パウロは第3次伝道旅行を終え、エルサレムの教会に、ギリシアの諸教会からの義援金
を届けた後に、自分たちを派遣したシリアのアンティオキア教会に戻る計画を立てていま
した。今日の箇所は、その途上、カイサリアでの出来事です。
8~9節。カイサリヤには、初代教会の最初の執事7人の一人、ピリポが住んでいまし
た。使徒の働き6章にその時の出来事が記録されています。初代教会が霊的に祝福され、
多くのユダヤ人たちが主イエスを信じた結果、問題が生じたのです。初代教会ではやもめ
たちなど、経済的な支援が必要な人々に助けが行われていました。ギリシア語を使うユダ
ヤ人たちから、彼らの中のやもめたちへの配給に対して苦情が出されのです。毎日の配給
においてなおざりにされているという苦情です。ヘブル語が自由に話せない人たちへの配
慮が届いていなかったということです。その解決のために、7名の執事が選ばれました。
7名の執事はギリシア語を話せる人たちの中から選ばれました。教会は御霊と知恵に満ち
た、評判の良い人たちを選んで、食卓の務めを任せることにしたのです。ピリポはその一
人です。この結果、使徒たちが食卓のことに仕えることから解放され、彼らは祈りとみこ
とばの奉仕に専念することができました。問題が起こることは避けられませんが、問題が
起こることによって、教会は適切な対応へと導かれ、健全な教会形成が進むのです。
このピリポについては8章に、サマリヤの町で、人々にキリストを宣べ伝えたこと、そ
の後主の使いに促されて、エルサレムからガザに下る道に行き、エチオピア人の女王カン
ダケの全財産を管理していた宦官のエチオピア人に福音を伝え、主イエスに対する信仰を
確認した上で、バプテスマを授けたことが記録されています。その後、町々で福音を宣べ
伝えて、カイサリアに行ったところまで記されていました。その後カイサリヤに住んで、
娘4人が与えられていたということでしょう。パウロたちは、その家に滞在しました。
10節。ピリポの家にアガボという名の預言者が訪ねてきました。11章でアガボは、ア
ンティオキヤ教会にエルサレムから下ってきて、世界中に大飢饉が起こると預言した預言
者です。飢饉はクラウディウス帝の時に起こりました。この預言者アガボがパウロに関す
る預言をしたのです。
11節。パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、ユダヤ人たちは、この帯の持ち
主をエルサレムで、このように縛り、異邦人の手に渡すと。パウロに関して、預言がなさ
れました。エルサレムに行くなら、捕らえられ、異邦人に引き渡されるというのです。
12節。そうしてルカなど、パウロの同行者や、ピリポたち、そしてその土地の人々は、
エルサレムには行かないようにとパウロに懇願したとあります。これは当然の反応と言え
ます。危険が待っていると予告されているのに、そこに行くという選択はしないのが当然
です。君子危うきに近寄らずということばがあるとおりです。しかしパウロは違う考えを
していました。無謀な行動ではなく、確信に押し出された行動です。自分は神である主の
ご主権の中に置かれており、主の最善がなされるという確信です。
その確信から発したことばが13節です。主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られ
るだけでなく、死ぬことも覚悟していると。主イエスがその主権によって導き、主のみわ
ざに用いられるなら、捕らわれることも、死ぬことも、厭わないという決意です。パウロ
はピリピ人への手紙に書き送りました。「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは
益です」と。神に敵対していた自分、主イエスを、主の教会を迫害していた自分です。罰
せられ、滅ぼされて当然の自分が、神の一方的なあわれみの中で、キリストの恵みを受け
て、主イエスを信じる信仰が与えられました。滅びではなくいのちが与えられ、永遠のい
のちを生きる者とされたのです。そればかりでなく、福音を伝える使命が委ねられ、主と
主の教会に仕える者とされています。そのような自分に変えられた者、キリストのために
生き、キリストのために死ぬ者とされたことを、パウロは誇りとしているのです。
これは私たちにとっても同じです。かつての私たちも、創造者である神と無関係に生き
ていた者たちです。創造者である神を知らず、知ろうとせず、自分の好みに合わせて、自
分さえ良ければ的な思いで、様々な間違いを犯し、罪にまみれていました。そのような私
たちは罰せられ、滅ぼされて当然の歩みをしていたのです。しかし創造者である神は、私
たちをあわれみ、忍耐し、罰することを猶予して、主イエスを求める思い、主イエスを信
じる信仰を与えてくださいました。聖霊が私たちに、自分に罪のあることを認めさせ、主
イエスの十字架の身代わりの死を、自分のためであると信じさせ、受け入れさせてくだ
さったので、私たちは罪の赦しを受け、永遠のいのちを生きる者とされました。私たち
も、生きることはキリスト、死ぬことは益ですと告白する者とされています。
14節。パウロの決意と覚悟を知らされた人々は、パウロのエルサレム行きを止めること
はできないと判断し、主のみこころがなりますようにと言うしかありませんでした。
しかしこのことば、主のみこころがなりますようにとの信仰告白こそ、私たちを真の平
安に生かすことを得させるのです。私たちは主イエスの約束を知っています。十字架を前
にして弟子たちに約束されたことばです。「これらのことをあなたがたに話したのは、あ
なたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、
勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と。自分をキリストの主権にゆだね
ることで、キリストにあって平安が与えられるのです。
礼拝招詞で主の平安に招かれました。今週のみことばに記してあります。ヨハネの福音
書14章27節です。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わ
たしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてなりませ
ん。ひるんではなりません」と。私たちは様々な問題に巻き込まれます。苦難に遭うこと
は避けられません。しかし勇気を出せます。勝利者主イエスにあって勝利するからです。
私たちキリスト信仰者の、与えられている立場について確認しておくことは、とても大
切です。私たちキリスト信仰者は、主イエスを信じて、罪を赦され、救われ、永遠のいの
ちに生きる者となった時に、この世のものではなくなりました。この世から取り出され、
神の国の住民とされたのです。私たちの国籍は天にあり、この地上では、旅人であり、寄
留者となりました。この霊的な事実を受け止めておくことが大事です。この世のものでは
なくなった私たちですが、主イエスによって、この世に遣わされているので、この世を歩
んでいます。この世では異質な存在になっているということです。
だから主イエスを信じようとしない人々が作り出す社会の中で、キリストを自分の主と
あがめる信仰の歩みをする者たちは、摩擦や軋轢にさらされ、様々な苦難を味わうことが
起こり得ます。パウロの地上生涯がまさにそれでした。パウロはコリント人への手紙第二
に、自分がキリストにあって、どれほどの苦難に遭ってきたかを書き記しています。「ユ
ダヤ人から40に一つ足りないむちを受けたことが5度、ローマ人にむちで打たれたことが
3度、・・・同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、・・・労し苦しみ・・・」と様々
な苦難を味わってきたことを記しています。
もしパウロが主イエスを信じることをせず、パリサイ人として歩んでいたなら、彼はユ
ダヤ宗教界の中でエリートコースを上り詰めたと考えられます。しかしそれら、この世で
のいわゆる「成功」を捨てました。しかしその「成功」では得られない、あまりある霊的
な祝福、喜びと感謝に満たされた歩みを選び取ったのです。
パウロはピリピ人への手紙の中で証しています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、
イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリ
サイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難さ
れるところのない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのも
のを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリス
ト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私
はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています」と。
私たちキリスト信仰者も同じです。この世のすべてを失うことになったとしても、主イ
エスを自分の神、自分の主とあがめることができたことのゆえに、少しも惜しいとは思わ
ないのです。私たちは裸でこの世に生まれてきました。そして裸でこの世を去って行きま
す。手にしているものはすべて、創造者である神の恵みによって与えられたものであり、
そのすべてはこの世に残していくものです。この真理を知った私たちは、この世でしか通
用しない物質的な祝福に依存することはありません。物質的な祝福にではなく、物質的な
祝福を与えてくださる創造者であり、主権者である神に拠り頼むのです。
主イエスを信じる信仰によって罪を赦され、救いに与り、永遠のいのちを生きる私たち
は、この世から解放されました。本来なら、主イエスを信じた時に、この世を去って、天
の御国に凱旋しても良いのですが、創造者であり、主権者である神は、私たちにこの世で
の歩みを続けさせ、私たち一人ひとりに、各々の使命を委ねておられます。
私たちはもう一度確認しましょう。私たちキリスト信仰者は、この世のものではなくな
りました。その上で、この世に遣わされた者たちです。そうして私たちに地上生涯を歩ま
せておられる創造者である神は、私たちに与えておられる地上生涯の期間、私たちのいの
ちを守り、支え、日々の必要を満たし、私たちを主のみわざに用いてくださるのです。
私たちもパウロのように告白しましょう。「主イエスの名のためなら、縛られるだけで
なく、死ぬことも覚悟しています」と。主なる神がご主権をもって私たちの歩みを導いて
くださいます。その権威の中で、主のみわざが推し進められています。その主権に自分を
ゆだねるのです。その時、主イエスが与える平安の中を歩むことになります。
また「主のみこころがなりますように」と、心から告白しましょう。神のみこころのと
おりに、事は進められていきます。主の祈りで、「みこころが天で行われるように、地で
も行われますように」と祈りますが、この「地」は、私と置き換えて祈ることが重要です。
私においてもみこころが行われますようにと祈る者に、主の平安は与えられます。主に自
分をゆだねる者に、主の平安は満ちあふれるのです。
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