明けましておめでとうございます。主の年2024年が始まりました。2023年の間に、主
イエスの再臨はなかったということです。2024年の新しい年も、主イエスが王の王とし
て、全世界を公正にさばく審き主として再び来られる、主の再臨を待ち望みつつ、一歩一
歩主に信頼して、信仰生活を続けてまいりましょう。
今日私たちは、預言者エレミヤのことばから、主なる神に信頼する者に約束されている
祝福を確認します。そうして私たちも、主を信頼する者に与えられる祝福を味わう者とな
りたいのです。
エレミヤは、南ユダ王国が新バビロニア帝国によって完全に滅ぼし尽くされる時に活動
した預言者です。まことの神に背き続け、偶像礼拝に突き進み、霊的にも、道徳的にも退
廃し、もはや神の民としての存在意義をなくしていく、そのような状況の中で、エレミヤ
は神の審きと悔い改めによる回復のことばを語り続けました。
結局は、王も宗教指導者たちも、民衆の多くも、エレミヤのことばに耳を傾けることを
しませんでした。そして新バビロニア帝国によって、ネブカドネツァル王の手でエルサレ
ムは破壊され、神殿も破壊され、住民はバビロンへと連れ去られました。神のことばが語
られても聞き入れず、悔い改めることもしないで、滅びに向かっていくイスラエルの民と
祖国を憂えるエレミヤは、涙の預言者と呼ばれました。
真の預言者は罪を指摘し、悔い改めを促します。民が罪を認め、悔い改める時にもたら
される回復と恵みとを語り続けるのです。それに対し、偽預言者は罪を指摘せず、悔い改
めを促さず、神の恵みと祝福のみを語ります。神は愛だから、あわれみ深く、恵みに富ん
でおられるから、神の民として選んでくださったのだから、エルサレムは神の都であり、
神の神殿が建てられているのだから、どんなことがあっても神は守り、導き、祝福してく
ださると、信仰生活が腐敗していても、霊的に退廃していても、それには触れず、悔い改
めることを促すことはしません。現実には平安がないのに、平安だ、平安だと叫びます。
主なる神との真の平和を持つことを促さずに、淡い期待と、自分たちに都合の良い希望を
込めて、平安だ、平安だと叫び続けたのです。
エレミヤはそのような多くの偽預言者に囲まれながら、神の愛、憐れみ、恵みを説くこ
とは同じであっても、罪を指摘し、悔い改めを求める神の義をも語りました。そして罪を
認めることをせず、悔い改めないのなら、さばきが下されること、滅ぼさざるを得ない状
態にまで悪化していて、神のさばきは目前に迫っていることを語り続け、悔い改めるよう
に、主なる神に立ち返るようにと促し続けたのです。悔い改めるなら、主の恵みは豊かに
注がれ、赦されることを、最後の最後まで回復の約束を語り続けました。しかし神の民イ
スラエルは悔い改めることを拒絶し、主なる神とともに生きることを拒否したのです。
7~8節。主に信頼する者への祝福が記されています。対照的なのが5~6節です。心
が主なる神から離れている者に対するのろいの警告です。
私たちの生き方は二通りのどちらかです。主なる神に信頼するのか、主なる神以外のも
のに依存するのかです。イスラエルは神の民として選ばれたにも関わらず、主なる神に信
頼して生きることを拒みました。その罪の甚だしさが1~2節です。罪を認めることも、
悔い改めることもしない現実が、鉄の筆と金剛石、ダイヤモンドの先端で心に刻まれてい
ると、罪の甚大さが強調されています。その悪影響は子どもたちに及び、幼い時から、豊
穣をもたらす女神、アシェラ像で代表される偶像礼拝に親しんでいる様子が記され、主な
る神への背きを、当然のこととして受け継いでいます。
3~4節。主なる神のさばきが定められました。新バビロニア帝国による滅亡とバビロ
ン補囚は目前に迫っています。物質的な富は主なる神が恵みによって与えてくださったも
のであり、主が保ち続けてくださる限りにおいて与えられていることを覚え、高慢になら
ないように自戒しておく必要があります。
5~6節。人間に信頼する者はのろわれよと警告されます。肉なる者を自分の腕としと
は、自分の肉的な力や人間的な力を誇る者で、それは、心が主から離れている結果です。
そのような者へののろいが宣告されるのです。主なる神に信頼することを愚かとし、主と
ともに歩むことを侮る者は、荒れ地の灌木と言われます。幸せが訪れても出会うことはな
いことの具体例として記されています。焼けついた荒野、住む者のない塩地に住むと説明
しているように、不毛な土地にひとり離れて住むのです。主なる神の祝福と恵みに与る生
活とは無縁です。幸せが訪れているのに、それが実感できない、自分から幸せを拒む、遠
ざけてしまうということでしょう。
それに対して7~8節。対照的に祝福が約束されています。主に信頼する者に祝福があ
るようにと。のろわれよとの宣告を受けるか、祝福があるようにと宣言されるかでは、雲
泥の差です。ただしこれは厳粛な事実です。
主に信頼する者、主を頼みとする者は、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に植わっ
ている荒れ地の灌木のようではなく、水のほとりに植えられた木のようになります。流れ
のほとりに根を伸ばしているので、暑さが来ても暑さを知りません。日照りの年にも心配
なく、葉を茂らせ、実を結ぶのです。主に信頼する人は、何の問題もない、平穏な人生が
約束されているということではなく、暑さや日照りのような、様々な試練や困難、問題に
ぶつかることはあっても、そのような困難や問題が、その人生を台無しにはしないと約束
されているのです。常にいのちの供給を受けているので、様々な困難を乗り越え、それを
も実を結ばせる糧に変えていきます。だから、いつまでも実を結ばせるのです。
これが、主に信頼し、主を頼みとする者への祝福の約束です。礼拝招詞は詩篇1篇でし
たが、主に信頼する者は、主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ人です。
主に信頼するとは、主のことばを聞き、その教えを生きる者です。
日照りの年が来ても、根を深く伸ばしているので、厳しい暑さも害を及ぼしません。根
を伸ばしているかどうかは目に見えません。見えないところでなされていることが大きな
祝福と恵みに直結する秘訣です。私たちの信仰生活にたとえるなら、日々神のことばに親
しみ、心を注ぎだして祈ることを繰り返しての、主なる神との霊的な、人格的な交わりに
よる、いのちの供給を受け続けることが秘訣となるということです。
2024年、私たちにとってどのような年になるのかは分かりません。ある人には激動の
年になるかもしれません。ある人にとっては甚だしい困難に見舞われる年になるかもしれ
ません。しかしそれが、どれほどの日照りのようであったとしても、根を深く伸ばしてい
る者たちは、葉を茂らせ、花を咲かせ、実を結ばせるのです。
主に信頼する者に祝福があるようにとの、神のことばは、淡い期待をもたらす語りかけ
ではなく、全能の神、天地万物を創造し、そのすべてを治めておられる主なる神からの、
明確な祝福の招きであり、約束です。私たちは新たな気持ちで、主なる神を信頼し、主を
頼みとする者として、神のことばを生きる歩みを踏み出し続けましょう。
詩篇92篇13~15節。「彼らは主の家に植えられ、私たちの神の大庭で花を咲かせま
す。彼らは年老いても、なお実を実らせ、青々と生い茂ります。こうして告げます。『主
は正しい方。わが岩。主には偽りがありません』」心からアーメンと言いましょう。
主に信頼する者への祝福の約束は、地上生涯が終わる時まで変わらずに続く祝福です。
彼らは年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂りますと、約束されています。人間に
信頼する者ではなく、肉なる者を自分の腕として頼みとするのでもなく、主に信頼する者
として、主を頼み、主の祝福を味わいながら、日々を歩む2024年としましょう。
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