みなさまに一つ質問をします。永遠のいのちを生きるのと、滅びるのと、どちらか好き
な方を選べるとするなら、どちらを選ぶでしょうか。だれもが、滅びではなく、永遠のい
のちを生きることを選ぶと思うのですが、いかがでしょう。今日の聖書の箇所、ヨハネの
福音書3章16節には、永遠のいのちへの招きと、その受け取り方が記されています。
創造者である神が私たち人間に示す救いは、私たちを滅びからいのちへ移すという救い
です。3章16節は聖書の中の聖書と言われます。ここには聖書が示す基本的で大切な真理
が明示されているからです。神とはどのようなお方か、人間とはどのような存在か、神が
人間を救うためにどのような道を備えられたのか、救いは誰に与えられるのか、です。
16節。創造者である神はどのような方か記されます。神は何をなされたでしょう。そう
です。神は愛されました。何を愛されたのでしょう。そうです。世をです。神は世を愛さ
れました。神が世を愛されたので、滅びに向かっていた私たち人類のために救いの道を備
えられたのです。そうして私たちを、永遠のいのちに招いてくださっています。
創造者である神が愛されたのは、全人類を含む世、社会全体です。私たちの周りにも、
多少の差はあっても、不正と暴虐があります。そうして世界を見るなら、不正と暴虐に満
ちている現実を見せられます。神はこの、不正と暴虐に満ちている社会全体を愛されまし
た。自己中心が本質という罪人が作り出す社会、邪悪な罪が横行しているこの世界を、そ
してそれを作り出している罪人である私たちを、神は愛されました。罪に汚れている私た
ちを嫌い、この世界を、私たちを滅ぼすのではなく、愛しているので、いのちへと招いた
のです。神は、実に、世を愛されました。そのひとり子を与えるほどの神の愛です。
創造者である神はすべての人を愛しておられます。この神の愛が出発点です。神がすべ
てを創造された、その実だからです。罪の真っ只中を歩んでいる人、到底救いようがない
とみなされている人もいます。極悪非道な人をも含む、すべての人を神は愛しておられま
す。ですから私たちは、どのような人に対しても、神はあなたを愛していると告げること
を躊躇してはなりません。神はどれほどの悪人であっても、彼が滅びることを望んでおら
す、すべての人が悔い改めて、救われることを望んでおられるのです。
しかし神の愛を、罪にまで拡げてはなりません。神は極悪な罪人をも愛して、救いに招
いておられますが、罪はどれほど微細であっても、徹底的に嫌われるお方です。神は罪人
を愛し、その救いを望んでおられますが、罪から離れようとしない者をも、受け入れるこ
とはなさいません。罪から離れない者の終わりは滅びです。
16節。神は世を愛されました。しかし永遠のいのちを持つことができるのは、世ではあ
りません。永遠のいのちを持つことができる者はだれか。その答えは後半です。御子を信
じる者が、一人も滅びないために、いやそれ以上に、御子を信じる者は、誰であっても永
遠のいのちを持つために、神は世を愛されたのです。すなわち、神が世を愛して、そのひ
とり子をお与えにならなかったのなら、全人類は滅ぶのです。全人類は、自分が犯した罪
のゆえに滅びへ向かって進んでいるのです。
その人が、この地上でどれほどの成功を収めても、どれほどの名声を得ていても、どれ
ほどの財産を築いたとしても、どれほどの業績を残したとしても、自分が犯した罪のゆえ
に滅びに向って進んでいます。神が愛しておられる私たち人間は、自分が犯した罪のゆえ
に、滅びるべき存在となっているのです。この事実を確認しましょう。すべての人は罪を
犯したので、滅びなければならない存在です。滅ぼされるべき私たち人間一人ひとりに、
救いの道が開かれました。救いの道は全人類に開かれています。神は全人類を愛しておら
れるからです。しかし全人類が救われるのではありません。
では、救いとは何でしょうか。もし私たちが、救いとは何かと議論し始めたら、様々な
意見があり、それぞれの理解が示され、定義がなされます。ひとりひとりが願う救い、自
分にとって必要だと思う救いが論じられることになります。
そうとするなら、ある人たちは、自分は救われる必要がないと思うでしょうし、自分の
ことは自分で何とかできると考える人もいるでしょう。またなるようにしかならないと考
えてしまう人もいます。しかし聖書は明言します。すべての人は、すべての人です。ここ
にはどんな例外も含まれていません。すべての人は自分の罪のゆえに、滅ぼされるべき存
在だということです。罪は公正に裁かれ、罰せられるのです。すべての人は、滅びからの
救いが必要な存在です。これが創造者である神が主張する救いです。
罪のゆえに滅ぼされるべき私たち罪人を、創造者である神は愛して、罪の赦しを備え、
罪から救うために、そのひとり子、神の御子をお与えになったのです。それは神の御子を
信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。
17節。主なる神の願いは、世に救いをもたらすことです。だから、世をさばいて、滅ぼ
すためにではなく、世を救うために、御子を世に遣わされたとあります。神の御子はこの
世に来られ、十字架で、罪人の身代わりに処罰されたのです。歴史上の事実です。
14~15節。イスラエルの民は、荒野での40年の旅の中で、神に文句を言い、神が備え
てくださっている食料に対して、飽き飽きしたと叫びました。そのような民に対して、毒
蛇が放たれ、民に噛みつき、そうして民衆は、次々に死んでいったのです。
モーセは神の指示に従って、青銅で作った蛇を竿の上に掲げました。それはイスラエル
の救いのためでした。毒蛇にかまれた人々は瀕死の状態に陥った時、彼らは自分たちの過
ちを認め、主なる神に助けを求めたのです。そうして主なる神は、モーセに青銅の蛇を作
らせ、それを竿の上に掲げさせました。その青銅の蛇を救いの約束と信じて仰ぐ者を、蛇
の毒から助け出すという約束を与えたのです。
この神のことばを信じて、青銅の蛇を仰ぎ見た者は、その毒から救い出されました。し
かし蛇を仰ぎ見ただけで助かるはずはないと考えた者たちは、それぞれ死んでいったので
す。その青銅の蛇と同じように、人の子、イエス・キリストも上げられなければならない、
すなわち主イエスは十字架につけられると、主イエスご自身が語られたのです。荒野での
青銅の蛇と同じように、十字架につけられた主イエスを自分のための救いであると信じ、
その救いを受け入れた者は、自分が犯した罪が赦されます。しかし十字架の主イエスを信
じても何にもならないと考え、十字架のみわざを受け入れない者は、罪の赦しを受けるこ
とを拒んだので、赦されていない罪のゆえに、さばかれ、罰せられるのです。
神は罪を犯した私たちをなおも愛し続けてくださいます。しかし私たちが犯した罪は、
それがどれほど微細なものであっても、ことごとく嫌われるお方です。神は罪人である私
たちを救いたいと考えてくださいました。しかし私たちが犯した罪はすべて処罰しなけれ
ばなりません。そこで愛の神は、私たち罪人の代わりに、罪の全くない、罪を全く犯さな
かった神の御子イエス・キリストに、私たちのすべての罪を負わせて、身代わりに処罰し、
私たちに罪の赦しを備える計画を立て、実行してくださったのです。十字架刑です。
神の御子は人となってこの世に生まれました。クリスマスの出来事です。そして神の御
子、主イエスは30数年の地上生涯の後、十字架で処刑され、三日目に死者の中から復活さ
れました。イースターの出来事です。この十字架は、私たちに罪の赦しを備えるために、
私たちが犯したすべての罪の処罰を、身代わりに受けてくださったものです。この十字架
を仰ぎ、私の罪を赦すための身代わりの処罰であると受け入れ、神の御子、主イエスを自
分の救い主と信じる者は、誰であっても救われるのです。神は、実に、そのひとり子をお
与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びること
なく、永遠のいのちを持つためである。とあるとおりです。
18節。御子を信じる者は、その者が犯した罪が赦される、つまり罪を犯さなかった者と
見なされるので、さばかれることはありません。御子を信じる者には、さばかれるべき罪
はないと見なされるからです。そして永遠のいのちが与えられます。しかし御子を信じな
い者は、神のひとり子を信じなかったということにおいて、すでにさばかれているとあり
ます。神の御子の十字架の身代わりの処罰を拒むことは、差し出されている罪の赦しを拒
むことになり、赦しを受けていない罪に対する公正なさばきが行われるのです。
神の御子を信じないことほど大きな罪はありません。すべての罪は、それがどんなに多
く、またどれほど大きくても、すべて神の御子の十字架の身代わりの処罰によって赦され
ます。だから神の御子を信じないなら、罪の赦しと罪からの救いの道を、自分で閉ざすこ
とになるのです。救いは、キリストの十字架のみわざを自分のためであったと感謝し、受
け入れること以外にはないのです。
19~21節。神は世を愛し、すべての人に救いを与えるために、御子イエス・キリストを
十字架につけました。神はすべての人を照らすまことの光を世に遣わし、その光に照らさ
れるなら、人は誰もが自分の罪を認めることができます。そして罪の赦しを望む者を、救
い出してくださるのです。しかし光から隠れる者がいます。彼らは光よりもやみを愛し
て、悪い行ないを続けることを選ぶのです。彼らは光の方に来ようとしません。自分のし
ている悪いことが、光によって照らし出されることを嫌うからです。彼らは光を憎み、光
を恐れます。彼らには、やめたくない悪い行ないがあり、変えられること、正されること
を望まないのです。
しかし真理を行なう者、すなわち神の救いを受け、永遠のいのちに与る者は、光の方に
行きます。彼はまことの光に照らされて間違いを知り、その間違いを認め、赦しを求めて
悔い改め、罪の赦しを得ます。そして永遠のいのち、神のいのちを生きることで、正しい
あり方を教えられ、さらに真理を行なう者へと整えられていくのです。
みなさまは、いのちと滅び、どちらを選びますか。罪を犯した者はすべて、滅びへと向
かっています。しかし御子イエス・キリストを信じる者は、いのちへの招きに応じること
であり、永遠のいのちを持つ者となるのです。私たちに差し出されているのは、神の招き
に応じることだけ、主イエスの十字架の身代わりの処罰を自分のためであったと感謝して
受け取ることだけです。とても簡単なことです。16節。36節。
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