今日は、皆さんに質問をすることから始めます。皆さんは今永遠のいのちを持っていま
すか。今皆さんは永遠のいのちを生きていますか。永遠のいのちを持っているとして、そ
のいのちは、どのようにして持ったのでしょうか。まだ永遠のいのちを持っていないとし
て、どうすれば永遠のいのちを持つことができるでしょうか。私たちは何をしたので、永
遠のいのちを持つことができたのでしょうか。また、何をするなら永遠のいのちを持つこ
とができるのでしょうか。古今東西多くの人々が不老不死を願い、様々な努力をしてきま
した。しかしそれらはすべて空しく終わり、すべての人が、身分の高い人も低い人も、裕
福な人も貧しい人も、みな等しく死の時を迎えたのです。
永遠のいのちは、だれにとっても、とても魅力的なもの、あこがれです。そして私たち
はかなうことなら、それが欲しい、永遠のいのちを持ちたいと願います。聖書には不老不
死については書かれていませんが、永遠のいのちについては繰り返し書かれています。今
日私たちは、永遠のいのちが書かれている聖書を、どう読んでいるかを考えます。
どう読むかとは、一日に1章づつ読むとか、一年間で聖書全巻を読んでいるとか、その
ような聖書の読み方ではありません。計画をたてて聖書を読むことは大切ですし、私たち
が神のことばに親しむためには必要不可欠です。しかし今日考えたいのは、私たちの聖書
に対する向き合い方です。聖書は何であるとして読んでいるかです。聖書を読むことだけ
なら、私たちよりも、もっと多くの時間を費やして読んでいる人々は大勢います。熱心に
研究している人々は沢山いるのです。しかし彼らの中のある人々は、永遠のいのちを見い
だせない聖書の読み方をしていることもあるのです。単なる読書と同じように読む、また
は研究の材料として読んでいるので、永遠のいのちを見いだすことはできません。
この箇所の律法の専門家も、そのような一人でした。彼は旧約聖書を知っていました。
とことん研究し、どこにどのようなことが書かれているかを把握している専門家です。当
時のユダヤ社会では、人々から尊敬を受け、最も神の国に近い人と考えられていました。
彼自身も神の国に近い存在であることを自負していたと言えます。神の律法を、形式的に
ではあっても、細部まで調べ、その文字としての律法を行なっていたからです。
その律法の専門家の一人がイエスを試みようと質問しました。25節。これはイエスのこ
とばを聞いた上での質問です。20節、24節。律法の専門家から見るなら、律法を行ってい
るとは思えないイエスの取り巻きたちが、なぜ天に名前が書き記されているとか、なぜ旧
約時代の預言者よりも幸いだと言われるのか理解できませんでした。そこで質問をしたの
です。「何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」彼の関心は、
何をするかです。彼にとって永遠のいのちは、神の律法を正しく行うことに対する報酬で
した。しかし今イエスは、律法に忠実とは思えない人々に、天の住民として登録されてい
ると語っているのです。では何をしたなら、天の住民として、永遠のいのちを持つ者とし
て登録されるのか。律法を守ること以外の何をすれば良いのかと疑問に思ったのです。
26節。主イエスは律法の専門家に、律法には何と書いてあるかと尋ねました。しかしこ
の主イエスの質問はとても意味深いものです。「何と書いてありますか」、だけではなく、
「あなたはどう読んでいますか」、と付け加えられているからです。
私たちも聖書を読むことで、何が書いてあるかを知ります。これからも知るでしょう。
しかし、聖書に何が書いてあるかを知っているだけでは意味をなさない、と主イエスは語
られました。どう読んでいるのか。どのように自分の生活に適用しているのか、どのよう
に神に対して生きようとしているのかを、主イエスは問いかけられたのです。
27節。彼はすばらしい答えをしました。神の定めの基盤、律法の根幹です。心を尽く
し、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、自分の神である主を愛すること、隣
人を自分自身のように愛すること。私たちは、全存在をかけて、全人格をもって、全身全
霊で、自分の神である主を愛することです。私たちはふたりの主人を愛することも、ふた
りの主人に仕えることもできないと、主イエスは語られました。神を愛しながら、この世
とこの世のものを愛することはできません。この世を愛して、同時に神を自分の主とする
ことはできないのです。そして神への全き愛から出てくることは、自分を正しく愛し、隣
人を正しい自己愛で愛することです。
永遠のいのちを与えられた者は、神への愛、自分への愛、隣人への愛の、3つの愛を生
きることができる者とされました。神以外の何にもまして神を愛すること。ありのままの
自分を認めることです。人と比較して、優越感や劣等感を持つなら、自分を正しく愛して
はいません。罪によって歪められている部分は正されなければなりませんが、神が私を造
られたことを認め、その自分を愛するのです。その上で、主なる神が、隣人をも愛してい
ることのゆえに、その人を愛するのです。あなたの隣人を自分自身のように愛する。これ
が神の律法です。この隣人への愛は、神を正しく愛することで、可能になるのです。
28節。主イエスは彼が正しい答えをしたと認め、その上で、彼の欠けている部分を指摘
されます。「それを実行しなさい。そうすればいのちを得ます」。この律法の専門家は、
自分では、神が求めておられる愛をもって神を愛していると考えていたでしょう。彼は自
分の隣人を愛していると自負していました。しかし、それは自己評価であって、神の基準
での評価ではなかったのです。彼は神の律法を自分の好みに合わせ、自分に都合の良いよ
うに読んで、行っていたからです。
29節。彼は自分の正しさを示そうとして、主イエスに質問しました。「私の隣人とはだ
れですか」。この質問こそ、この考え方こそ、神のことばを自分に合わせて曲げているこ
とを示しています。彼は、自分の隣人を決めてから、その人々を愛したのです。自分中心
に考えるなら、当然の結論です。しかし創造者である神が定められたのは、自分以外のす
べての人が隣人であるということです。そして主イエスは例え話をした上で、36節。その
人の隣人になることだと言われました。隣人を愛するとは、隣人になることです。
この律法の専門家の問題は、知っている神のことばを自分に合わせて読んでいたことで
した。私たちも気をつけましょう。私たちも、聖書に何が書かれているか知っています。
そしてさらに多くのことを知るでしょう。その聖書を、私たちはどう読んでいるでしょう
か。知識として知るためにから、神のみこころを知り、それを生きるために、神のことば
として聖書から聞く必要があるのです。神のことばを知っていても、神の思い、神の考え
を知ろうとしなければ、その神のことばは私たちを生かしません。神のことばを知ってい
ても、自分に合わせて神のことばを曲げているなら、間違った歩みへと進ませます。
さて主イエスを信じた私たちは今、永遠のいのちを持っています。私たちが、神に対す
る貢献をしたからではなく、道徳的にすばらしい生涯を送ってきたからでもなく、神の前
に正しい存在だからということでもなく、ただ神のあわれみによって、自分が罪人である
ことを認め、自分の身代りとなってイエス・キリストが十字架にかかり、罪の罰を受けて
くださったことを信じたので、私たちは罪を赦され、神の子どもとされました。そうして
永遠のいのちをが与えられ、そのいのちを生きる者とされました。
永遠のいのちは神からのプレゼント、賜物です。報酬ではなく、神の恵みによって、信
仰によって与えられる賜物です。今私たちはイエス・キリストを信じたことによって、永
遠のいのちを持っています。すばらしい恵みです。ですが、実際に、日々永遠のいのちを
生きているかは別問題です。永遠のいのちを持っている者として、神のことばを聖書から
聞いて、神のみこころを生きようとしているか。このことを吟味したいのです。
主イエスは、私たち一人ひとりに対しても尋ねておられます。聖書には何と書いてあり
ますか。私たちに、どうしても必要なただ一つのこと、神のことばを聞くということを疎
かにしてはなりません。さらに主イエスは尋ねます。あなたはどう読んでいますか。神の
ことばに従って、神のみこころを生きようとしているでしょうか。自分の好みに合わせ、
自分に都合良く、神のことばを曲げていないでしょうか。
私たちはまず、聖書を読むことによって、神が何を命じ、何を求めておられるかを知る
必要があります。神の語りかけを聞くことが大事です。主イエスを信じて、永遠のいのち
を生きる者とされた私たちです。まず神のみことばに、聖書に親しみましょう。そしてみ
ことばを生きる一歩一歩を、神のみこころを生きる一歩一歩を踏み出すのです。主イエス
を信じて、永遠のいのちを生きる者となったので、神のことばに生きるのです。
あなたはどう読んでいますか。もう一度神のことばに対する自分の態度、接し方を吟味
しましょう。自分の好みに合わせて、神のことばを曲げていないか吟味しましょう。神の
ことばに合わせて自分を変えていただく読み方を身につけましょう。そして永遠のいのち
を与えられた者にふさわしく整えられていくのです。毎日の、神の御前に静まる幸いな時
を大切にし、そこで教えられたことを自分の実生活に適用するのです。神のことばに、み
こころに従順になる、それが神を愛することです。
次回は、隣人になるということを、主イエスの例え話から確認します。
主イエスは私たちにも、あなたはどう読んでいますか、と問いかけておられます。
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