今日私たちは、神のことばがはっきりと語られ、明確な約束のことばが示されているの
に、その神のことばを信じることができず、自分の人間的な知恵で事を行おうとする北イ
スラエル王国初代の王ヤロブアムを見て、「神の前での愚かさ」を確認します。
前回私たちは、ダビデ王朝三代目の王レハブアムを見ました。ヤロブアムを団長とする
イスラエルの民との団体交渉とその決裂の様子を確認したのです。決裂の背景には、レハ
ブアム王の高慢さがあり、長老たちの適切な助言を退ける、神の知恵に頼ることをしない
愚かさがあることを見ました。
主なる神は、レハブアムの、人間の知恵に頼る愚かさと、父ソロモンに倣って偶像礼拝
を続ける、主なる神に背く罪を前提にして、預言者を通して、ダビデ王朝を分裂させ、北
イスラエル王国を樹立させ、ヤロブアムをその王として立てることを伝えるのです。
このことが、先ほど交読した11章に記されています。29節。主なる神は預言者アヒヤを
遣わします。31節。主なる神がヤロブアムを選び、彼に10部族を委ね、新しい王国の王と
することを伝えました。37節。
そして38節。祝福の約束を与えます。ただし条件がつけられます。主なる神が恵みや祝
福を与える約束は無条件ではありません。神さまが提示された条件に応じることで、その
約束は実現するのです。条件は明確です。神が命じられることに聞き従うこと、神の道に
歩むこと、ダビデのように神が定めた掟と命令を守って、神の目にかなうことを行うこと
です。そうするなら、主なる神はヤロブアムとともにいて、ダビデのために家を建てたよ
うに、確かな家をヤロブアムのために建て、イスラエルを与えると約束したのです。
さて、今日の箇所を見ましょう。12章26~27節。ここにヤロブアムが抱いた懸念あり
ます。主なる神のご主権と予告のとおりに、イスラエルの人々は自分を王としたけれど、
エルサレムにある神の神殿でいけにえを献げ続けるなら、いつしか民の心はレハブアムの
もとに帰ることになる。そうしたなら、自分は殺されるだろうと。その判断の下、偶像を
造ることで、民の心がレハブアムに向かわないようにするのです。
主なる神と、その神の約束のことばを信頼できない者の現実がここにあります。不安と
心配で心が覆われ、主なる神を仰ぐことをせず、神のことばを生きようとする思いが奪わ
れるのです。私たちはどうでしょうか。神のことばに信頼して、神のことばを歩む一歩を
踏み出しているでしょうか。それとも神のことばはそう言っているけれど、信頼できずに
自分の考えや、人間的な常識を選び取るでしょうか。信仰が問われています。日々の信仰
の歩みは、神のことばに自分を合わせ、それに従う一歩を踏み出すことを選ぶべきです。
決して、もっともらしい、人間の知恵や常識に引きずられてはなりません。
ヤロブアムは神に信頼すること、神のことばを選び取ること、神のことばを生きること
をしませんでした。主なる神のご主権でイスラエルの王として立てられたのに、その神を
自分の神としなかったのです。
28節。ヤロブアムは対策を練ります。金の子牛を二つ造り、言ました。「ここに、あな
たをエジプトから連れ上った、あなたの神々がおられる」と。
この記述を見て、私たちは、出エジプト時の民の背信行為を思い起こします。イスラエ
ルと主なる神との間に契約が結ばれました。主なる神のことば、神が定める律法を守り行
うことを表明して、イスラエルは神の民となり、神はイスラエルの神となるという契約が
結ばれたのです。そうしてモーセは40日間、神の山ホレブに登り、主の民として歩むため
の掟を、主なる神から授けられていました。しかし32章。モーセがなかなか戻って来ない
のにしびれを切らした民がアロンに、偶像の神を造らせたのです。「さあ、われわれに先
立っていく神々を、われわれのために造ってほしい。われわれをエジプトの地から導き
上った、あのモーセという者がどうなったのか、分からないから」と
そうしてアロンは金の子牛を造りました。その時民は言います。「イスラエルよ。これ
があなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ」と。彼らは、主なる神が自分
たちを、エジプトの奴隷状態から救い出してくださったと理解してはいました。しかし神
の定めに心から従うという自覚と決意は薄かったのです。主なる神ははっきりと禁じてお
られます。「あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下
の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならな
い。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない」と。
しかし彼らは、生けるまことの神、目で見ることはできない、霊である神を、見える形
で現すために金の子牛を造りました。見えない神を信じることに不安を感じるかもしれま
せん。見える形でないと神と仰ぐことができないというのでしょうか。私たちも気をつけ
なければなりません。パウロはローマ人への手紙で次のように書き送りました。「神につ
いて知りうることは、彼らの間で明らかです。神が彼らに明らかにされたのです。神の、
目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を
通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません」と。
私たちは神の創造のわざを見て、創造者である神を知ることができます。宇宙も、地球
も、その中にあるすべてのもの、私たちの身体を含め生命の神秘も、それらのすべてを謙
虚に見つめるなら、そこに創造者である神がおられることを認めることができるのです。
これらすべてのものが、偶然の産物であるとする方が、荒唐無稽な考えであると思うので
すが、この世の知者や学者は、その荒唐無稽な考え方を一所懸命に研究し、学説を作り上
げ、発表することで、推し進めています。これらはサタンの策略です。しかしそれは、前
提が間違っているので、真理に到達することはできないのです。
パウロは続けて書き送ります。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、
感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」そうし
て続けます。「彼らは、自分たちは知者である主張しながら愚かになり、朽ちない神の栄
光を、朽ちる人間や、鳥、獣、這うものに似たかたちと替えてしまいました。」人々は偶
像を造り、見えない神を、見える形に現すことで、自分たちの管理下に置くのです。
神の民とされたイスラエルですが、彼らは、主なる神、救いを与えてくださった神への
礼拝を、偶像礼拝に貶めてしまいました。口では、エジプトから救い出してくださった
神々だとしていても、実際には神のことばを退けて、自分たちの思い通りになる神を造り
上げたのです。霊的な愚かさ、そして罪がここにあります。神を中心にするのではなく、
自分を中心に考え、自分を満足させる罪の現れです。
私たちも同様なことを行っていないかを吟味する必要があります。もし自己中心の信仰
生活になっているなら、早急に改めなければなりません。私たちは、神の一方的な恵みに
よって罪から救い出されました。主イエス・キリストの十字架は、私たちの身代わりの処
罰であるとの神のことばに同意して、罪の赦しを求め、主イエスを信じ、罪から救われた
者たちです。そのような私たちであることを自覚し、神を中心とする信仰生活を選び取る
ことが重要です。救われたのだから、救いを生きるということです。神のことばに同意し
て、神のことばに合わせて生きる一歩を踏み出す信仰生活を身につけるのです。
列王記に戻りましょう。ヤロブアムは、この出エジプト時の罪を持ち出しました。創造
者である神を自分の神としないことが、危機的な状況を想定して、人間的な知恵での回避
に進ませました。北イスラエル王国の民が、見えない神を礼拝するために、神が礼拝の場
所として定めたエルサレムの神殿に行き続けるなら、南ユダ王国の王レハブアムを自分の
王とするのではないか、そうして自分を殺そうとするのではないかと恐れたのです。
主なる神は明確に守りと祝福を約束されているのに。「わたしが命じるすべてのことに
あなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしの
掟と命令を守って、わたしの目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにいて、
わたしがダビデのために建てたように、確かな家をあなたのために建て、イスラエルをあ
なたに与える。」なぜヤロブアムは、この神の約束に頼らなかったのでしょうか。なぜ神
を信頼し、神のことばを信じて、従うことをしなかったのでしょうか。その結果、人間的
な知恵で、想定される危機的状況を思い浮かべ、それを回避するための方策を進めていっ
たのです。神のことばを信じない、主なる神を自分の神としない、信頼しないことから生
じてくる、当然の帰結と言えます。
そして人間の知恵に頼り、神のことばを退けたことにより、ヤロブアム王国は4代で消
滅することになるのです。しかも北イスラエル王国は、たえず偶像礼拝をする国となり、
真実な悔い改めが起こることはなく、アッシリア帝国によって滅ぼされるのです。ヤロブ
アムが神を自分の神とし、神のことばに歩んでいたなら、北イスラエル王国はどのような
祝福に満たされ、神に用いられたのかと思わされます。
今週のみことばを確認しましょう。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼
るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐ
にされる。」私たちは主イエス・キリストを信じて、罪の赦しを受け、神の子ども
とされました。永遠のいのちを生きる者とされています。救いに与った私たちです
から、救いを生きる者とされたのだから、しっかりと救いを生きる一歩一歩を踏
み出し続けたいのです。人間中心に事を計って右往左往するのではなく、神のこと
ばを聞き、主なる神を信頼して、神のことばを自分の人生の土台に据えて、どんな
状況にも揺るがされない人生を生きるのです。
主に拠り頼むことに、心を尽くす。自分の悟りに頼ることは止める。行く道すべ
てに主なる神がおられることを認めて、どのような状況に置かれても、その直中に
私の神、あなたの神がおられて、私たちの歩みを導き、最善と祝福の道へと切り
開いてくださいます。主に頼って、喜びと感謝、希望と平安の日々を歩もうではあ
りませんか。
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