私たちが救われるのは、神の御子イエス・キリストを自分の救い主と信じる信仰によっ
てのみです。これが創造者である神が全人類と結ばれる新しい契約です。聖書は明言しま
す。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子ど
もとなる特権をお与えになった」と。私たちは主イエス・キリスト信じる信仰によって救
われ、神の子どもとされる特別な権利を受け取りました。これは人種や民族によってでは
なく、人の意志や願望によってでもなく、神の一方的な恵みによる救いです。
今日私たちは、人となられた神の御子、主イエスが、ご自分は罪を赦す権威を持つ神で
あると宣言される箇所を確認します。一人の中風の人を癒やすことの結果として、罪を赦
す権威を持っていることを明らかにされたのです。
中風とは、脳出血などの後遺症によって、半身不随や手足の麻痺が残っている状態のこ
とで、この男性は寝たきりとなっていました。中風であることは、この男性にとっても、
また4人の友人たちにとっても切実な問題であり、どうしても癒やしてほしいとの願いを
もって、友人たちは、中風の癒しのため行動を起こしました。
当時、病気は罪の結果であると考えられていて、重い病気になるのは、それだけ大きな
罪を犯してきたことの報いに違いないと見なされていました。だから真面目な人ほど、自
分の過去を思い起こし、その原因となる罪を考えては自分を責めることで、二重の苦しみ
を受けることも多かったのです。
病気や障害はすべて罪の結果であるという考えを、聖書は否定しています。旧約聖書に
記された義人ヨブは、まさに罪とは関係なく病気になり、苦悩、苦痛を味わいました。新
約聖書にも、生まれつきの盲人を見て、弟子たちがイエスに問いかけました。「先生。こ
の人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか」
と。主イエスは弟子たちに答えます。どちらでもない、と。
病気や障害のある人を見て、その原因をその人や家族の何らかの罪と関係づけることを
否定したわけです。私たちも気をつけましょう。人の、いわゆる不幸と言われる状態を見
るとき、そこに因果応報的な、罰当たりな背景を詮索する思いを持ってはなりません。そ
れこそ二重三重の苦しみを味わわせることになります。同時に、多くの場合、罪とか不摂
生が原因で病気になり、障害を負い、またいわゆる不幸と言われる状況に見舞われること
があるのも事実です。その時でも、その事実を本人が一番良く知っているのでするから、
他人があれこれと詮索し、言及する必要はないということです。
3節。ひとりの人が中風になり、友人たちは親身になってお世話していたのでしょう。
そして友人たちは、今イエスがカペナウムに来ていることを知り、この機会に中風を治し
てもらおうと考えました。彼らは、イエスは中風を治すことができると信じたのです。そ
して4人は、中風の友人を寝床のまま担ぎ、イエスのおられる家まで運んで来ました。し
かし大勢の群衆に遮られて、イエスのもとまで運び込めませんでした。しかし彼らは諦め
ようとはせず、どうしても治してもらたいという、イエスへの信仰から来る熱心さで、屋
根に穴を空けて、寝床のままイエスの前に吊り降ろしたのです。
5節。友人たちには、予期しなかったことばだったと思われます。彼らは当然、病気の
癒しを宣言することばや行為を期待していたはずだからです。しかし主イエスは「子よ、
あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。
このことばを聞いた中風の人はどう感じたのだろうと想像します。もしかしたら間違っ
ているかも知れませんが、「あなたの罪は赦された」との宣言に、この男性は、最初は戸
惑ったけれど、その後、言い知れぬ慰めと解放とを感じ、喜びがわき上がってきたのでは
ないかと思うのです。
彼は、どうして自分は、これほどの病気になったのかと思い、その原因を過去の言動を
思いめぐらしながら探り、何が悪かったのかといろいろと考え、そして自分を責めていた
のではないでしょうか。そこに主イエスが触れてくださったのだと思うのです。
主イエスは、彼らの信仰を見て、とあります。この人々は、友人の中風を治してもらう
ために来たのですが、主イエスは中風の人の根源的な必要に触れ、その必要を満たしてく
ださったのです。それは一方的な宣言ですが、この中風の人の究極の必要を知っておられ
る方からの、その必要を満たす宣言であったということです。
赦しということばに注目しましょう。私たちの社会が日常的に使っている「ゆるし」
は、しても良いという、許可の「ゆるし」です。しかし聖書は、なかったことにするとい
う意味、罪を犯さなかったとみなすという、赦免の「ゆるし」を用いるのです。
主イエスは「あなたの罪は赦された」と言われました。このことばが効力を持つなら、
何と幸いでな宣言はないでしょうか。私たちがしてきた数々の間違いや過ち、いろいろな
罪に対して、なかったことにするという宣言です。本当に幸いな宣言です。
6~7節。そこに居合わした律法学者たちは疑問を待ちます。彼らが心の中で考えたこ
とは正しいものでした。神おひとりのほかに、誰も罪を赦すことはできないのです。そし
て彼らは間違えました。主イエスを神であると認めなかったからです。主イエスのなすわ
ざを謙虚に受け止めるなら、神であると認めることができたはずです。神であるなら、罪
を赦す権威を持っているのは当然です。
そして彼らは思ったのではないでしょうか。言うだけなら何とでも言える。
9節。主イエスは律法学者たちに問いかけました。「あなたの罪は赦された」と言うの
と、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。みなさまはどちら
が易しいと考えるでしょう。律法学者は、赦しの宣言は無責任にできると考えました。し
かし罪の赦しの宣言も中風の癒しも、どちらも難しいこと、人にはできないことです。
10節。人の子とは、主イエスが、ご自分を指すことばとして使っています。人の子、主
イエスが地上で罪を赦す権威を持っているという宣言はとても重要です。そして罪を赦す
権威を持っていることのしるしとして中風を癒されたのです。主イエスがなす奇跡や不思
議は、ご自分が神であることの証拠としてのしるしであり、罪を赦す権威を持っている神
であることを示すためのわざです。多くの人は、イエスがなした奇跡の記述は信じられな
いと言います。それは、偉大な人物としてのイエスを考えて、奇跡など起こせないと結論
づけるからです。しかしイエス・キリストは神そのもののお方であるなら、様々な不思議
や奇跡はできて当然のはずです。神には、不可能はありません。聖書に記された主イエス
の奇跡は、主イエスが神であることの証拠としてのしるしなのだと知りましょう。
11節。この男性にとって、また友人たちにとって、中風の癒しは切実な必要でした。し
かし主イエスは、彼にとってのより切実な、究極的な必要に目を向けさせたのです。切実
な必要が満たされるのは感謝であり、喜ばしいことです。しかし究極の必要が満たされな
ければ、その切実な必要の満たしは一時的な満足、喜びで終わります。そうして究極的な
必要が満たされるなら、切実な必要が満たされないとしても、さほど大きな問題ではなく
なるのです。主なる神は最善、最良をなさるとの確信がその人を生かすからです。
12節。中部の人は主イエスのことばを信じました。主イエスを、罪を赦す権威を持って
おられる神であると認めたので「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」とのこと
ばに自分を従わせました。主イエスの神としての権威に自分を委ねて、麻痺している身体
で起き上がろうと踏み出したのです。その時、神のことばの権威が彼を覆い、彼のからだ
は完全に癒されました。神のことばは生きていて力があります。神のことばが発せられ、
そのことばに応じる時、神のことばに応じる者を生かすのです。彼の中風が癒され、そし
て彼は罪の赦しをも受けました。病気が癒されることは感謝です。喜ばしいことです。し
かしそれは一時的です。また別の病気になります。罪が赦されなければ滅びです。
聖書は宣言します。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まって
いる」と。罪の赦しを受けなければ、死後に、神の定めの時に、地上でなしてきた様々の
悪や犯してきた罪が公正に審かれ、罰を受けることになります。この究極の問題に解決を
得なければなりません。これこそ私たち人間にとって、罪人にとっての究極の必要です。
なぜなら罪は必ず罰せられるからです。私たちが、私が、あなたが犯した罪は、それがど
れほど微細な罪であっても、公正な神は必ず罰します。だから主イエスは、罪を赦す権威
を持っていることを中風の人を癒すことで証明され、そして十字架で処刑されることで、
私たちの代わりに罪の罰を受けて、私たちのための赦しを備えてくださったのです。
私たちがすることは、この、主イエスの十字架を、自分の身代わりの処罰であると受け
入れて、差し出されている罪の赦しを受け取ることです。その時私が犯したあらゆる罪の
すべてが赦されます。罪を犯さなかったとみなされ、神が定められたさばきにおいて、あ
なたには、さばくべき罪はありませんとの宣言を受けるのです。
ローマ人への手紙2章4~11節。私たちが神の前での善を行えるのは、罪の赦しを受け
取り、神のいのち、永遠のいのちを生きる者となり、助け主の聖霊を心に宿し、聖霊に助
けられて、神のことばを生きることによってのみです。神にえこひいきはありません。
罪が赦され、永遠のいのちが与えられ者は、全能の父なる神の恵みと祝福に自分を委ね
るので、主なる神が最善をなしてくださるという確信を生きる者となります。
主イエスは宣言されます。「あなたの罪は赦された」と。主イエスによる十字架の死と
復活によって、罪の赦しと罪からの救いは完成しました。主イエス・キリストは創造者で
ある神が救い主として遣わされたことを信じるのか、この神の救いのわざを拒むのか、と
いう選択が全人類に差し出されています。
差し出されている救いを、神の一方的な、先行的な恵みとして、自分のものとして受け
取ることで、私たちは罪を赦され、救いに与り、神のいのちを生きる者とされます。そう
して、神のいのちを生きる日々を、かしらであるキリストに聞き、従いながら、歩み続け
るのです。キリスト信仰者である私たちは、主イエスにある喜びと感謝、希望と平安を、
日々歩む者とされているのです。
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