人の息子、神の子であるとたとえの中で語られました。神の

権威で、商売人の悪行をやめさせ、異邦人の庭が設けられた当初の目的にしたがって「宮

きよめ」を行ったことの宣言をしたとも言えます。そうして神が計画された救いの実現の

ために、ユダヤ教指導者たちに自分を委ね、殺されることになります。実際に、この3日

後に、指導者たちの手によってローマ人に引き渡され、十字架刑に処せられます。

 しかしこれは非業の死ではありません。神が計画された、罪人の罪を赦し、罪からの救

うための、唯一の方法です。主イエスの十字架の死を、自分のためであると信じ、受け入

れる者は、罪が赦され、永遠のいのちを受け、神の子どもとされます。しかし主イエスを

拒む者は、自分の罪のゆえに滅ぼされるのです。御子を拒む者に、容赦はありません。

 ユダヤ教指導者たち、そして彼らが作ったユダヤ教という宗教に固執する者は、主イエ

スを神の子と認めることを拒み続け、滅ぼされました。ローマ帝国によって、エルサレム

は滅ぼされ、神殿は完全に破壊されたのです。しかし主イエスを信じたユダヤ人たちが中

心となって、キリストのからだである神の教会が建てられ、彼らの福音宣教を通して救い

は異邦人に及び、全世界に、主イエスを信じる神の民は拡がっています。

 当時から二千年経った今も、多くのユダヤ人は主イエスを拒んだままです。しかしこれ

はユダヤ人だけの問題ではありません。全世界の異邦人の問題でもあるのです。主イエス

はたとえを語られましたが、創造者である神は、ユダヤ人に悔い改めの機会を備え続けま

したが、これは異邦人に対しても同じです。神の民イスラエルのためには、繰り返し預言

者を遣わし、招き続けたように、今もキリスト信仰者たちを用いて、十字架の福音を宣べ

伝え続けさせ、悔い改めへと招いておられます。しかし多くのユダヤ教徒たちは、預言者

を遣わされた神を軽んじ、預言者を侮辱し、殺すことさえしました。その結果、神の民イ

スラエルは滅ぼされましたが、これはそのまま、すべての人に当てはまるのです。

 このたとえは直接的には、ユダヤ教指導者たちに向けられて語られました。そしてユダ

ヤ教を信奉して、神の御子を拒むすべてのユダヤ人にも当てはめることができます。そう

して、創造者である神を信ぜず、神の御子、主イエス・キリストの十字架による罪の赦し

を拒むすべての人にも、適用することができるのです。

 創造者である神は、創造の初めから、人が罪に陥ったときから、すべての人がご自分を

神と認めることを求めて、招いておられます。そうして農夫たちがぶどう園を託されたと

たとえられているように、私たちも地上生涯という生活の場、働きの場を、真の所有者で

ある生けるまことの神から託されています。そして農夫たちが主人を軽んじ、反抗したの

と同じように、ユダヤ人も異邦人も、すべての人が創造者である神を自分の神とせずに、

自分が神であるかのように錯覚して、自分の好き勝手に地上生涯を送り、結果として神に

対して罪を犯しています。そのような私たちをも、創造者である神は忍耐をもって招き続

けておられます。地上生涯が、私たちに与えられている滅びの執行猶予期間です。

 罪の報酬は死ですと、聖書は言明します。罪はすべてさばかれ、罰せられます。創造者

である神は公正を行われる義の神ですから、罪を見過ごしにすることはありません。必ず

罰します。しかし創造者である神は愛とあわれみに富む神なので、私たちを滅びから救お

うと招き続けておられます。罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、と続きます。神の賜

物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。神の恵みのプレゼントであ

る永遠のいのちは、私たちの主キリスト・イエスにあります。

 この神の御子を受け入れる者は、御子のうちにある永遠のいのちを受け取ることになり

ます。神の御子を拒む者は、神の御子を遣わされた父なる神を拒む者であり、創造者であ

る神の、悔い改めへの招きを拒むことです。畑の主人が、農夫たちを殺したのと同じよう

に、創造者である神は、神の御子を拒む者、十字架の死と復活による、罪の赦しと罪から

の救いを拒む者を、滅びに定めたまま、この世から取り去るのです。

 神の御子を排除する罪ほど、恐ろしい罪はありません。御子によって差し出されている

救いへの招きを拒むのですから、これほどの罪、創造者である神を拒む最大の罪であると

言えます。罪人が、自分に差し出されている救いを拒むのですから、自分の決断で救いへ

の道を閉ざすことになるのです。罪の赦しを受け取らないまま、罪が残ったままで地上生

涯を終えるのですから、最後の審判の時に、滅びが執行されるのです。

 今週のみことば「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御

名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」この方、主

イエス・キリストを信じる以外に、私たちが救われる道はありません。



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