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2024年2月4日 礼拝「どうしても必要なこと」ルカ10:38~42

 今日の箇所には、有名なマルタとマリア姉妹に関する出来事が記されています。ここで

主イエスは、マルタに対して「必要なことは一つだけです、マリアはその良いほうを選ん

だのです。それが彼女から取り上げられることはありません」と語られました。その意味

を確認し、私たちも、それぞれ与えられている持ち味、賜物を用いて、主イエスに喜ばれ

る働きをする信仰者になりたいと願います。

 私たちにとって必要なものは沢山あります。なすべきこともいろいろあるでしょう。こ

れもあった方が良い、あれもあった方が良いと、数え上げれば必要なものはいくらでも出

てきます。これもしなければならない、あれもしなければならないと考え出せば、なすべ

きことはどんどん増えます。でも一歩退く必要があります。それはなくてはならないもの

だろうか、それがないと生きられないのかと。そうすると、今はすぐにでも必要なわけで

はないと思えないでしょうか。これはどうしても今しなければならないことかと考えてみ

るなら、それほどでもないと気がつくことがあります。

 38節。イエスと弟子たちの一行が、ベタニヤという村にある一軒の家、マルタとマリア

とラザロの3人兄弟が暮らす家を訪れました。ベタニヤはエルサレムの近郊で、主イエス

がエルサレムで活動するときには、この家に泊まるようになりますが、その最初の滞在か

もしれません。この箇所にはふたりの姉妹の言動が描かれています。イエスと弟子たちの

滞在は、この家族にとって喜ばしいことでした。

 ただ、その歓迎の仕方に、性格の違いが現れたのです。ここで私たちは、どちらの性格

が良いか、どちらが優れているかと、比較してはなりません。

 39~40節。マリアは静かに、主イエスの足もとに座って、その語られることばに聞き

入っていました。マルタは、一行のもてなしのために心を用いていたのです。

 主婦の方々にとっては人事ではないと思います。イエスと弟子たちです。13人の大人を

もてなすのです。食事は何を出して喜んでもらおうか、泊まるための寝具などは整ってい

るか、部屋は片づいているかと、それこそ猫の手を借りたいほどに、てんてこまいであっ

たと考えられます。近所の人たちにも、手伝いに来てもらっていたかもしれません。

 そのような状況の中、マリアは何もせずに、主イエスの足もとに座っています。最初は

喜んでもてなしのために心を砕いていたマルタも、いつしかイライラが募ってきて、何も

しないで座っているマリアに怒りが湧いてきたわけです。

 マルタの気持ちは良く分かりますね。最初は一所懸命、しかも喜んでしていたことも、

ふと気がつくと自分だけが頑張っているように思えると、苛立ったり、自分だけ損をして

いるように思えたりして、何もしていないと思える人に腹を立てることもあります。そし

てその不満、憤りや怒りは、身近な人に向けられ、爆発することになります。

 私たちは人と比べることをやめましょう。それぞれ性格も能力も、生きてきた背景も違

います。価値観も考え方の基準も同じではありません。それを同じようにならなければな

らないと考えること自体に無理があるのです。だから自分に委ねられたと思う働きを、人

はどうであれ、自分にできることで、誠実に、忠実に行えば良いのです。人に喜んでもら

おうとすることは大切です。しかし自分の限度を超えた頑張りは、かえって人にも、自分

にも、嫌な思いにさせてしまう結果となります。

 ただ今日の箇所で、主イエスが教えられたことは、もっと違うことです。マルタのいら

いらという出来事を通して、主イエスはとても大切なことを教えられました。大切なこと

は沢山あるし、しなければならないことも沢山ある。しかしどうしても必要なことは何か

と考えたなら、それは多くはない、いや究極的には、ただ一つだけだということです。

 マリアはそれを選んでいたということです。しかしマルタにとっては、それはどうして

も必要なことだとは思えませんでした。今はとにかく、主イエスのために最も良いもてな

しをすることであり、そのためにはもっと助け手が必要だったわけです。だからマリアを

手伝わしてほしいと、お客である主イエスに対して、失礼な要求になってしまいました。

もてなしのための準備が多くあるのに、何もしないで話を聞いているなんて、そんなこと

が許されるはずはないですよね。そんなことは常識でしょう。だからマリアに、今は自分

の手伝いをするようにと促すのは当然でしょう。なぜそのように言わないのですかと、非

難の矛先を主イエスにまで向けてしまったのです。

 41節。主イエスは諭されました。いろいろなことを心配します。気を使います。考える

ことも心配することも必要だけれど、心が乱されるほどに思い煩うと、本当に大切なこと

を見失うことになるのです。この間違いから解放されていることが大事です。

 42節。あれも、これも、しなくてはならない、必要だと考えると、私たちの心は乱され

ます。しかし一歩退いて、冷静になることが大事です。それは本当に必要か。どうしても

今しなければならないことなのかと、日々の生活の中で冷静に考えることが大事です。

 主イエスは、必要なことは一つだけだと言われました。それをマリアから取り上げられ

ることはありませんと。マリアは神のことばに、主イエスのことばに聞き入るという、そ

の良い方を選びました。マルタのしていたことも必要なことです。主イエスも、もてなし

などしなくても良いから、あなたも話を聞きなさいとは言いませんでした。しかしマルタ

のしていたことは「必要な一つのこと」ではなかったのです。マリアは、必要なただ一つ

のことを選びました。次に必要なことのために取り上げられてはならないのです。

 必要な一つのことは神のことばを聞くことです。神のことばを生きるために必要だから

です。これよりも大切なことはありません。しかし実生活では、いろいろと生じてくる必

要のために、この一つのことが後回しにされ、必要とされなくなっています。

 神のことばを聞くということは、目に見えて効果を発揮するものではありません。即効

性が見えません。だからその大切さ、その必要が見えなくなります。もっと大切に思える

ことがたくさん見えてきます。しかし必要な一つのことは、マリアが選んだ、神のことば

を聞いて、神のことばを生きることです。この重要性を確認しましょう。

 さて、マルタを擁護したいと思います。この箇所だけをみると、マルタ的な人に批判的

になる人も出て来ます。しかしヨハネの福音書11章、兄弟ラザロの死とよみがえりの箇所

を見ると、マルタのすばらしい信仰を確認させられます。11章27節。マルタは「はい、主

よ。あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております」と告白しています。

そして12章で、過越の祭りの前に主イエスが滞在した時に、マリアは高価なナルドの香油

をイエスに注ぎ、マルタは夕食を用意し、給仕をしています。マルタは自分の特性を活か

して、主イエスのために喜んで仕えています。そして主イエスは、そのマルタの行為も、

マリアの行為も、喜びのうちに受け止めておられるのです。

 今日私たちは、主イエスが提示された、必要なことは一つだけ、ということを心に刻み

たいのです。マリアはその良いほうを選びました。私たちも、その良いほうを最優先で選

ぶ者となりましょう。しなければならないこと、必要なことはいろいろとあります。しか

し神のことばを聞くという必要な一つのこと、究極の必要が妨げられてはなりません。ま

た人から、それを取り上げてはなりません。人に取り上げられてもならないのです。

 この前提に立って、人それぞれが必要と思うこと、すべきであると考えることには違い

があることを認め合い、受け入れ合うことも大切です。そして自分にできる主イエスのた

めの働きを喜んで、誠実に、忠実になす者となりたいのです。マルタはマリアから究極の

必要を取り上げようとして、主イエスに諭されました。その後もマルタはマルタなりに、

主イエスを信じる信仰をもって、彼女が喜んでできることを通して、主に仕えています。

マリヤもマリヤなりの主イエスに対する信仰をもって、主に仕えたのです。

 私たちも、しっかりと主イエスを信じ、神のことばに養われ、そうして、自分の持ち味、

賜物を活かして、主に仕える信仰者へと整えられていきましょう。必要なことは一つだけ

と主イエスが言われた、神のことばに聞き入る究極の必要が妨げられてはなりません。


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