アドベントの第2週目を迎えました。年末の慌ただしさの中で、ともするとこの世の流
れに流されそうになる時期でもありますが、私たちキリスト信仰者は、意識的にクリスマ
スに心を向け、人として来てくださった主イエスに思いを潜めることで、神への感謝を募
らせて、この世に流されずに過ごすことができるのは幸いです。静かに自分を見つめ、確
かな救いの喜びをしっかりと抱きつつ、クリスマスを迎えましょう。
私たちはこれからの2週、使徒パウロが書いたクリスマスを確認し、創造者である神の
私たちに対する、愛とあわれみを覚え、さらに深い感謝を現したいのです。パウロは、ク
リスマスを感傷的な物語とはしないで、クリスマスで現されたキリストのみわざを確認さ
せることで、私たちのお互いに対する接し方に適用させるのです。
今日はピリピ人への手紙の中に記されたクリスマスを確認し、私たちにも告げられてい
る具体的な勧めを見て、私たちの信仰生活、教会生活に生かしましょう。みことばを聞い
て教えられても、実生活に生かされないなら、その教えられたことは無益となります。主
イエスは言われました。「みことばを聞いて、それを行なう人は、岩の上に自分の家を建
てた賢い人にたとえられる」と。ですから、教えられることを大切にし、それを自分の生
活にどう適用できるかを吟味し、意識して実生活に適用していきましょう。
6~7節。キリストの人としての誕生について書き記します。キリストは神の御姿であ
ると。姿と訳したことばは、そのものが持つ本質が滲み出てきた様子を指します。スポー
ツを考えると分かりやすいでしょうか。姿とはフォームのことです。野球が好きならバッ
ティング・フォームとかピッチング・フォームを、テニスが好きならテニスのフォームを
考えてみてください。上手な人はそれなりの、下手な人もそれなりの姿になります。その
人の持っている本質が姿となって現われるのです。
キリストは神の御姿であるとは、神の本質そのままのお方だということです。キリスト
は、神ご自身である、神の本質そのもののお方であるとの主張がなされているのです。
聖書は、天地創造の前から神であり、ことばであるキリストが、すべてのものの創造主
であると主張します。その創造者である神、キリストが、神としてのあり方を捨てられな
いとは考えず、神のあり方を捨てて、人間と同じようになられて、私たちの世界に来られ
たのです。これがクリスマスです。神が人となられてこの世に来られました。処女マリア
の胎に宿り、人間として生まれたことを記念する日がクリスマスです。
7節。ご自分を空しくされました。神のあり方を捨てたとは、神として持っておられた
特質のすべてをお捨てになったということです。神は霊ですから、あらゆるところに同時
におられる遍在のお方です。天にも地にも満ち満ちておられる霊のお方です。そのあり方
を捨てて、ご自分を空しくされ、神のあり方を捨てたのです。
そしてしもべの姿を取られました。人間と同じようになる前にです。しもべとは仕える
者のこと、奴隷です。しもべの姿を取られたということは、奴隷としての本質を身に付け
たということです。キリストは神の本質そのままのお方ですが、神のあり方を捨てて、し
もべとしての姿を取った上で、人間と同じようになられたのです。そうして地上に来られ
ました。私たちを救うために、私を救うため、あなたを救うために、神であることのすべ
ての特質を空しくして、私たちと同じ人間となられたのです。
主イエスは「仕えられるために来たのではなく、仕えるために来たのです」と仰せられ
ましたが、それはマリアの胎内に宿る前に、人間として肉体を取られる前に、仕える者の
本質をその身に負ってくださったということです。聖霊によって、神の全能の力で、一人
の処女を母親とし、その胎内で胎児の期間を過ごされ、赤ちゃんとして誕生し、幼児期か
ら子ども、青年、そして成人され、地上生涯において、ご自分をさらに低められました。
私たちと同じ人間となられましたが、神でなくなったわけではありません。神でありな
がら、神であることを、人間というベールで覆い隠しておられたのです。その地上生涯で
ただ一度、人間というベールを取り除いて、神としての栄光を現わされたことが、マタイ
の福音書17章に記されています。1~3節。主イエスが、人間としてのベールを除き、神
としての本質の姿を弟子たちに見せた出来事です。
イエス・キリストの地上生涯は、まさに、まことの人としての生涯だったのです。
ピリピ人への手紙に戻ります。2章8節。主イエスの地上生涯は、ご自身を卑しくされ
たものでした。ただ人として生まれたのではなく、最低の状態での誕生です。家畜小屋の
飼葉桶に寝かされました。これ以下の惨めさは考えられないでしょう。さらにご自身を卑
しくされたのは、罪が全くなく、何も罪を犯していないにもかかわらず、ローマ帝国の極
刑である十字架刑で処罰されたことです。私たち人間の罪、全人類のあらゆる罪の罰を身
代わりとして受けるために、罪そのものとなられました。父なる神のみこころ、罪人に罪
の赦しを備え、罪から救う、救いの計画への全き従順を示されたのです。
これがキリストの謙卑です。これがクリスマスです。私たちを愛し、私たちを罪の呪い
から、報酬としての滅びから救うために、ご自分を空しくし、遜り、ご自身を卑しくされ
たキリストの姿があります。
パウロは、このクリスマスを記すことで、読者一人ひとりに、私たち一人ひとりに、キ
リストの謙卑に学ぶようにと勧めています。キリストに愛された者として、キリストの愛
を受け入れ、神を愛する者とされた者として、罪の赦しと罪からの救い、永遠のいのちと
いう素晴らしい賜物、何物にも換えられないクリスマス・プレゼントを受け取った者とし
て、あふれるばかりの感謝をもって、キリストの謙卑に倣うようにと招くのです。
5節。キリストの謙卑を念頭に置きながら1~4節。これは1つの文章です。この文章
を支配しているの2節の満たすという動詞、命令です。パウロが命じたのは、あなたがた
は私の喜びを満たしなさいです。その前提が1節で、満たすための具体的な勧めが2~4
節です。パウロの喜びが満たされるために、1節の前提が必要であり、そしてパウロの喜
びは、2~4節が実現して満たされるということです。
1節。あるなら、です。キリストにあって励ましがあるなら、愛の慰めがあるなら、御
霊の交わりがあるなら、愛情とあわれみがあるなら、です。しかも、あるならとは、だれ
でもという意味の条件文であり、あるかないのかわからない上でのあるならではなく、あ
るのだからという条件文です。しかも4つのすべてがあるならではなく、一つでもあるな
らという条件文なのです。キリストにあって励ましがあるならだれでも、愛の慰めがある
ならだれでも、御霊の交わりがあるならだれでも、愛情とあわれみがあるならだれでも、
どれか一つでもあるなら、あなたは、私の喜びを満たしなさいと命じたのです。
パウロの喜びは、2~4節で満たされます。1節の条件文は4つの文節で構成されてい
ますが、2~4節は1つの文節です。そしてこの文節を支配している動詞は、同じ思いと
なりなさいです。パウロは喜びが満たされるために、あなたがたは同じ思いとなりなさい
と命じたのです。同じ思いとなるためには、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つ
にし、何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よ
りもすぐれた者と思い、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みることで、同じ思
いへの整えられていきます。そしてあなたがたが同じ思いを持つ、あなたがたが一致を保
つなら、パウロは主にあって喜びに満たされると言うのです。
私たちの交わりで、同じ思いを持つ、一致を保つことで、最も難しいのが、へりくだる
ことではないでしょうか。人よりも自分のほうがすぐれていると考えたい私たちです。自
分のほうが信仰的であるとか、自分のほうが神に受け入れられていると思う、自分を人よ
りも良い状態においていたいのです。ですから自分がへりくだる、人を自分よりもすぐれ
た者と思うことを嫌がります。頭では分かっています。それができれば本当に素晴らしい
と考えています。と同時に、それを嫌がる自分がいるのです。
また自分のことだけで精一杯で、人のことを顧みるなど、無理だと思ってしまうかもし
れません。しかしパウロは、同じ思いとなる、一致を保つために、ほかの人のことを顧み
るようにと命じるのです。へりくだることで、同じ思いを持つこと、一致を保つことはた
やすくなります。それでパウロはクリスマスでの、キリストの謙卑を確認させ、そのへり
くだりが、私たちのためであるとわきまえさせることで、主イエスを信じ、主イエスを自
分の主と仰ぐ者とされた私たちに、キリストに倣って、へりくだるように命じたのです。
今私たちは、アドベントの期間を過ごしています。キリストの謙卑を確認しましょう。
私のために、私たちのために、全人類に罪の赦しを備えるために、神のあり方を捨てて、
私たちと同じ人間となり、最も低い立場に生まれ、社会の底辺にまで自分を低め、そして
十字架で身代わりの処罰を受けてくださったキリストの謙卑に倣うのです。その時私たち
は同じ思いになり、一致を保つことで、パウロの喜び、それはそのまま神の喜びとなるの
ですが、その喜びを満たしましょう。
5節。キリスト・イエスにあるこの思いを、私たちの間でも抱きましょう。
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