今年、主イエスの復活の日は3月31日となります。受難日は29日(金)です。それに合わ
せて、3月は受難週の出来事を取り上げ、神のことばを確認します。今朝は棕櫚の聖日と
言われる、主イエスがエルサレムに入城された場面です。これまでも、主イエスは何度も
エルサレムに来ておられますが、ご自分は王であると明らかに宣言しての入場はこの時だ
けで、預言の成就と分かる特別な形を取られました。
37節。主イエスはオリーブ山の下りにさしかかります。この時主イエスは子ろばに乗っ
て入場されたのです。28節からの段落で、2人の弟子を遣わし、子ろばを連れて来させま
した。これは預言者ゼカリヤを通して、主なる神が語られたメシヤ預言に従ったことを表
します。「あなたの王があなたのところに来る。柔和な者で、勝利を得、雌ろばの子であ
る、ろばに乗って」と記されています。通常、王が勝利の凱旋するときは、軍馬に乗って
入城します。しかしメシヤ、救い主は、戦いの勝利者としてではなく、平和の君として入
場されるので、軍馬にではなく、子ろばに乗ってと預言されたのです。
37節にある大勢の弟子たちとは、ガリラヤから過越の祭りを祝うためにエルサレムに来
た人々と考えられます。彼らはガリラヤで、主イエスの、神である証拠のしるしとしてな
された様々な奇蹟を目撃して、主イエスを先生と仰ぐ者となっていました。そうして主イ
エスのエルサレム入場を目撃して、いよいよローマの支配から解放される時ではないかと
期待した人々が、主イエスに向かって叫び出し、神を賛美し始めたのです。
38節。主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き
所にあるように。明らかにメシヤと認め、メシヤとして迎える賛美と言えます。
39節。そのことを感じ取ったパリサイ人の何人かがイエスに抗議の声かけをします。あ
なたの弟子たちは神を冒瀆することばを発しているから、それをやめさせるようにと。
40節。しかし主イエスは、ご自分が王としてエルサレムに入ることは、神のみこころで
あると宣言なさるのです。この人たちが黙れば、石が叫びますと。しかしユダヤ教徒たち
は、神の御子、救い主、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる
メシヤを認めず、王として迎えようとはしませんでした。
41節。さて、主イエスはエルサレムに近づき、都をご覧になったとき、この都のために
泣かれました。なぜ主イエスはエルサレムをご覧になって泣かれたのでしょうか。それは
42節からの宣告をしなければならないからです。心を頑なにして神のみわざを拒むユダヤ
教宗教指導者たち、そして彼らが作り出したユダヤ教に従うことで、神ご自身を拒むこと
を選び取るほとんどのユダヤ人に対して、滅びを宣告せざるを得ない悲しみと言えます。
ヨハネの福音書1章10~13節で、ヨハネは、神の御子、救い主の出現とそれを迎える
ユダヤ人の態度について証言します。「この方はもとから世におられ、世はこの方によっ
て造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、
ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、
その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血に
よってではなく、肉の望むところでも人の意志でもなく、ただ、神によって生まれたので
ある」と証言しています。メシヤ、キリストは、ご自分の民ユダヤ人に拒まれたのです。
42節。主イエスの嘆きは、創造者である神が遣わされたメシヤを、平和の君として迎え
る心が全くないユダヤ教徒たち、特に宗教指導者たちの、神に対する心の頑なさ、反逆を
ご覧になり、彼らの決して悔い改めようとしない態度を確認したからです。平和とは神と
の平和です。主なる神が備えておられる救い、神との平和への道を、彼らは知ろうとしま
せんでした。主イエスは宣言しておられます。「わたしが道であり、真理であり、いのち
なのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」と招
かれましたが、その心の頑なさゆえに、彼らの目から隠されたままになったのです。
43~44節。歴史を知っている私たちは、この宣告が、紀元70年に現実になったことを
知っています。ローマ帝国によるユダヤの滅亡です。エルサレムは滅ぼされ、神殿も破壊
されます。主イエスは21章20節から、その時の行動を指示しておられます。
21章20節~「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その
滅亡が近づいたことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。都
の中にいる人たちはそこから出て行きなさい。田舎にいる人たちは都に入ってはいけませ
ん。書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです」と指示しています。エ
ルサレムの滅亡、神殿の破壊は、ご自分への、神への反逆の報復だと明言されたのです。
主イエスは都をご覧になり、都のために泣かれました。私たちは主イエスの心と思いの
すべてを知ることはできません。しかし現に、主イエスは都と神殿の破壊、エルサレムの
滅亡の宣告をしなければならないことを泣かれたのです。
この主イエスの悲しみ、嘆きを思いながら、主なる神が預言者エレミヤを通して語られ
たことばを思い浮かべました。エレミヤ書15章5~6節。「エルサレムよ、いったい、だ
れがおまえを深くあわれむだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。お
まえはわたしを捨てた。ーー主のことばーーおまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしは
おまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた」
哀歌には「主のあわれみは尽きないからだ」と宣言されていますが、主なる神に「あわ
れむのに疲れた」と言わしめるイスラエルとユダの背き、反逆はいかばかりかと思わされ
るのです。エジプトの奴隷状態から解放して神の民とされ、全世界の民の祝福の基となる
使命を委ねられたにもかかわらず、間違った選民思想に陥り、かつ創造者である神を自分
の神と仰ぐことを退けて、霊的にも、道徳的にも腐敗し、退廃を深める神の民イスラエル
をあわれみ続け、悔い改めに招き続けたけれど、新バビロニア帝国によって滅ぼし尽くす
ことへと進ませたのは、彼らの背きの甚だしさのためでした。「あわれむのに疲れた」と
の宣告に、主なる神の嘆き、悲しみを思います。
しかし「主のあわれみは尽き」ませんでした。残りの民を捕囚としてバビロンへ連れて
行かれ、70年後に、主なる神は神の民を帰還させ、神殿の再建へと導かれたのです。そう
して神の御子誕生の環境を整えさせます。キリストが人として生まれ、全人類の罪をその
身に負わせ、十字架で身代わりの処罰をすることで、私たちに罪の赦しを備え、悔い改め
へと招いてくださいました。そうして主イエスを自分の救い主と信じ、自分の主と仰ぐ者
を起こし、主イエスに対して「あなたは生ける神の子キリストです」と告白する信仰の上
に、主イエスはご自分の教会は建てました。神の子どもとされる特権は、エルサレムから
始まり、ユダヤとサマリヤ、そして全世界に、主イエスを信じる者に与えられています。
今日私たちは、ユダヤ教を作り上げ、主なる神に敵対する者となった多くのユダヤ人へ
の報復として、王としてエルサレムに入城された主イエスが、エルサレムの滅亡と神殿の
破壊を宣告された箇所を見ています。主のあわれみは尽きないけれど、あわれむのに疲れ
たと言わしめる態度をとり続けてはならないと自戒しましょう。
パウロはローマ人への手紙で、ユダヤ人ではないキリスト信仰者に警告しています。神
が本来の枝、栽培されたオリーブであるユダヤ人を惜しまなかったとすれば、あなたが
た、野生であるオリーブから接ぎ木されたユダヤ人以外の者たちをも、惜しむことはない
と。そうしてパウロは「ですから見なさい。神のいつくしみと厳しさを。倒れた者の上に
あるのは厳しさですが、あなたがたの上にあるのは神のいつくしみです。ただし、あなた
がそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたがたも切り
取られます」と書き記しました。私たちは主なる神を正しく恐れることが大事です。
「主のあわれみは尽きません」。主なる神は私たちを愛して、罪と滅びの中から贖い出
し、救いへと招き、罪の赦しを備えて待っておられます。しかし「あわれむのに疲れた」
と言わしめる態度を、私たちは主なる神に取り続けることができます。そのまま、神の報
復を引き寄せてしまわないように、主を正しく恐れる心を持ちましょう。
ルカの福音書21章36節。
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