私たちは悪いことをしたとき、当初は悪いという自覚を持ち、ドキドキしながらそれを
行います。しかし慣れるにしたがって、悪いという自覚は薄れ、平気でその悪いことをす
るようになります。そして、それをしないと、損しているかのような思いさえ持つことも
あります。良心はあるけれど、その良心が麻痺して、機能しなくなるのです。
皆様は過去に犯した罪を思い出すでしょうか。これは悪いと認識しつつ、それを行って
きた、そのような罪を思い出すでしょうか。その時のことを振り返ると、初めは平気では
なかったでしょう。当初は良心の呵責を覚えたけれど、次第に平気になり、いつしか、そ
れは当然のことで、しないのは損だと思うように変わっていくのです。不思議ですね。
私たちは善悪を正しく判断できます。しかし自分に正当化できる理由をつけて、罪を犯
し続けることもあります。良心が麻痺されていない段階では、少なからず良心の呵責を覚
えますが、それでも、自分を正当化して、その罪を犯すことがあるのです。
私たちがどのように考えているかは別として、自分が犯してきた数々の罪に対して公正
なさばきがなされるとするなら、どのような判決が下されるでしょうか。そして、すべて
の罪は同等に重いとするなら、どのような罰を受けるのが妥当となるでしょうか。
聖書の神は公正なお方です。完全に聖く、完全に正しい神であり、罪を決して見過ごし
にはされません。罪はどんなに小さく、些細であっても、それを憎み、必ず罰するので
す。だから私たちは、良心を麻痺させないように注意しましょう。そして罪を犯したと気
づいたなら、すぐに、自分の罪の認め、悔い改めることが大事です。
聖書の神は聖く、正しい神であると同時に、愛の神です。主なる神は、私たち一人ひと
りをこよなく愛して、罪から救おうと計画されました。義の神は、罪はことごとく処罰す
るのですが、愛の神は、罪を犯した私たちを赦そうとなさったのです。私たちが自分では
決して赦されるはずはないと思うような重罪でも、愛の神はその罪をも赦そうとされるの
です。私たちが赦しを求めるなら、創造者である神はその罪を赦されるのです。
今日の箇所に、イエスを裁判官にして、その判決を引き出そうとする律法学者とパリサ
イ人が記されています。彼らはひとりの女性を連れてきました。姦淫の現場で捕らえられ
た女性です。彼らは、神の律法に基づいて、主イエスに判決を下すようにと迫るのです。
彼らの魂胆はイエスを告発する理由を得ることです。5~6節。
ここに彼ら、宗教指導者たちの欺瞞が見えます。自分たちに都合良く事を進めるのため
に、平気で律法を歪めるのです。彼らは律法の番人として、人々には律法を厳格に守るよ
うに押しつけます。しかし彼ら自身は、イエスという存在を葬り去るという目的のため
に、神の律法を歪めることに罪悪感を感じなくなっていたのです。
彼らに連れてこられた女性は姦淫の現場で捕まえられました。当然相手もいたはずで、
律法によるなら、相手も処罰の対象です。しかし彼らは女性だけを連れてきたのです。こ
こに、神を恐れない者の本質が現れています。自分たちの都合に合わせて律法を乱用する
恐ろしい原理主義の姿があります。目障りなイエスを葬り去るために、罪を犯した女性
を、ただ道具として利用するのです。良心が完全に麻痺しています。
彼らの策略は完璧のはずでした。イエスがどう答えても、そのことばじりを捉えて葬り
去ることができると考えていたのです。イエスの答えは二つのはずでした。律法に従って
石打ちにするか、赦してやりなさいと促すか、どちらかと考えたわけです。そしてどう答
えても告発できる、これが彼らの計算でした。
律法に従って処刑せよと命じるなら、それはローマの処刑執行権を横取りする者だと、
ローマに対する反逆罪で告発できます。また、取税人や遊女などに救いの手を伸べている
のに、この女性を赦そうとしないなら、その一貫性のなさを人々に言い広めることで、イ
エスの評判を落とすことができます。逆に、赦してやりなさいと答えるとするなら、律法
に背く者だ、律法を侮辱する者だと告発ができます。
さて6節。主イエスの対応は沈黙でした。身をかがめ、地面に何かを書くことで、彼ら
の問いかけに応答しないようにしています。あたかも、自分は裁判官として来たのではな
いと示しているようです。3章17節。主イエスは人々をさばき、判決を下す裁判官として
来られたのではなく、人々をその罪から救う、救い主として来られたのです。
7節。どれ位の時間、主イエスの沈黙は続いたでしょうか。律法学者たちがしつこく問
い続けて止めなかったので、ついに主イエスがことばを発しました。それは彼らが全く予
想もしていなかったことばです。姦淫の女に対して死刑を求刑し、判決を引き出そうとし
ていた彼らは、一転して、自分が被告の立場に置かれ、自分を吟味させられたのです。
彼らが集団で来た時には、自分のことはさておいて、目の前にいる罪を犯した女性を罰
するのは当然だ、そしてこの事態を利用してイエスを亡き者にできるし、それは悪いこと
ではないと自己正当化していたのです。
しかし、自分には罪がないと言える者が最初に石を投げなさいとのことばを突きつけら
れた時、みんなで一緒にではなく、自分は最初に石を投げられるのかと、自分を神の前に
立たせて自己吟味させられたのです。彼らはこれまでの、自分が犯してきたいろいろな罪
や過ちを思いめぐらしました。さらに自分たちは、女性しか連れてきていない現実、つま
り律法を無視し、主なる神を軽んじている現実をも突きつけられたのです。自分は石を投
げる資格はないと考え、ひとり、またひとりと、去っていきました。
9節。みなが立ち去った時に、この女性もそこから逃げ去ることもできました。良かっ
たと思って立ち去ることができたはずです。しかし彼女はそこに、主イエスのそばに居続
けました。彼女の思いを正確に知ることはできませんが、想像させていただけるなら、彼
女は、このイエスというお方に、自分の処置を任せたのではないかと考えます。彼女は、
自分が犯した罪の大きさを自覚させられ、悔いていたのではないかと。
私たちも体験しているのではないでしょうか。それは罪ですよと指摘されても、自分が
それを罪だと自覚しなければ、その罪に対して罰せられると不当な扱いだと思います。逆
にだれも自分を罰しなければ、ラッキーと思って、しれーっととぼけてしまうのです。そ
うして自分を誤魔化したまま、同じような悪を平気で繰り返します。
まずそれは罪であるという認識と自覚が必要です。私たちが幸いであるのは、主なる神
の御前に自分を立たせることができ、絶対的な神の基準で自分を吟味し、罪かそうでない
かを判別できることです。そしてそれが罪だと自覚すとき、私たちは、罪の赦しを願い、
そして、その罪がどれほど大きいとしても、必ず赦しを受けることができることです。
10節。主イエスは女性に、あなたを罪に定める者はなかったのですかと語りかけます。
彼女は自分の過ちを自覚しています。神の御前に重大な罪であり、石打ちで殺されて当然
の罪です。しかし誰も彼女に石を投げる者はいませんでした。検察側が起訴を取り下げた
ような状況です。そして主イエスは今、わたしも罪に定めないと仰せられるのです。
11節。わたしもあなたを罪に定めない、との主イエスのことばの幸いをかみしめたいの
です。主イエスは、あなたの罪はそんなに重大ではないよ、他の人もしていることだから
神経質になる必要はない、と言われたのではありません。この世の人々がどう評価すると
しても、主なる神の御前では死刑に処せられる重大な罪です。
その上で主イエスは、わたしもあなたを罪に定めないと言われるのです。ありがたい語
りかけです。あなたを断罪して処罰することはしないと。主イエスは、私たち罪人を断罪
し、処罰するためにではなく、私たちの罪を赦すためにこの世に来られたということを心
から感謝しましょう。私たちが罪に定められるのは、この地上生涯を終えて、神の御前に
立たせられた時に、赦しを受けていない罪がある場合です。その時私たちは断罪され、処
罰されるのです。公正な義の神は、罪を見逃すことはなさいません。必ず罰します。
主イエスのことばをもう一度味わいましょう。11節。主イエスは、あなたを罪に定めな
いから好き勝手に生きてもいいよとは言われませんでした。そうではなく、今からは決し
て罪を犯してはなりませんと言われたのです。彼女の罪の重さは明白です。それは誰より
も彼女自身が十分に自覚しています。そして主イエスもまた、彼女の罪の事実を前提にし
て、これからの生き方に指針を与えました。今からは決して罪を犯してはなりませんと、
やり直しの機会を与えられたのです。罪から離れるように、罪を犯すことをやめるように
と、主イエスは優しく促されたのです。
私たちも様々な罪を犯します。取り返しのつかないような重大な失敗をすることもあり
ます。しかし主なる神は、それで私たちを罪に定め、罰することはなさいません。そうし
て私たちにも言われます。今からは決して罪を犯してはなりませんと。私たちにもやり直
しの機会を与えておられるのです。罪から離れるようにと、優しく促すのです。
主イエスが、わたしもあなたを罪に定めないと言われたのは、そのためにこの世に来ら
れたからです。私たちを罪に定めて、罰するためにではなく、私たちの罪を赦すために、
罪を犯さなかった者と見なすために、私たちの代わりに十字架につけられ、私たちが受け
るはずの罪の処罰を、代わりに受けるために来られたからです。そして主イエスは私たち
に、罪を犯さないようにと、やり直しの機会を与えてくださるのです。罪の赦しが備えら
れています。自分の罪を自覚し、その罪の赦しを求めるなら、主なる神はその罪を赦して
くださいます。赦すというのは、その罪を犯さなかった者と見なしてくださるということ
です。許可ではなく、赦免です。恩赦、特赦なのです。
何度でも罪を犯して良いよ。何度でも許可するよということではなく、あなたが犯した
罪の処罰は終わったから、罪を犯さなかった者と見なすよ。だから、もう罪を犯さないよ
うにしなさい。罪から離れなさいと促しておられるということです。
今週のみことば。詩篇130篇3~4節。「主よ。あなたがもし、不義に目を留められる
なら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそ、
あなたは人に恐れられます」公正な神が私の犯した罪に目を留められたなら、私は、その
罪の指摘に対して、どのような言い逃れもできません。断罪され、罰せられて当然です。
しかし公正な神は愛の神であり、赦しの神です。そのために神の御子を人として地上に遣
わし、私が犯したあらゆる罪、そのすべてをその身に負わせて、身代わりに十字架で処罰
されたのです。この罪の赦しを拒むとするなら、罪が赦される道はどこにもないというこ
とです。赦しの神を本当の意味で恐れることが大事なのです。
主なる神が備えてくださった救いは、罪の赦しです。罪からの救いです。自分に罪があ
ることを認めて、赦しを求めるなら、赦されます。そして罪から離れることを決意するの
です。そうする時私たちは、内側から造り変えられます。罪の赦しという救いを、その幸
いを味わいましょう。主イエスを信じ、自分の罪を認め、赦しを求めるだけです。
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