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2023年12月17日 礼拝「富む者となるために」コリントⅡ 8:1~9

更新日:2023年12月19日

 先週に続き、パウロが記したクリスマスを基に学びます。一般的に知られているクリス

マスは、家畜小屋にいるマリアとヨセフ、飼葉桶に寝かされている赤ちゃんのイエス様、

羊飼いと彼らに現われたみ使い、そしてはるばる東の国から訪ねてきた博士たちなどを思

い浮かべるでしょうか。これら一つ一つの出来事からも、私たちは、神の愛とあわれみの

みわざ、神の恵みを味わい知ることができ、神への感謝が溢れます。

 私たちはクリスマスを迎える度に、人となられてこの世に来られた、神の御子キリスト

を、自分の神として受け入れ、崇め、私の救い主として礼拝する者とされたことを喜ぶの

です。クリスマスのことばの意味は、キリスト礼拝です。クリスマスが真にクリスマスと

なるのは、キリストを自分の神として礼拝することによるということです。

 先週私たちは、ピリピ人への手紙から、クリスマスを確認しました。クリスマスは、神

であられるキリストが、神として持っておられる特質のすべてを空しくし、しかも仕える

者の姿を取って、私たちの世界に来てくださったことを記念する日です。キリストは私た

ちと同じ人間となられ、さらに私たちよりもご自身を卑しくして、家畜小屋に生まれ、飼

葉桶に寝かされるという、最も低い立場にまでご自分を低められたのです。

 主イエスの地上生涯は、人々に仕えるということであり、良いものを人々に与え続けま

した。そして最後に、全人類に罪の赦しを備えるために、ご自分のいのちまで捨てられた

のです。ご自分は何の罪も犯されなかったのに、私たちの罪をすべてその身に負われて、

私たちの身代りとして、罪の処罰を受けるために十字架で死なれました。

 その誕生から、その死に至るまで、キリストはご自身を卑しくされました。そのキリス

トの謙卑、へりくだりの姿は、私たちのための模範でもあります。私たちは、クリスマス

を迎えるたびに、キリストの謙卑を、そのへりくだりを思い起こすことが大事です。私を

救うために、主イエスはへりくだられたと再確認することも、クリスマスの目的です。

 今日私たちは、コリント人への手紙第2から学びますが、今日の箇所は、献金への招き

の部分です。この時、エルサレムの教会は貧しい状況に置かれていました。その貧しい教

会を援助するために、ユダヤ人ではない、異邦人のキリスト者たちが進んで献金をしてい

たのです。コリントの教会は、他の教会に先んじて、喜んで、また進んで献金を始めたの

ですが、何らかの事情で、それが中断していました。それは10~12節で分かります。そし

てその献金を再開するようにと、パウロは8章、9章で、献金への招きを記したのです。

 今日の箇所でパウロは、9節にクリスマスを記しました。そしてこれが、献金をすると

きの動機とするようにとパウロは言うのです。9節。主は富んでおられました。富んでお

られた主が、私たちのために貧しくなられたです。それは私たちが、神の御前に富む者と

なるためででした。このことは先週確認したピリピ人への手紙の記述と、とても似ていま

す。同じ様な記述ではありますが、強調点が違います。

 ピリピ人への手紙では、主はご自身を卑しくされたことが、強調されています。そして

私たちにへりくだることを、すなわち私たちが人を自分よりすぐれた者と思うこと、他の

人を顧みることで、主イエスに倣うようにと招いています。それはキリストにあって同じ

思いを持つこと、一致を保つためでした。しかし今日の箇所では、主が貧しくなられたこ

とが、強調されています。そして私たちにも、他の人を支えるために、貧しくなることに

おいて富む者となるようにと招いているのです。

 9節。パウロがコリントの聖徒たちに書き送ったクリスマスです。主は富んでおられま

した。どれほどの富を持っておられたのでしょう。その富について、私たちは把握するこ

とはできません。神として持っておられるすべての富ですから想像すらできませんが、ま

ず神としての栄光をあげることができます。ヨハネの福音書17章5節で、主イエスは次の

ように語られました。「父よ、今。あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してくださ

い。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。」

 そのような主イエスについて、イザヤ書53章2節で預言されています。「彼は主の前

に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿もな

く、私たちが慕うような見栄えもない。」これは主イエスが誕生される約700年前に記さ

れたキリストに関する預言です。栄光のかけらすらない姿が描かれています。

 ヨハネの黙示録5章12~14節。「彼らは大声で言った。『屠られた子羊は、力と知恵

と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。』また私は、天と地と地の下と

海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。

『御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくなるよう

に。』すると四つの生き物は『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」こ

れは天における壮大な礼拝の描写です。御父と御子が同等にほめたたえられています。

 9節。主は富んでおられたのです。しかし私たちのために貧しくなられました。神とし

て持っておられたすべてのものを空しくして、捨てたのです。栄光も、力も、誉れも、賛

美も、主権も、すべてのものを捨てて、私たちと同じ人間となられました。飢え、渇き、

疲れを覚え、ある時は暴風が吹き荒れる湖の舟の中で、それに気が付かないほど疲れ、

ぐっすりと寝ておられました。主イエスは、地上生涯において、聖霊なる神の助けの中

で、御父のみこころを行うすべてのことをなされたのです。まことの人として、その生涯

を貫かれました。それは私の罪のために、あなたの罪のために、身代りとして死ぬため

に、どうしてもしなければならないことだったのです。

 9節。私たちは、キリストの貧しさによって富む者となりました。私たちは何も持って

いませんでした。裸で生まれ、今手にしているものは、すべて与えられたものです。その

すべては、この世で使うものです。永遠から考えるなら、ほんの一瞬の生涯ですが、この

世で使うものを持っているのです。そしてこの世を去る時、今持っているものを、何一つ

持っていくことはできません。私たちは裸で生まれ、裸で死んでいくのです。

 そのような私たちが神の御前に富む者とされました。主イエスを信じる信仰によって永

遠を生きる者となり、創造者である神を自分の神と仰ぎ、希望を持ち、神を愛する者、隣

人を愛する者となりました。そうしてキリストにあって、すべてのものを持っています。

私たちキリスト信仰者は、キリストの貧しさによって富む者とされたのです。

 パウロはこの霊的事実を確認させて、コリントの聖徒たちに献金を勧めました。今日の

箇所、1~9節で、最も多く使われていることばは、恵みです。5回使われています。1

節、神の恵み。4節、奉仕の恵み。6節、恵みのわざ。7節、恵みのわざ。9節、主イエ

ス・キリストの恵み。他者の必要のためにささげることは恵みだとパウロは言うのです。

 2節。パウロは、マケドニアの聖徒たちの献金について、神の恵みが与えられた結果と

して、惜しみなく施す富となりましたと言います。献金は強いられてするものではありま

せん。また何か取られるという思いを残してするものでもありません。神の恵みを受けた

者として、その恵みに押し出されて、喜びにあふれてするものです。まずこのことを確認

しておきましょう。マケドニアのキリスト者たちは、富が有り余っている状況ではなく、

極度の貧しさの中にあったと記される状況でした。

 しかし彼らは、満ちあふれる喜びの中にいました。その喜びが彼らをして、その惜しみ

なく施す富となったのです。3~4節。彼らは強いられたのではなく、また嫌々ながらし

たのでもありませんでした。自分に与えられているものを正しく管理して、その中から、

聖徒たちを支える奉仕の恵みに与りたいと願って、自ら進んで、力に応じて、力以上に献

げたのです。これが献げるときの原則です。

 そうしてパウロは、献げる者が受ける祝福を書き記します。7節。コリントの聖徒たち

が、信仰にも、ことばにも、知識にも、熱心にも、愛にも溢れているとし、その上で、こ

の恵みのわざにも溢れるようになってくださいと招いたのです。

 9章6~7節。献げることは種まきと同じだと言います。蒔いた分に応じて刈り取りる

のです。豊かな刈り取りを望むなら、多く蒔くことが大事です。そうして創造者である神

が愛されるのは、喜んで与える人です。神の愛は私たち全人類に注がれています。救いへ

の招きをし、罪の赦しを備えておられるという点において、神の愛はすべての人に等しく

向けられています。神は愛だからです。しかしパウロがここで述べている神の愛は、すべ

ての人に等しくはありません。喜んで与える人への特別な愛が言われているのです。

 それは10節。創造者である神は、種まく人に種と食べるためのパンを与えてくださるか

らです。これはすべての人に公平です。私たちの地上生涯が保たれている期間、創造者で

ある神は、私たちのいのちを守り、私たちの必要をご存じであり、それを満たしてくださ

るのです。そうして、その中から蒔く種を惜しみなく用いる者に、さらに蒔く種を備え、

それを増やし、そして義の実を増し加えてくださるのです。ここでの神の愛は、蒔く種を

増やすという意味で、蒔く人を愛するということです。

 11節。蒔く種を惜しみなく用いる者は、あらゆる点で豊かになります。それは神への感

謝を生み出します。主イエスが語られた、与える者の幸い、その祝福が、ルカの福音書6

章38節にあります。「与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだ

り、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あな

たがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」

 献げる者が持つべき動機は、キリストの恵みを味わい知った者として、神の恵みのわざ

に参与したいとの思いです。私たちは主から委ねられているものを、自分のために使うも

のと、蒔く種に用いるものとに別け、正しく管理し、喜んで献げる者となりましょう。


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