パウロによる第三次伝道旅行も終盤にさしかかっています。パウロはエルサレムの教会
を訪問した後、自分たちが遣わされたシリアのアンティオキアの教会に戻って、伝道旅行
における主なる神のみわざを報告する計画を立てていました。16節に、パウロの考え、計
画が記されています。五旬節、ペンテコステ、聖霊降臨記念日にはエルサレムに着いてい
たいと、旅を急いでいたことが分かります。
パウロには、エペソの教会の今後に、懸念がありました。その懸念とは29~30節で語
られています。福音をまっすぐに伝えたパウロの影響がなくなると、福音から遠ざけよう
として、凶暴な狼が送り込まれてきて、容赦なく群れを荒らし始めること。また教会の中
からも、いろいろと曲がったことを語って、キリスト信仰者たちをその曲がった教えに引
き込もうとする者たちが起こってくることです。そのような時には、群れの中心的なメン
バーが、しっかりと福音に立ち、教会を曲がった教えから守る必要があるのです。
教会を荒らそうとして曲がった教えに引き込もうとする動きはいつの時代にも繰り返さ
れています。戦後の日本のキリスト教会には、繰り返し韓国からの異端の教えが入り込ん
でいます。今は、新天地イエス教と称する異端、正式名称は新天地イエス教証しの幕屋聖
殿と言いますが、教会に入り込み、キリスト信者を仲間に引き入れ、教会ごと新天地イエ
ス教に変えてしまおうと、手紙を送り、電話をかけ、動画配信などを使って、信徒も、牧
師をも曲がった教えに引き込もうとしています。私たちは正しい教え、聖書のみことばの
真理にしっかりと立っていないと、曲がった教えに引き込まれる危険があるのです。
パウロは、ミレトスからエペソに使いを送って、教会の長老たちを呼び寄せました。そ
うして別れの言葉を語るのです。18節。エペソはアジア州の州都です。パウロはエペソで
3年の間福音を伝え、アジア州全体の人々に福音が届いたことが19章に記されています。
パウロは長老たちに、自分がエペソで、どのように過ごしてきたかを、よく知っているは
ずだと言います。パウロがどのような思いで福音を伝え、何を語ってきたのかは19~21節
に記されています。数々の試練の中で謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきたこ
と、益になることは、どこでも余すことなく伝え、教えてきたこと、誰に対しても、神に
対する悔い改めを促し、主イエスに対する信仰を証ししてきたこと、です。
これらをエペソのキリスト信仰者たち、特に霊的指導に携わってきた長老たちは見聞き
しており、知っていたはずだと確認させています。それは彼らにも、同じ姿勢で主に対し
て、また人々に対して向き合ってほしいとの願いがあるからです。どのような境遇に置か
れたとしても、謙遜の限りを尽くして、主に仕えてほしい。益になることは、どこでも余
すことなく伝え、教えてほしい。誰に対しても、神に対する悔い改めを促し、主イエスに
対する信仰を持ち続けることを促してほしいと願っているのです。
そしてこれらの姿勢を身につけることは、私たちも同じです。私たちも、どのような境
遇に置かれたとしても、そこで謙遜の限りを尽くして、主に仕える。益になることは、ど
こでも余すことなく伝え、教える。誰に対しても、神に対する悔い改めを促し、主イエス
に対する信仰を持ち続けるように促すのです。
22~23節。パウロは19節で、数々の試練を受けてきたことを証していますが、これか
ら向かうエルサレムでも、またどの町に行くとしても、聖霊がパウロに鎖と苦しみが待っ
ていると告げていると言うのです。パウロはテモテへの手紙に、次のことばを書き送って
います。「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」
つまり謙遜の限りを尽くして主に仕えているパウロにとって、鎖と苦しみは、いつでも押
し寄せてくるものであると受けとめ、覚悟していたということです。
24節。パウロは自分の地上生涯を、天の御国に凱旋する、その途上の歩みと受け止めて
います。だからそれが、地上生涯がどのようであっても、人々から羨ましがられるような
物質的な祝福に満たされたとしても、鎖と苦しみという苦難の直中に置かれたとしても、
どのような状況であっても、そこで自分の走るべき道のりを走り尽くすこと、主イエスか
ら受けた神の恵みの福音を証しする任務を全うすることを求め、それができるなら、自分
のいのち、地上生涯を歩む肉体のいのちは、少しも惜しくはないと言い切るのです。
25節。パウロは聖霊の示しを受けています。今後エペソに立ち寄ることはないし、エペ
ソの聖徒たちと顔を合わせることもないと。そのために、言い残すべきことを、エペソ教
会の長老たちを呼び寄せて、宣言をするのです。26~27節。
28節。長老たちへの勧告です。まず自分自身に、気を配ること、その上で、群れ全体に
気を配ることを命じます。長老たちは神の教会を監督する任務を委ねられています。教会
は神がご自分の血をもって買い取られた神の所有する教会だとパウロは言います。御子キ
リストの血ではなく、神がご自分の血でと表現することに、御子キリストは神であるとの
主張が見えます。また、聖霊があなたがたを群れの監督にお立てになったと言いきること
で、教会形成、教会運営に、三位一体の神が、そのみわざを推し進めていることも表して
います。父なる神、子なるキリスト、聖霊の三位一体の神が共働して、ご自分の血をもっ
て買い取った聖徒たち一人ひとりを集めて群れとし、その群れを神の教会と言い換えるこ
とで、教会とはキリスト信仰者の群れであること、そうしてその群れの監督として長老た
ちを立てたのです。そして自分自身と群れの全体に気を配るようにと命じています。
29~30節。神の教会を正しい福音から逸脱させようとする様々な攻撃がなされます。
外からは迫害という凶暴な狼として攻撃がなされ、教会内からは曲がった教えを語る者が
現れ、弟子たちを福音ではない教えに引き込もうと、様々な策略を巡らしてくるのです。
31節。しかし私たちは、どこに留まるべきかを確認し、そこにしっかりと留まっている
なら、外からの攻撃に対しても、内側からの惑わしに対しても、決して揺り動かされるこ
とはありません。パウロは長老たちに勧めます。3年という期間、パウロが何を語り、ど
のように教えてきたのかを思い起こすこと、目を覚まして、その健全な教えにしっかりと
留まっていることを命じるのです。
私たちの信仰生活も同じです。聖書からどのように教えられてきたのかをいつも思い起
こし、そこに留まり続けることが必要です。どんなに正しい福音、正しい教理を教えられ
たとしても、その正しい教えに留まる、正しい教えを生きるのでなければ、その正しい教
えは私たちに、何の効力も与えません。私たちは聖書からの説き明かしを聞いて、それで
恵まれたと口にしても、そのことばを生きないなら、その恵みは絵に描いた餅であり、そ
の恵みを味わい知る信仰者とはならないのです。
32節。パウロは宣言します。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだね
ます」と。このように、神とその恵みのみことばに信頼できると、私たちは大胆に神のこ
とばを伝えることができるのです。ここには、私たちがどのように伝えているかとか、私
たちの信仰生活はどうであるか、証しになっているかいないかなどと、人間的な評価に左
右されるのでなく、神のことばを伝えることの大切さが教えられます。
証しの生活としてふさわしい信仰の歩みであるなら、それは幸いですし、理路整然と説
明できるように準備しているなら、それは有効に用いられるかもしれません。しかしその
ような、伝える側の私たちに左右される福音ではないのです。この確認は重要です。私た
ちに委ねられているのは、神のことばを神のことばとして伝えることです。福音を福音と
して伝えることなのです。創造者である神が、信じる私たちキリスト信仰者を守ってくだ
さいます。神の恵みのことばが、神の恵みのことばを受け取った人々を信仰に導き、救い
を与え、霊的に成長させてくださるのです。神とその恵みのみことばに信頼できる幸いを
味わって、神のことばを神のことばとして伝え続ける私たちでありましょう。
パウロは続けて語りかけます。「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとさ
れたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができる」と。神のこ
とばは一人ひとりを霊的に成長させます。ヘブル人への手紙で宣言されているように、神
のことばは生きていて、力があります。だから神のことばを受け取った人を成長させま
す。神のいのちに生きる霊的赤ちゃんとして誕生させ、霊的大人へと成長させるのです。
先に救われた私たちキリスト信仰者が、人々を救い、成長させるのではありません。私
たちがすることは、神のことばを神のことばとして伝えることです。そのことばを神のこ
とばとして受け入れるのか、拒むのかは、伝えられた人の責任です。私たちに委ねられて
いるのは伝えること、それだけです。そうして私たちは、伝えた人を、神とその恵みのみ
ことばにゆだねるのです。ことばである神が人となられました。ことばそのものであるキ
リストご自身が、神のことばを受け取った人を救い、そうして成長させます。主イエス・
キリストとその人がどのような関わりを持つのかについて、私たちが関与することはでき
ません。私たちがすることは、伝えること、執り成し祈り、委ねることだけです。
この32節で私たちが、もう一つ確認すべきことは、私たちが御国を受け継ぐのに必要な
霊的環境についてです。「聖なるものとされたすべて人々とともに」と言われています。
私たちは神のことばを伝えられて、神の御子イエス・キリストが人となられ、十字架で身
代わりの罪の処罰を受けてくださったことを信じます。その十字架の死は、私の罪を赦す
ための死であると受け入れ、自分の罪を認めて、悔い改めることで、救われます。
その救いを生きることは一人ではなく、「聖なるものとされたすべての人々とともに」
なのです。御国を継がせる、すなわち、神の支配の中に自分を置き、地上生涯を、神の国
の市民として生きることを得させるのは、同じキリスト信仰者たち、罪の救いに与った、
自分中心の罪の生き方を止めて、神を中心として生きる、全く新しい生き方へと変えられ
た他の信仰者たちとともに生きることによってなのです。群れから離れてはなりません。
群れの中に留まり、群れとともに、良い羊飼いである主イエスにしっかりと留まることが
必要なのです。
私たちの健全で、幸いなキリスト信仰者としての歩みは、キリストをかしらとするキリ
ストのからだである神の教会に属することで得られるのです。キリストのからだから離れ
ることは、かしらであるキリストから離れることであり、健全で、幸いな信仰の歩みは得
られません。私たちは教会を学び、教会に属することを保ち続けることが大事です。
そうして神のことばに教えられ、神のことばの実践の場としての教会で、神のことばを
生きることで、霊的成長が促され、霊的大人へと成熟していくのです。
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