みなさまは、自分で自分を評価をするとき、自分は力の強い者である、それとも、自分
は力のない者であると考えるでしょうか。私たちは日頃、相対的な基準で、自分を、また
他人を評価することが多いと思うのですが、みなさまの自己評価はどうでしょうか。
自分を力の強い者、あるいは、力のない者と評価した上で、主なる神に助けを求めてい
るでしょうか。それとも主なる神には助けを求めないで、自分で何とかしようとしている
でしょうか。それとも諦めてしまって、何もしないまま、やり過ごしているでしょうか。
今日私たちは、南ユダ王国のアサ王について聖書から確認し、私たち自身の信仰を、そ
の歩みを振り返りたいのです。北イスラエル王国の王ヤロブアムの晩年に、南ユダ王国の
王に、レハブアムの孫アサが即位しました。列王記の記述でもそうでしたが、この14章2
節で、アサは、自分の神、主の目にかなう良いことを行ったと記されています。ダビデ王
朝が南北に分裂してから、初めて、主なる神に良いと認められた王がアサです。
今日の箇所には、クシュ人が百万の軍勢で攻めてきたときのことが記されています。エ
チオピア人が南ユダに攻めてきたのです。アサの軍勢は8節に記されています。ユダに30
万、ベニヤミンに28万の計58万の兵がいます。それなりの大軍勢であると言えます。近隣
の国々と比較するなら、相当力のある国と言えるでしょう。しかしそれをはるかに越える
軍勢に攻めてこられたとき、アサは自分の力では到底勝ち目がないと悟りました。そして
主なる神に助けを求めて、祈り願うのです。11節。
アサは全能の神を信じ、素直に助けを求めます。万軍の主なる神は、力の強の強い者を
助けるのも、力のない者を助けるのも、変わりはないお方であると告白します。私たちが
力の強い者であるのか、力のない者であるのか、その相対的な評価に関わりなく、助けを
求めるなら助けられます。助けを求めないなら、助けられることはありません。そして力
のない者だと自覚する者は助けを求めやすいと言えます。助けを求めない者もいるのです
が。自分は力の強い者と思っている時は、自分で何とかしようとしやすいので、主なる神
に助けを求めないことが多いと言えます。主なる神の助けは彼にも必要なのですが。
助けを求めることは、何もしないで、神のみわざを、ただ待っているということではあ
りません。アサは言います。あなたに拠り頼みますと。その上で、大軍に向かって進軍し
たのです。その時12節。主なる神はアサとユダの前でクシュ人を打たれました。そうして
13節。アサたちはクシュ人を追撃し、非常に多くの分捕り物を持ち帰ったのです。
私たちの信仰の歩みも同じです。助けを求めることは何もしないことではありません。
主の助けを求めて、その上で、神のことばに自分を合わせて一歩を踏み出すのです。自分
の悟りや力、人間的な制度に頼るのではなく、主なる神に頼りつつ、自分の悟りや力、人
間的な制度を、神からの賜物として活用するのです。主なる神に頼らない、助けを求めな
いで、人間的な知恵や悟り、制度に頼るのではなく、主なる神の助けを求めて、その中で
自分にできることを用いて、主とともに進んで行くことが大事です。
さて、アサは主なる神に頼り、主の御前での良いことを求めて、国を治めました。1節
を見ると、10年間は穏やかであったとあり、そうしてクシュの攻撃を受けたことが分かり
ます。それから25年、戦いは起こらなかったと15章19節に記されています。17節には、
アサの心は生涯、全き者であったと良い評価を受けています。すばらしいですね。私たち
もこのような評価を主なる神から受けたいのです。そうは思わないでしょうか。そうして
そのような、主なる神とともに歩む歩みを生涯続けたいのです。
アサは、しかし、でした。16章1節。治世36年目に北イスラエル王国が攻めてきまし
た。アサはこの時、主なる神に助けを求めることをしないで、2節、アラムに助けを求め
たのです。アラムは今のシリアで、ダマスコとは今のダマスカスです。アサは南ユダ王国
を長く統治し、国を安定させてきました。そうしていろいろな知恵を身につけ、周辺諸国
の情勢も把握していったと考えられます。そのような中で、北イスラエル王国が南ユダ王
国に戦いを仕掛けてきたのが、この16章です。
3節。アサがアラムの王ベン・ハダドに要請した内容です。南ユダ王国と同盟を結び、
北イスラエル王国との同盟を破棄して、北イスラエルが南ユダから去るように対処してほ
しいと要請したのです。その要請に応じて3節。ベン・ハダドは軍の高官たちを北イスラ
エルの町々に差し向け、攻撃したので、北イスラエル軍は撤退していきました。アサは自
分の戦略が功を奏したことに、自分の有能さを誇ったのではないかと思います。
しかし7節です。予見者ハナニが遣わされ、神のことばが伝えられました。神のことば
を伝える者は、相手がだれであっても、それが王であっても、遠慮せずに、そのまま伝え
なければなりません。それが神に遣わされた者の役目です。王アサに対して、あなたはと
語りかけます。アラムの王に拠り頼み、あなたの神、主に拠り頼みませんでしたと、アサ
の信仰姿勢の現実を告げます。アラムにより頼んだ結果、アラムを支配下に置くことはで
きなくなったと言うのです。
そして8節。クシュとの戦いの時を思い起こすようにと招きます。100万の軍勢を前に
したとき、あなたが主に拠り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡し、大勝利をもたら
してくださいました。人に頼るのではなく、主に拠り頼む者を、主は祝福されるのです。
9節。主なる神はだれに、その御力を現されるのでしょう。それは、その心が主なる神
と全く一つになっている人々に対してです。主なる神を自分の主とあがめ、主である神の
ことばに聞き、そのことばに自分を合わせて歩もうとする人々、その信仰の一歩を踏み出
す者に対して、主なる神は御力を現されるということです。そしてハナニは、神のことば
を伝えます。あなたが愚かなことをしたので、これから、数々の戦いが起こるでしょう。
アサは錯覚していたのです。ここまで国の安定を築き上げてきたのは、自分の統治能力
によるものと錯覚したのです。自分ではなく、神の恵みと祝福であるのに、自分の力量に
よるものと勘違いしたということです。アサは心を神と一つにしてきました。そのことを
主なる神は喜び、賜物として国の安定を与えておられたのに、その事実を見失いました。
これは私たちも陥りやすい錯覚でもあります。私たちキリスト信仰者も、主なる神とと
もに歩み、主なる神のみわざに参与させていただき、主なる神がご自分のわざを私たちを
通してなさって、恵みと祝福を与えてくださっていたのに、それを、自分に力があり、能
力があって、その自分の力や頑張りで神に喜ばれ、主に祝福される歩みをしてきたと思い
込むのです。しかし、それは錯覚です。そのような錯覚の中で、私たちは自分の力量や体
験、知識に頼り、主なる神に頼らずに、助けを求めずに事に当たることがあるのです。
アサは百万の大軍に攻め込まれたとき、自分の軍事力では到底叶わないこと、近隣諸国
の助けを求めても、さほど頼りにならないと受けとめ、主なる神に助けを求めました。そ
うして主の助けを信じて、クシュの大軍との戦いに出ていったのです。主なる神がクシュ
の大軍を打ち破られたので、アサの軍勢は追撃して、分捕り物を持ち帰りました。
しかし北イスラエルの攻撃に対しては、主なる神に助けを求めなくても、人間的な判断
で十分対処できると考えたのでしょう。アラムとの同盟を結び、南北から挟み撃ちにする
ように北イスラエルに対戦すれば良いと。治世36年の経験がそうさせたと言えます。
私たちは気をつけましょう。相対的な評価で、自分は力の強い者であると思うとき、主
なる神に助けを求める必要を感じなくなる誘惑に陥ることがあります。自分の力で何とか
対処できると考え、自分の体験に頼り、培ってきた知恵を尽くして、人間的な対処をして
しまってはならないのです。それは神のみこころではありません。私たちは相対的な比較
をして、自分は力の強い者であると判断しても、力のない者であると判断しても、変わら
ずに主なる神に頼り、助けを求めることが大事です。それが主なる神の祝福と恵みに与る
秘訣です。神を頼らない、神を必要としない、そのあり方が、罪そのものです。
自分は力の強い者であると評価したなら、さらに主の御前で謙虚になりましょう。主を
頼ることに心を向けるのです。自分は力のない者であると評価したとき、諦めて、何もし
なくなってはなりません。その時も、主に頼り、助けを求めて、主とともに歩む一歩を踏
み出すのです。私たちを愛しておられる創造者である神は、私たちの状態や状況に関係な
く、助けを求める者を助け、力を与え、神に聞き従う歩みを得させてくださるのです。
高慢になってしまったアサは、実状を指摘した予見者ハナニに怒りを発し、牢獄につな
ぎました。神の御前に謙虚であったなら、その指摘を神からのものとして受け入れ、悔い
改めに進んだはずですが、高慢な者には通じないのです。まさに箴言に指摘されている通
りです。16章18節「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」
さらに12節。治世39年には、両足とも病気になります。それは非常に重い病気でした
が、それでも主に助けを求めることをしないで、医者を頼ったのです。主に頼ることをし
なくなったアサは、非常に重い病気であるゆえに、主に頼れなかったのかもしれません。
しかし主なる神は、アサがご自分に頼るものであることを望んでおられたので、この出来
事を記録に残されたのでしょう。私たちに対しても同じです。私たちが主なる神に頼り、
助けを求めることを待っておられるのです。そして適切な助けをお与えになります。
今週のみことばを確認しましょう。「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、
苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときこそ、私は強いからです。」
このパウロのことばを、私たちも心から同意して、自分の弱さのうちに完全に現れる神の
全能の力を体験したいのです。私たちキリスト信仰者は、全能の神の御前で、自分は力の
ない者であることを謙虚に見つめ、いつでも、主なる神に拠り頼み、助けを求めて、信仰
の歩みを続けたいのです。自分の悟りに頼るのではなく、心を尽くして主に拠り頼み、ど
のような状況の中にもおられる主を認め、自分は主とともに歩む者であると自覚し、神の
ことばに自分を合わせて、信仰の一歩を踏み出し続けるのです。
私が弱いときこそ、私は強いという霊的真理を体験し続けましょう。
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