私たちは日々の歩みの中で、どのようなときに喜びを感じているでしょうか。言い換え
るなら、どのようなときには喜びと感じられないでしょうか。今日私たちは、主イエスの
ことばから、何を喜ぶべきなのかを確認し、日々の信仰の歩みにおいて、主イエスが示さ
れた基準とは違う歩みをしているなら、それを正したいのです。
今日の箇所は、72人が喜んで帰ってきて、主イエスに報告したときの記述です。これら
72人とは誰で、何をしてきたのでしょうか。1節に記されています。別にとあります。彼
らは、12弟子とは違う、他の弟子たちであったということです。彼らは、主イエスの代理
として、主イエスが福音を宣べ伝えようと考えていた町や村に、主イエスの権威を受けて
遣わされた人々でした。
4節。彼らは、生活必需品を何も持たずに出かけました。行く先々で、主が守り、養っ
てくださるという信仰にたって出かけたのです。つまり宣教の中心は、働き手を送り出す
主ご自身であり、働き手の生活の必要はすべて主が用意しておられるということです。
2節。遣わされる弟子たちに、祈りの備えが命じられています。マタイの福音書には、
12弟子の派遣の記述がありますが、その時に、この72人の弟子派遣の時と同じ命令がな
されていました。マタイの福音書の文脈では、群衆が飼う者のいない羊のようであったと
描写されています。羊飼いがいなければ、羊を待っているのは死だけです。それほど人々
の霊的状態は飢え渇いていたのです。そして救いは主にあります。人間社会が絶望的な様
相を呈しているときこそ、人々は主なる神に、真の救いを求めることになるのです。そし
て主はその人々に救いを与えてくださいます。
2節。実りは多いのです。ただ働き手が足りません。だから働き手を送ってくださるよ
うに祈りなさいと命じられます。これは興味深い命令です。祈るようにと命じられた者た
ち自身が、福音を伝える者として遣わされていく人々です。働き手を送ってくださいとの
祈りは、他の誰かを働き手として送ってくださいという祈りから、私自身を整えて、収穫
のための働き手としてお用いくださいという祈りに変わるのです。福音が伝えられるとこ
ろに収穫があります。神のことばそのものにいのちがあるので、神のことばが語られると
ころに多くの実りがもたらされるからです。
弟子たちは祈り、そして整えられて、神の国の福音を伝えました。9節が、彼らが伝え
たメッセージです。神の国が近づいたとは、神の支配への招きです。弟子たちに委ねられ
たメッセージのことばを、神のことばとして受け入れる者は、神ご自身を受け入れる者、
つまり神の支配に自分を置く者たちになります。ここに救いがあります。真の救いは、人
があるべき状態に戻ることです。創造者である神から離れ、自分中心に生きる私たちが、
このあり方が罪であり、死んだ行ないの原因なのですが、自分中心の生き方を捨てて、神
中心の生き方、つまり神に聞き従う生き方に戻ること、これが救いです。その出発点が、
神のメッセージを受け入れること、神を神として認めることです。
17節。72人の弟子たちは喜んで帰ってきました。彼らの喜びは、悪霊どもをさえ従わ
せることができたという、驚くべき体験をしたことによります。彼らは自分たちの置かれ
ている状況をわきまえていました。主イエスの権威の下で働いたので、悪霊を従える権威
が与えられたのだという自覚を持っていました。そのような意味で高慢になっていたわけ
ではありません。しかしそれでもなお、彼らが喜んでいるのは、悪霊さえ従えることがで
きるという特別な力が与えられたということであり、もしそのような特別な力がなくなっ
たとするなら、彼らはその時点で、喜びをもなくすことになるのです。結局、彼らの喜び
は、彼らが喜べると思える状況だから喜んでいるということです。言い換えるなら、彼ら
が喜べると思える状況が得られなくなれば、喜ばなくなるということです。
主イエスの、弟子たちへの思いを想像してみましょう。これはまた、私たちが陥りやす
い間違いでもあります。彼らはイエスを主と崇め、自分がイエスの弟子とされたことを光
栄に思っています。これからもイエスに従い続けようと考えています。しかし彼らのイエ
スへの信仰は、自分中心の信仰の域を出ていないのです。表面的にはイエスを信じていま
す。イエスに従っています。しかしそれは、彼らが満足できる状況が与えられているから
であって、そのような、状況に望みを置いている信仰であるなら、状況が変わったなら、
イエスを主と崇めること、イエスに従うことを止める危険があるということです。
ヨハネの福音書で、主イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに語りました。「あなた
がたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です」と。自分に都合の良
い自己中心の信仰ではなく、主イエスに聞き従う、神中心の信仰でないなら、その信仰は
本物ではないと言われたのです。イエスを信じ、イエスに従うことで、迫害を受けること
になっても、なおイエスを主とあがめ、主イエスに従い続けるのか。悪霊を追い出せない
としても、なおイエスを主権者と崇めて、従うことをするのか。信仰が問われます。
もし彼らが、イエスを信じることができたこと、それ自体を喜んでいるのではなく、イ
エスを信じることによって与えられた状況を好ましいと思い、喜んでいるのなら、自分が
喜べると思える状況が与えられている限りの信仰であって、自分が喜べない状況に陥るな
らば、イエスを信じても仕方がないと判断し、信仰を捨てることになるのです。
さて、私たちの主イエスを信じる信仰を吟味しましょう。私たちの出発点も、自分中心
の信仰だったと言えます。イエスを信じたことで、好ましい、喜ばしい状況が与えられた
ので、イエスを信じて良かったと思い、信仰生活を始めた人も多いでしょう。当初はその
ような信仰が一般的と思います。私たちは基本的に、現世利益的な信仰を欲していたから
です。しかしそこに留まっていてはならないと教えられます。自分中心の信仰、人間中心
の信仰、現世利益の信仰ではなく、まことの神を神と信じることができたこと、それ自体
を喜び、神を中心に考える信仰へと正されていくようにと教えられているのです。
19~20節。私たちが喜ぶべきなのは、主イエスを信じたことによって与えられる、自分
が喜べると思える状況ではなくて、主イエスを信じることができたことそれ自体であり、
そして具体的には見えないし、確認することはできないのだけれど、主イエスを信じたこ
とによって与えられている、神のことばによる約束、神の国の住民台帳に登録されている
という事実、霊的実体を、大いに喜ぶべきであり、光栄と思うべきなのです。
その時私たちは、自分の置かれた状況に左右されない信仰を獲得することになります。
すべてを主なる神にお任せする信仰、すべての状況に主なる神の支配を確認する信仰、主
の最善がなされていることを確信する信仰に変えられ、整えられていくのです。自分に
とって好ましいとは思えない状況、人間的に喜べない状況に置かれたとしても、変わらず
に主にあって喜ぶ信仰生活を歩み続けるということです。
21節からの箇所には、神がイエスを人として遣わされたことを、幼子のように、素直に
受け入れることの幸いが告げられています。神のことばを神のことばとして受け入れる幸
いです。そして今、弟子たちはイエスを見、イエスから直接聞いています。神であられた
お方が人として、人間の目に見える存在として現れてくださり、そのお方を見ているとい
うこと、そのこと自体が、どれほど光栄に満ちたことなのかを、確認させようとしている
のです。旧約時代の信仰者たちは、そのことを切に望んでいたけれど、その望みが叶えら
れずにこの世を去っていきました。そのイエスを見ている弟子たちは光栄でした。
今私たちは、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活されたことを信じ、受け入れる
信仰、その幸いを得ています。私たちの名前が天に書き記されていることの保証は、主イ
エスの十字架の死と三日目の死者の中からの復活の事実にあります。いのちを捨てるほど
の愛で愛されていること、私たちのための最善を備えて、私たちを導いてくださること、
そのような恵みを受け取る特権が与えられていること、それ自体を喜び、状況に左右され
ない信仰を確かなものとしましょう。私たちが喜ぶべきことは、神のものとされているこ
と、永遠のいのちに生きていること、神と共に生きるていること、それ自体なのです。
その上で、主に自分を明け渡す信仰を身につけ、主に、主のみわざに用いられましょう。
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