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2023年12月24日 礼拝「大きな喜びの知らせ」ルカ 2:10~11 クリスマス

 日本での年末の風物詩の一つに、ベートーヴェンの第9交響曲の演奏会があります。第

9交響曲が年末に演奏されることとクリスマスとは、ほとんど関係はないのですが、ただ

あの喜びの歌を聞いていると、喜びに満ちてくるような、そのような不思議な魅力があり

ます。そのような意味で、ベートーヴェンの第9交響曲の演奏は、とても良い風物詩と言

えます。それ以上に、クリスマスは私たちに、さらに大きな喜びを与えてくれるのです。

 ではクリスマスが与える喜びとベートーベンの喜びの歌との根本的な違いは何でしょう

か。喜びの歌は、それに呼応する人に感動を与え、その喜びに引き入れてくれます。しか

しその演奏の終了とともに、その余韻もいつしか薄れ、現実の世界に引き戻されます。し

かしクリスマスの喜びは、味わい知った者に、いつまでも留まり、喜びと感謝の日々を歩

ませるのです。クリスマスは救いの喜び、大きな喜びが知らされた日です。

 私たちの国は今、そこらじゅうにクリスマスが溢れるようになりました。多くの人々は

クリスマスを特別な日として過ごし、楽しみとしている人も多くいます。しかしクリスマ

スが、大きな喜びが告げ知らされた日であること、そうしてその喜びの知らせを受け取っ

た私たちを真の喜びに満たすことを知っている人は、本当に少ないと言えます。クリスマ

スは喜びを味わう日であり、大きな喜びが知らされた日です。私たち自身が、その喜びを

自分のものとして味わい、喜びに満たされた日々を歩む者とされたいのです。

 さて、クリスマスは喜びの日ですが、それはなぜでしょうか。2章10節に、主の使いが

羊飼いたちに語りかけたことばがあります。この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ

知らせるとあります。これが、クリスマスは喜びの日と言われる理由です。11節に、大き

な喜びの知らせが具体的に記されています。あなたがたのための救い主がお生まれになっ

たこと、この方こそ主キリスト、あなたがたが待ち望んでいた救い主だということです。

 クリスマスは、神であるお方が人となってこの世に来られたことを記念する日です。主

イエス・キリストが、神としてのあり方を捨てて、私たちと同じ人間の姿をとって、私た

ちの社会に来られました。この主イエスの人としての誕生が、この民全体に与えられる大

きな喜びであると知らせたのです。どうしてそう言えるのでしょうか。

 主イエスの人としての誕生によって、私たちにもたらされたものとは何か。今日はこの

ことを確認し、なぜクリスマスが自分の、そして人類すべての大きな喜びであるかを考え

ます。そうしてみなさまにとっても、真に喜びとなることを願います。

 まず、なぜ、神の御子キリストは人となり、私たちの世界に来なければならなかったの

でしょうか。救い主、キリストがこの地上に来られることは、旧約聖書の中で、繰り返し

予告されていました。その代表的な予告、預言を列挙するなら、キリストはダビデの子孫

として生まれること、一人の処女から生まれること、その生まれる場所はベツレヘムであ

ること、キリストは王として、主権者として、公正なさばきを行うために来られること、

と同時に、苦しみを受ける苦難のしもべとして来られ、神は私たちのすべての咎を、この

救い主に負わせて、代わりに処罰することなどなど、救い主、キリストについての数多く

の預言があります。そしてそれらの預言の通りに、イエスはベツレヘムで、処女マリアか

ら生まれ、十字架につけられ、死んで3日目に死者の中からよみがえられたのです。

 キリストに関する預言は、イエスによって、その誕生から、地上生涯、そして十字架で

の処刑と三日目の復活まで、すべてが実現しています。しかしまだ実現していない預言が

あります。それは王として、さばき主として来られるという預言です。この預言は、旧約

聖書にあるだけではなく、主イエス・キリストご自身も語っておられ、新約聖書にも記さ

れています。主イエス・キリストは定められた時に、もう一度来られるのです。クリスマ

スを迎え入れた私たちは、主の再臨を待ち望む者へと変えられています。

 さて救い主、キリストが来られることの最初の記述は、創世記3章にあります。創世記

は1~2章で、創造者である神の天地万物の創造を記録しています。宇宙の創造から地球

の創造、そして生命の創造、最後に創造のクライマックスとしての人間の創造です。

 人間だけが他の動物と異なる存在として、神のかたちとして、人格を持ち、自由意思を

持つ霊的な存在として、特別に創造されました。創造者である神に愛され、その愛に応え

て神を愛する者として、神の基準を喜び、感謝して従う存在として創造されたのです。

 そのような人間だから、創造者である神は、大いなる祝福、エデンの園にあるどの木か

らでも思いのまま食べてよいと大盤振る舞いの許可を与え、そして一つの禁止命令、しか

し善悪の知識の木から食べてはならないと定めたのです。善悪の知識の木から食べる時、

必ず死ぬと、警告を与えました。人は創造者である神に聞いて生きる時に、最も自分らし

く、最も主体的に、最も正しく生きることができる存在として造られたのです。

 しかし人は、神に背いて罪を犯し、善悪の知識の木から食べたことで、死ぬ者となりま

した。あわれみ豊かな神は、肉体のいのちの死を猶予され、赦しを備えて悔い改めへと招

いたのです。しかし霊的に死んだ人間は、神の絶対的な基準を生きることができず、善悪

の判断はできるのに、善を行わず、悪を行う者、神のいのちに死んだ者となったのです。

そのさばきの宣告の中で、神は人に悔い改める機会を備え、救いへと招きました。その中

に、キリスト誕生の予告をなさったのです。やがて女の子孫を遣わすこと、蛇、サタンは

女の子孫を攻撃するが、それは踵を打つほどの傷であり、女の子孫は蛇、サタンに致命傷

を与えることになると予告されたのです。

 罪とは本来のあるべき状態から逸脱した状態のことであり、その根源的な罪のゆえに、

私たちは様々な間違い、具体的な罪を犯す者となったのです。悔い改めは、生き方の方向

転換です。創造者である神を自分の神とせず、自己中心、人間中心に生きる罪から離れ、

創造者である神を自分の神とあがめ、神の基準に生きる、神を中心にする造られた本来の

あるべき状態に戻ることです。この方向転換が悔い改めであり、救われることです。

 女の子孫は、処女マリアから生まれたキリストだけです。私たちはすべて男の子孫と言

われています。あの古い蛇、サタンが女の子孫の踵を打つことは、主イエスの十字架での

死で実現しました。しかしそれは踵を打つという軽傷でしかなかったのです。主イエスは

3日目に復活したからです。そうして十字架の死は、私たちの罪に赦しを備える身代わり

の処罰であると知り、その赦しを受け入れた者は、主イエスの十字架で現された、いのち

を捨てるほどの愛で、自分は神に愛されていると味わい知ります。その結果、心からの感

謝と喜びをもって神を愛する者となり、神に聞いて生きることを喜びとする者へと変えら

れたのです。これはサタンの目論見を完全に打ち砕くことになりました。

 ユダヤ人たちは救い主が来られるのを待ち続けていました。救い主が遣わされることは

旧約聖書に繰り返し予告されています。そうして、神の定めた時に、救い主は処女マリヤ

の胎内に宿ることで、この世に生まれました。その出来事の記述が今日の箇所です。

 8~10節。羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていました。そこに主の

使いが遣わされ、大きな喜びが告げ知らされたのです。新約聖書時代の羊飼いは人々から

蔑まれ、見下される職業でした。それは羊を飼う生活のゆえに、安息日の定めや律法を守

ることができず、宗教指導者たちから罪人と断罪され、そうして一般民衆からも、神の国

から最も遠い存在であると見なされていたからです。

 そのように扱われている羊飼いが、救い主誕生の知らせを受ける最初の人々として選ば

れました。救い主が全人類のために遣わされたのですから、当然の帰結と言えます。社会

の底辺に置かれていた羊飼いが全人類の代表として、最初に救いに招かれました。そして

救い主もまた、社会の底辺に生まれたのです。

 11~12節。救い主は、布にくるまれて、飼葉おけに寝かされました。家畜小屋の動物

が餌を食べる桶に、新生児の救い主は寝かされたのです。これほど低い状態にまで主キリ

ストは自分を低めてくださったいました。それは、全人類の救い主として来られたからで

す。そうして羊飼いたちは、誕生した救い主を捜しにダビデの町、ベツレヘムに向かいま

した。家畜小屋の飼葉おけに寝かされていると知らされたので、羊飼いたちは何の気兼ね

もなく、救い主を捜しに行くことができたということです。

 もし救い主が王宮に生まれたなら、ごく一部の選ばれた人しかお会いすることが許され

ません。裕福な家庭に生まれても、裕福な階級の人たちはお会いできても、社会の底辺に

置かれている人たちは近づくことは許されません。一般家庭に生まれたとしても、羊飼い

たちは端から拒絶されてしまいます。羊飼いたちがだれにも気兼ねなく、捜しに行こうと

思える場所、それが家畜小屋です。そうして彼らはベツレヘムに行き、家畜小屋を捜し回

りました。16節です。そうしてマリアとヨセフと飼葉おけに寝ているみどりごを捜し当て

たのです。20節。彼らは神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

 彼らの喜びはいかばかりだったでしょうか。人々から見下され、排除され、神の国から

最も遠い存在、決して救われるはずがないと見なされていた羊飼いたちは、すべての人に

与えられる、大きな喜びの知らせを受け取りました。あなたがたのための救い主が生まれ

たと告げ知らされ、実際に捜し当て、お会いできたのですから、その喜び、感謝、感動は

ものすごく大きなものとなりました。大きな喜びです。自分の救い主を迎えたのです。

 私たちにとっても同じです。この救い主は、私たちすべての人のための救い主です。そ

してこの救いは、私たちに罪の赦しをもたらす救いです。私たちはみな、何らかの具体的

な、数々の罪を犯しています。創造者である神を自分の神としないという根源的な罪を抱

えており、具体的な数々の罪のゆえに罰せられる存在でした。そのような私たちに罪の赦

しを備え、罪から救い、造られた本来の、創造者である神とのあるべき状態に立ち返る道

が開かれたのが、救い主、キリストの誕生です。そして救い主は、私たちに罪の赦しを備

えるために、十字架で身代わりに、罪の処罰を受けてくださいました。それを信じ、受け

入れるなら、私たちは罪の赦しを受け、神とのあるべき状態、救いに与るのです。

 羊飼いたちは素直に、御使いの語りかけを受け入れ、救い主のもとに行きました。私た

ちも素直に、救いへの招きを受け入れるなら、救いに与るのです。

 ヨハネの福音書1章12節。創造者である神の語りかけです。「この方(主イエス・キリ

スト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権を

お与えになった」。主イエスを信じるなら、神は罪を赦し、神の子どもなる特権を与え、

永遠のいのち、神のいのちを生きる神の子どもにしてくださるのです。クリスマスに告げ

知らされた大きな喜びは、私たちもが救いに招かれているという知らせなのです。

 まず私たちが、救いの喜びを味わい知り、私たちも、救いの喜びを知らせる祝福の器、

恵みの器とされ、用いられましょう。


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