今日の箇所は、有名なたとえ話の一つ「良きサマリヤ人のたとえ」です。主イエスがこ
のたとえを語られたのは、ある律法の専門家との対話がきっかけでした。この律法の専門
家は「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか」と主イエスに質問
したのです。25節。
主イエスはこの律法の専門家に、律法には何と書かれてあるか。そして、あなたはどう
読んでいるか、と問いかけました。この律法の専門家は、永遠のいのちに関わる神のこと
ばを知っており、正しく答えました。
27節。心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を
愛する。つまり、私たちの全存在をかけて、全人格をもって、全身全霊で、創造者である
神を自分の神として愛することです。そして、あなたの隣人を自分自身のように愛するこ
とです。私たちは神を正しく愛する愛、自分を正しく愛する愛、人を正しく愛する愛、こ
の3つの愛を正しく愛するようにと命じられているのです。
この律法の専門家は、聖書を正しく読んでいました。そしてそれを言うことができまし
た。しかし自分の実生活に正しく適用してはいなかったのです。28節。主イエスは彼が正
しい答えをしたと認めました。そうして、それを実行しなさいと命じます。そうすればい
のちを得ますと。私たちも同じです。神のことばを正しく知っていることが大事です。そ
してそれを正しく行うことで、神のいのちを生きることになるのです。
しかし29節。彼は自分の正しいことを示そうとしました。自分は正しく行っていると思
い込もうとしたのです。そうしてイエスに質問します。私の隣人とはだれですか。彼自身
は隣人を愛していると考えていました。そして彼は、イエスは自分と同じ考えであると確
認したかったのでしょう。お墨付きを求めたと言えます。
しかしこの質問こそ、この考え方こそ、神のことばを自分の都合に合わせていることを
示すのです。彼は、自分にとっての隣人を決めて、その人々を愛していました。これが自
分中心に考える考え方と、神を中心に考える考え方との違いです。主なる神は何を求めて
いるのでしょうか。主イエスはそれを教えるために、このたとえを語られたのです。
30節。主イエスは、強盗に襲われた人と関わる三人を登場させます。ユダヤ人が瀕死の
重傷を負っています。半殺しの状態です。このまま放置するなら死ぬという状況です。そ
して3人とは、祭司、レビ人、ユダヤ人とは犬猿の仲にあるサマリヤ人です。このユダヤ
人は、エルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われたのです。
31節。最初に登場したのは祭司です。彼は強盗に襲われたユダヤ人を見て、反対側を通
り過ぎて行きました。なぜこの祭司は、瀕死の重傷を負わされた人との関わりを避けたの
でしょうか。彼が何のためにエリコに行こうとしているのか、主イエスはその理由を挙げ
ていません。またこの祭司が、冷血な人物で、困っている人を見殺しにする人として描い
ているのでもありません。私たちが祭司の働きを知っているなら、この場面での、この祭
司が神のことばに基づいての行動をとるのは当然と理解できます。
旧約聖書のレビ記には、祭司についての定めがあります。祭司は主なる神への礼拝のた
めに特別に選ばれているので、親族であっても、両親や子ども、兄弟以外は、その死体に
触れてはならないと、宗教的な汚れを、厳重に禁じられています。大祭司は、自分の父や
母であっても、身を汚してはならないと命じられています。主なる神に仕えるために、自
分の身を汚さないように、日常の行動に細心の注意を払っていたということです。
今、強盗に襲われた旅人が、半殺しの状態、瀕死の状態で横たわっています。その身体
に触れるなら、まだ生きているか、すでに死んでいるかを判別できますが、そのような危
険を冒すことは避けるのは当然です。もしその旅人が死んでいたなら、あるいは助けよう
と介抱している途中で死んだのなら、彼は身を汚すことになり、律法を犯すことになると
考えたのでしょう。そのような不用意な行動を避けるのは当然と言えます。
これはレビ人も同じです。祭司よりも制限は少ないのですが、一般市民によって身を汚
すことは、主なる神に仕える者としてふさわしいことではありません。主イエスは、祭司
やレビ人を非難しているのではありません。しかしすでに死んだ者をではなく、助かる可
能性のある者を見捨てるほどに冷徹な律法主義に貶めていることは、非難していると言え
ます。祭司やレビ人は、律法を守ろうとして、瀕死の旅人を見殺しにしました。この旅人
の隣人になるという選択肢は、端から持っていなかったのです。彼らは律法を守ったと主
張します。しかし、あなたの隣人を自分自身のように愛するという、律法全体を貫いてい
る大切な律法の根幹を否定したのです。律法主義の恐ろしい実態です。
33節。主イエスはあえて、ユダヤ人とは犬猿の仲にあるサマリヤ人を登場させて、瀕死
のユダヤ人の隣人とならせました。彼は、まず瀕死のユダヤ人を見て、かわいそうに思っ
たのです。そして近づきました。34節。まだ息があることを知って、傷にオリーブ油とぶ
どう酒で応急手当をし、宿屋へ連れて行って介抱します。そして二日分の賃金にあたるデ
ナリ二つを宿屋の主人に渡し、介抱してくれと頼みました。もっと多くの費用がかかった
なら、その分も後で払うと約束して、その人を委ねたのです。
36節。このたとえ話をした上で、律法の専門家に尋ねます。誰が、強盗に襲われた人の
隣人になったと思いますかと。律法の専門家は答えました。37節。彼は渋々、サマリヤ人
とは言わず、その人にあわれみ深い行いをした人ですと答えたのです。主イエスは、あな
たも行って同じようにしなさいと命じました。
私たちも、考え方の基本を変える必要があります。自分の隣人は誰かと自分で決めてい
るなら、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさいという神のことばを、自分の考える
隣人に限定することになります。そうして、自分自身のように愛さなくて良いという理由
を考え出すでしょう。これは神のことばの否定であり、自己正当化の罪です。
主イエスは私たちに、その人の隣人になることへの招きをします。どうすることが、そ
の人の隣人となることなのかを考え、そうしてその人の必要を考え、その必要を満たそう
と一歩踏み出すことが神のことばを行うこと、あなたの隣人を自分自身のように愛しなさ
いという神のことばに、自分を差し出すことです。
主イエスはこの例え話で、あえてサマリア人を登場させました。律法の専門家に、そし
て私たちに、自分の力では、その人の隣人となり、自分自身を愛するように、その隣人を
愛せない現実を気づかせようとしました。そして、だからこそ、主なる神を正しく愛する
こと、自分を正しく愛すること、そうして、主なる神に助けを求める信仰で、その人の隣
人となる、その人を正しく愛することが必要だと教えられたのです。
主なる神から離れ、罪人となった私たちは、公正な神を満足させる行いなど、何もでき
ません。だからこそ、主イエスは人としてこの世に来られ、十字架で、私たちのために、
身代わりに罪の処罰を受けてくださったのです。主イエスの身代わりの死を、自分のため
と信じる信仰によって、私たちは神の自分への愛を味わい知ることができます。神の愛を
味わい知り、神を愛する者となることで、永遠のいのちを自分のものとするのです。
私たちは、自分の肉の頑張りで行う行いで神と勝負してはなりません。自分の弱さ、自
分の汚なさ、自分の醜さを正直に認め、このような者をも愛して、救いに招き、永遠のい
のちを与えてくださった主なる神を心から喜び、主なる神の愛に応えて、主なる神を愛す
るがゆえに、神のことばに自分を合わせる信仰の一歩を踏み出すことが大事です。
36節。自分の隣人は誰かと決めるのではなく、自分がその人の隣人となるとはどうする
ことかを考え、その人を正しく愛する一歩を踏み出すのです。そのために神の自分への愛
を確認し、その愛を体験的に味わい知り、神の愛に応えて、神を愛することが必須です。
27節。今週のみことば。旧約聖書のことばです。箴言25章21~22節。
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