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2024年1月14日 礼拝「生きておられる主に仕える」列王記Ⅰ 16:29~17:16

 前回私たちは、南ユダ王国三代目の王アサの信仰と不信仰を見ました。このアサ王の時

代に、北イスラエル王国ではヤロブアム王朝が滅ぼされ、オムリ王朝となります。そして

アハブがオムリ王朝二代目の王となるのです。預言者エリヤの活動はこの時代です。

 北イスラエル王国は偶像礼拝を続け、王朝が変わっても、それはさらに深刻化し、アハ

ブによる宗教的な堕落は極みに達します。預言者エリヤが遣わされ、アハブが仕えている

神々は、いかに力のないものであるかを知らせるのです。

 30~32節。アハブは紀元前874年に王位に就き、22年間北イスラエル王国を治めまし

た。アハブは彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行ったとあります。さらにシドン人の

王エテバアルの娘イゼベルと結婚をすることで、首都サマリアにバアルの神殿を建て、バ

アルのための祭壇を築くことまでするのです。

 バアルとはカナン人の神であり、雨と霧と露を支配して、農耕の鍵を握る神、農作物に

豊穣をもたらす神と考えられていました。イスラエルの民がカナンに定住し、カナンの農

耕を取り入れる中で、農作物に豊穣をもたらす神バアルを崇拝したのです。

 33節。アハブは豊穣をもたらす女神・アシェラ像をも造ることで、主なる神の怒りを引

き起こしました。このようなアハブに対して、主なる神は預言者としてエリヤを遣わし、

悔い改めへと招こうとします。今日の箇所は、その最初の部分です。

 17章1節。預言者エリヤの紹介です。ギルアデの住民であるティシュベ人と紹介されて

います。これ以外は分かりません。ギルアデとはヨルダン川の東側です。そのティシュベ

人エリヤがアハブに遣わされて、神のことばを語り始めました。

 まずエリヤは、私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられると宣言します。こ

れは、あなたはイスラエルの神に背いて、バアルに仕えているが、その神は生きているの

かとの対決と言えます。そうして私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降

りず、雨も降らないと告げるのです。主なる神のアハブに対する悔い改めへの招きです。

あなたが仕えている神バアルは、雨と霧と露を支配すると言われているが、実際には何の

力もない。イスラエルの神、主は全能の神であり、数年の間、露をとどめ、雨を降らせな

いようにし、再び雨を降らせる生ける神だと、招くのです。

 さてこれから数年は雨が降りません。干ばつとなります。その影響はエリヤ自身にも及

ぶのです。3~4節。主なる神はエリヤのいのちを保護するために、ご自分の計画を知ら

せました。エリヤは、川の水を飲み、烏が運んでくる食料で養われるのです。

 みなさまなら、この主のことばに、どう反応するでしょうか。烏に養ってもらう、この

ような常識では考えられない方法を鵜呑みにできるでしょうか。烏は知恵がある頭の良い

鳥です。でも自分のえさとなるものを、人にあげるために運ぶことはありません。通常で

は考えられない非常識な方法で、主なる神はエリヤを保護すると仰せられたのです。

 5節。エリヤは主のことばの通りに、ケリテ川に移動しました。私が仕えているイスラ

エルの神、主は生きておられるとは、口先だけの告白ではなく、心から同意しての告白で

あり、主なる神は万物を支配する全能の主なのだと仰ぎ、非常識、非現実的と思えること

をさえなさる神であると信じているので、そのことばに従ったのです。

 生きておられる神は語られた通りを行います。エリヤが主に聞き従い、ケリテ川(エリコ

の南方と思われる)のほとりに身を隠すと、何羽かの烏が、朝、パンと肉を、また夕方に

パンと肉とを運んで来たのです。想像してみてください。毎朝、毎夕、何日、何週間続い

たのでしょうか。私たちが信じている主なる神は、生きておられる、全能のお方です。

 7節。しばらくすると、ケリテ川も涸れてしまいました。エリヤを通して雨を降らせる

と宣言されるまで、干ばつは続きます。それで主なる神は、エリヤに移住を命じます。

 9節。シドンのツァレファテに行って、そこに住むこと、そうするなら、一人のやもめ

を用いて、エリヤを養うとの約束でした。なぜシドンなのか。アハブが妻として迎えたイ

ゼベルはシドン人の王エテバアルの娘であったことと関係があるのかもしれません。主な

る神は、バアル信仰の盛んな国シドンに住む一人のやもめを用いられるのです。

 主なる神はイスラエル人だけの神ではなく、全地の主であり、民族を越えて、主なる神

のことばに聞き従う者を選ばれ、救われるのです。エリヤにも何らかのわだかまりがあっ

たと思われます。なぜシドン人のやもめなのかというわだかまりです。しかしエリヤは主

なる神に聞き従いました。私たちもエリヤに倣う必要があります。自分では好ましいとは

思えないかもしれません。なぜこの人か、なぜこの環境なのかと思うかもしれません。し

かし主が道かれる場所、主が備えられた環境で、主に聞き従うことが大事です。導かれる

場所で、主はみわざが行われるのです。

 10節。エリヤはツァレファテに着きました。その門のところで一人の女性が薪を集めて

います。その服装からでしょう。彼女がやもめであると分かったエリヤは、早速この女性

が主の備えられた人物であるかを確認することにしました。エリヤは女性に、水差しにほ

んの少しの水を持ってきて、私に飲ませてくださいと声をかけたのです。雨が降らない日

が続いています。水はますます貴重になっているでしょう。ほんの少しであっても、人に

分けるものはないと言いたくなる状況です。主なる神が備えられたやもめであるかどうか

を確かめるために、エリヤは干ばつという状況の中で水を求めました。

 11節。自分の求めに応じる女性に、エリヤはさらに食料をも求めました。一口のパンを

持ってきてくださいと。なんと厚かましい旅人です。しかしこの女性は、いらだちや怒り

を発するのではなく、実情を告げました。

 12節。あなたの神、主は生きておられますと、告げます。エリヤの服装からして、イス

ラエル人であると分かったのでしょう。この女性がイスラエルの神を信じているというこ

とではなく、自分は嘘を言いませんという誓いのことばと考えた方が良いと思います。こ

の段階で、この女性が主なる神を信じているとは思えません。

 この女性は言います。焼いたパンはないこと、かめには一握りの粉があり、壺にはほん

の少しの油があるだけ、薪を拾い集めたら家に帰ってそれで調理して、食べて死ぬつもり

なのだと。ここまで追い詰められている女性を主なる神は覚えておられ、エリヤの保護の

ために用いようと選ばれました。そしてエリヤを養うことの結果としてこの女性は、主な

る神に養なわれることになるのです。

 13~14節。エリヤは大胆に主のことばを伝え、主のことばに応えるようにと、この女

性を招きます。なかなか厳しい要求ではないでしょうか。この旅人が仕えているイスラエ

ルの神を自分の神とするかどうかが問われています。もし私を神に遣わされた神の人であ

ると認めるなら、まず私のために小さなパン菓子を作り、それを私のところに持って来な

さいと命じたのです。その後で自分と子どものために作りなさいと。

 これほど残酷な命令はないと言えます。一握りの粉です。それで三人分を作るとして、

ひとり分はどれほどになるのでしょうか。一握りの粉で二人分を作り、それを食べて死の

うとしているやもめに対して、まずエリヤのために小さなパン菓子を作ったなら、その後

に粉は残らないでしょう。油もなくなってしまいます。残酷な横取りと言えます。

 しかしエリヤは命じました。創造者である神の明確な約束があるので言えます。イスラ

エルの神、主が、再び雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きないし、その壺の油はな

くならないと約束しておられるのです。これは挑戦です。信仰の挑戦です。神のことばを

信じるか、それとも信じないかと迫ったのです。エリヤのために小さなパン菓子を作った

なら、自分たちのために作る粉も油もなくなります。しかしそうする時、主なる神はかめ

の粉も、つぼの油も絶やさないとの約束が差し出されています。

 15~16節。この女性は、エリヤを通して語られたイスラエルの神、主のことばを信じ

ることにしました。エリヤのための小さなパン菓子を作り、それを持って来ました。神の

ことばにかけたのです。この男に騙されても良いと覚悟したのかもしれません。騙された

としても、死ぬのがちょっと早まるだけです。問題は何も解決しないのです。しかしこの

人のことばが真実なら、自分も、子どもも助かります。この女性は、エリヤの語るイスラ

エルの神、主に頼ることにしました。これが信仰です。信仰は行動を伴わせるのです。こ

の女性は、息子とともに主の養いを受けたばかりではなく、彼女の親族も主の養いに与る

ことになりました。主なる神に自分のものを差し出す時、損をしたように思うかもしれま

せん。しかしそれは、主の養いを受けることとして返ってくるのであり、その祝福は自分

だけではなく、周りにも及ぶという、主なる神の祝福の方法を味わい知りたいのです。

 この女性に明確な信仰があったわけではないでしょう。とても信じられないと思ったか

もしれません。しかし、死ぬのは時間の問題です。だから、最後に夢を見るのも良いかも

と考えたのかもしれません。その行為が信仰から出たものなのか、あきらめから出たもの

なのか、私たちには分かりません。分かることは、この女性は主のことばに従ったという

事実です。そして、主のことばの通りを行った結果、主の約束を現実のものとして体験し

たのです。彼女はイスラエルの神、主を自分の神とすることができました。

 私たちも同じです。自分には信仰があるとか、自分は信仰が浅いとか、そのような自己

評価にあまり意味はありません。主なる神のことばだからと、それに賭けてみて、一歩踏

み出すことが重要なのです。主の語られたことは必ず実現します。私たちは、神のことば

だからと、神のことばを行う一歩を踏み出すだけです。そうする時、主なる神の約束が実

現するのを体験します。主イエスを信じた私たちは、それができるはずです。

 主なる神は生きておられます。生きて働かれる全能の神です。何もできない、人に運ん

でもらわなければどこにも動けない、木とか、金や銀などで造られた像の神々ではありま

せん。主なる神は、人間が造った神ではなく、人間を造られた神、天地万物の創造者、生

けるまことの神です。このお方を自分の神と仰いで、そのことばに聞き、そのことばを行

う一歩を踏み出す信仰者となることが大事です。神のことばを信じられないと思って良い

のです。大切なことは、信じられなくても、主なる神が語られたのだからと、そのことば

を生きる一歩を踏み出すことであり、それがキリスト信仰者の歩みです。

 天の父は、私たちに必要なものをご存じであり、私たちに心配するのはやめなさいと命

じておられます。私たちに必要なものを満たしてくださるお方であると改めて確認し、主

なる神への信頼を確かにしましょう。私たちにいのちを与え、この地上生涯を歩ませてく

ださるお方は、地上生涯が続くかぎり、必要なものを備えて、養い続けてくださいます。


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