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2023年12月31日 礼拝「共におられる神を仰いで」列王記Ⅱ 6:8~18

 2023年も主の導きと支えの中、守られたことを心から感謝し、主なる神をほめたたえ

ましょう。今年は2023年最後の日が主の日となり、感謝の礼拝を主なる神にささげてい

ます。クリスマスを過ごした私たちは、創造者である神はインマヌエル、「神が私たちと

ともにいます」と宣言される神であることを確認しました。主イエスも約束しておられま

す。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と。

 今日私たちは、インマヌエルの神を確認します。創造者である神、唯一のまことの生け

る神は、全知全能で遍在の神、愛の神、救いの神です。そうして私たちとともにおられる

神であることを、列王記第2、6章の出来事から確認します。

 列王記はイスラエル歴代の王と、その治世の出来事に関する記録の書です。紀元前900

年代から、紀元前500年代、イスラエルの三代目の王ソロモンの時代から、南北王国への

分裂、そして北イスラエル王国の滅亡、さらに南王国ユダの滅亡までの記録です。

 今日の箇所は、預言者エリシャが活動していた時代で、紀元前800年前後です。アラム

と北イスラエルとは戦争状態にありました。アラムの王は、イスラエルに略奪隊を送るに

あたって、勝利を見込める場所を選んで部隊を派遣します。しかし神の人と呼ばれる預言

者エリシャは、イスラエルの王に対して、アラムの作戦行動を知らせ、防御するようにと

助言していたのです。

 それで11節。アラムの王は激しく動揺し、イスラエルの王と通じているスパイがいるに

違いないと疑うのです。しかし12節。家来の一人がアラムの王に告げたのは、イスラエル

には神の預言者エリシャがいて、王が寝室の中で語ったことさえも、イスラエルの王に伝

えているのだということです。

 それで13節。アラムの王は、エリシャ捕縛を命じました。彼はエリシャに超自然的な透

視能力があって、それで自分を透視して、自分が立てた戦略をイスラエルの王に告げてい

るのだと思い、エリシャを片付ければ良いと考えました。ごく普通の考え方です。しかし

実際には、主なる神、全知全能の神がエリシャを用いておられるのであって、エリシャを

捕らえても、何の解決にもならないという真実に気づいていません。現実の見える状況だ

けに左右される者、霊的な真理に目が開けていない者の姿です。

 14節。アラムの王はドタンという町にエリシャがいると報告されると、すぐに馬と戦車

と大軍を出陣させ、町を包囲します。

 15節。エリシャの召使いは、朝早く起きて、外に出ました。そして町全体が敵軍に包囲

されているのを見て、恐怖に満たされます。これは当然の反応です。召使いはエリシャ

に、どうしたらよいのでしょう、と訴えました。

 16節。しかしエリシャは動じません。召使いに確信をもって言うのです。「恐れるな」

と。主イエスも、いろいろな場面で、恐怖に震える弟子たちに向かって、「恐れるな」と、

何度も語られました。私たちも恐れます。戸惑います。うろたえます。自分ではどうする

こともできないと思える状況で、絶望的な困難に置かれる時、恐れます。自分の置かれた

状況だけを見るなら、そうなるのは当然です。八方ふさがりのような状況の中では、もう

ダメだとしか思えなくなってしまうのです。

 しかし私たちは、私たちとともにおられるお方に目を向けることができます。私たちと

ともにおられるお方はどなたであるかを確認するなら、私たちも恐れや絶望から解放され

ます。私たちとともにおられるお方は、万物の創造者、無から有を出現させた全能の神で

す。私たちのように、時間と空間に制約されない、多次元の世界でも制約されない、永遠

の神、生けるまことの神です。そのお方がともにおられます。この事実に目を留めている

なら、私たちが置かれている状況がどれほど困難に思えても、八方塞がりであっても、そ

こに介入される創造者である神の助けを期待できるのです。そうして助けられます。だか

ら心配は要りません。全能の神がなさるみわざを待てばよいということです。

 エリシャは、唯一まことの生ける神、全知全能の神、愛の神、救いの神、そしてともに

おられる神に仕えています。頭で、知識として知っているということではなく、日常生活

の場で、体験的に知っているその知識に生きているのです。その信仰からの当然のことば

です。「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」です。しか

し召使いが見えるのは、敵に囲まれている状況だけです。敵しか見えません。霊の目で見

ること、信仰の目で見ること、神ご自身を見る目が開かれていない状態なのです。

 だからエリシャは祈ります。17節。召使いの目が開かれるように。神ご自身を見ること

ができるように。信仰の目が開かれるようにと、祈ったのです。その祈りに主なる神は応

えてくださいました。主がその若者の目を開かれたので、とあります。主が霊の目を開い

てくださいます。私たちも、自分の霊の目を開いてくださるよう祈りましょう。

 召使いは見ました。火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちている光景です。神

がともにおられることの幸いを、私たちは味わい直し続ける必要があります。繰り返し、

繰り返し、私たちとともにおられるお方を、その方は全能の神であり、多次元の世界でも

制約されない、生きておられる神です。私たちの世界に、いつでも、どのような状況にで

も、介入することのできる、創造者であり、支配者であることを味わい直すべきです。

 高次元については、私たちの理解を超えていると言えます。私たちが体験的に知ってい

るのは三次元の世界です。時間を加えると四次元となりますが、私たちは時間と空間に制

約されているので、瞬間移動することはできませんし、自由に過去や未来に行くこともで

きません。今この時に、この場所にいるだけです。

 縦、横、高さの三次元に生きている私たちでも、縦、横の平面、二次元の世界には介入

できるのです。たとえば大きめの箱庭を作り、そこに土を入れて蟻を入れます。擬似的な

二次元の世界です。蟻は箱庭の中に巣を作り、出入りをするでしょう。巣の入口から遠く

離して、土の上に砂糖を置くなら、蟻は砂糖めがけて集まってきます。平面の移動を想定

しています。砂糖の粒を抱えて自分の巣に戻って来た蟻を捕まえて、再び砂糖の場所に戻

すのです。それを何度でも繰り返すことができ、また蟻をいろいろな場所に移すことがで

きます。蟻はどうしてそうなるのか分からないけれど、瞬間移動させられるのです。三次

元に生きる私たちは、部分的ではあっても、二次元の世界に介入できるということです。

 無から宇宙万物を創造された神、多次元にも制約されない、無限、永遠の神は、私たち

の世界に、いつでも、どのようにでも介入できます。このことを私たちが体験的に知って

いるなら、自分が置かれた状況がどのようであっても、ともにおられるお方、愛の神、救

いの神が、私たちのための最善を備えて導いてくださると確認できるのです。この信仰の

目を持って自分の置かれた状況を見る時、どれほどの困難に置かれたとしても、恐れから

解放され、主なる神のみわざを待ち望むことができます。私たちの神は愛の神であり、救

いの神、私たちの最善をご存じであり、その最善に導いてくださるお方なのです。

 若い召使いは、信仰の目を開いていただいた時、火の馬と戦車が取り巻いて山に満ちて

いるのを見ました。神がともにおられることの幸いを味わい知ったのです。私たちも確認

しましょう。私たちはクリスマスを過ごしました。インマヌエル、神は私たちとともにお

られる、この事実を私たちに分からせるために、神の御子は人として、この地上に来てく

ださいました。そして私たちに罪の赦しを備え、神の子どもとなる特権を与えるために、

十字架でいのちを捨ててくださいました。神としてのあり方を捨て、いのちを捨てるほど

の限りない愛で私たちを愛されたのです。このお方が私たちとともにおられ、いつでも、

どのような状況においても、最善に導こうとして、介入してくださるのです。

 18節。アラムの軍隊がエリシャに襲いかかろうとした時、彼らはエリシャの祈りによっ

て盲目にされます。一時的な目くらまし状態にされたということです。20節。彼らは北イ

スラエル王国の首都サマリヤに連れて行かれます。21~23節。イスラエルの王は虐殺を提

言したけれど、エリシャは盛大なもてなしをして、安全に返すように命じました。その結

果アラムの略奪隊は二度とイスラエルの地に侵入してこなかったとあります。憎しみと報

復の連鎖を断ち切る愛のわざがなされたのです。憎しみと報復の連鎖を断ち切らなけれ

ば、憎しみはさらに増し、報復はさらに悲惨さを増大させるのです。

 私たちは改めて、ともにおられる神に目を向けましょう。私たちには、火の馬も戦車も

見えません。私たちを最善に導いてくださる主のみわざが何であるのか、具体的には何も

分からないかもしれません。でも私たちは今、主イエスを信じる信仰によって、創造者で

ある生けるまことの神を信じています。神の御子が人として来られ、十字架で死なれ、三

日目に復活されたのは私たちのため、この私のためであったと信じています。私たちは信

仰告白をします。神は唯一であり、霊なるお方である。その存在、知恵、力、聖、義、愛、

真実において無限、永遠、不変であるとし、その通りですと同意しています。

 このお方が私たちとともにおられます。目に見える状況がどうであれ、私たちは、神の

永遠のご計画の中で、今という時と場所で地上生涯が与えられています。神の全能の御手

に支えられ、神の最善の導きに自分を委ねる幸いを味わいながら、肉の目で見える状況に

右往左往させられるのではなく、信仰の目をもって、地上生涯を、ともにおられる主とと

もに歩む一歩、一歩を、しっかりと進んで行きましょう。私たちキリスト信仰者には、主

にある希望と平安が与えられているのですから。

 2023年の一年、主は私たちとともに歩まれ、私たちの歩みを導き、主の最善を備え

て、進ませてくださいました。感謝を新たにして、2024年も、ともにおられる主権者、創

造者である神とともに歩みましょう。


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