パウロによる第3次伝道旅行も終わりに近づいてきました。エペソでの3年にわたる福
音宣教を終えて、パウロはエルサレムへと向かいます。パウロの計画は16節にあるよう
に、五旬節、ペンテコステの日には、エルサレムに着いていたいということでした。
20章1~2節。ただその前にギリシア、つまりアカイア地方の、アテネ、コリントなど
の聖徒たちへの訪問、特にコリントの聖徒たちを訪問するのです。それはコリントの教会
が抱えている様々な問題への解決を促すための手紙を書き送ったのですが(コリント人へ
の手紙第一)、その後の教会の様子を確認したいということです。
コリント人への手紙第二の2章12~13節に「私がキリストの福音を伝えるためにトロア
スに行ったとき、主は私のための門を開いておられましたが、私は、兄弟テトスに会えな
かったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに
向けて出発しました」とあります。これが使徒の働き20章1節のことです。エペソからト
ロアスに向かい、コリントに派遣していたテトスの戻りが遅くなったので、マケドニアに
向かったのです。どれほどの期間滞在したのかは分かりませんが、マケドニアで、ピリピ
かテサロニケかベレアのどこかで、第二の手紙を書き送っています。それはマケドニアで
テトスと会い、コリントの教会の様子を聞くことができたからです。7章5~6節。
使徒の働き20章3節。その後パウロはコリントに三か月滞在します。この間に、ローマ
人への手紙を書き送っています。その後シリアに向けて船出しようとしたけれど、ユダヤ
人たちの陰謀が分かり、陸路で帰ることにしたということです。
6節。マケドニアからエーゲ海を渡って、トルコ半島のトロアスに着き、七日間滞在し
た時の出来事が今日の箇所です。5節から「私たち」と主語が変わりますから、ルカが合
流したことが分かります。
7節。週の初めの日すなわち日曜日に集会を持つようになっていました。当時、日曜日
は休みではありませんので、日中は仕事をし、夜に集まりを持っていたということです。
主イエスの復活を記念して集まり、礼拝を献げることが定例になっていたことが分かりま
す。それでパウロは、土曜安息日にではなく、日曜日の夜の集会で、みことばと語ること
にしたのです。翌日に出発するので、夜中まで語り続けました。初代教会の聖徒たちの熱
心さが伝わってきます。様々な圧迫や困難の中、集まることを止めないで、主への礼拝を
献げ、互いに信仰を励まし合っていたと考えられます。
パウロはできるだけ多くのみことばを伝えたかったし、聖徒たちも、できるだけ多くの
みことばを聞きたかったので、明け方近くまで集会は続きました。しかし日中働いての夜
の集会です。睡魔が襲います。睡魔と戦いながら、一所懸命に聞こうとします。しかしつ
いに、睡魔に引き込まれてしまった会衆もいたはずです。その一人が青年ユテコです。
9節。眠気が襲ってきている時には、安全な場所に移ることが必要ですね。私たちも睡
魔に襲われた時には、眠りこけても、周りに迷惑にならないように、物を落とすとか、鼾
をかくなどしないように、注意しましょう。絶対に窓辺に腰掛けてはなりません。
しかしユテコは窓辺に腰を掛けていました。滅多にない機会であり、真剣に聞こうとし
て相当の人が集まっていただろうと想像します。パウロの話が長くなるうちに、ユテコは
眠りこけてしまい、ついに三階から落ちます。会場の混乱はいかばかりであったかと想像
します。気づいた人たちは、すぐに様子を見に行ったでしょう。そして死を確認します。
深い悲しみと相当の動揺が拡がっていったことでしょう。医者のルカが死亡の確認をした
と思われます。ユテコは残念ながら絶命していました。
10節。パウロもすぐに降りて行きます。そして抱きかかえて祈るのです。ここには祈っ
たとは記されていませんが、神のあわれみを求めて、いのちを返してくださいと祈ったこ
とは想像できます。そうしてユテコにいのちが返されたことを確認して、会衆を安心させ
ました。心配することはない。まだいのちがありますと。
11節。神さまのあわれみの御手が伸ばされました。貴重な会合、貴重な時間を、主なる
神は祝福し、恵みとあわれみをもって導いておられることが分かります。パウロは何事も
なかったように、パンを裂いて食べ、つまり聖餐式を行って、主イエスの十字架の死によ
る罪の赦しを確認し、罪からの救いを生きる自覚を促したのです。
明け方まで長く語り合ったとありますから、パウロが一方的にみことばを語り、会衆が
みことばを聞くという集会で終わるのではなく、恵みを分かち合ったり、質問をし、それ
に答えたりと、主にある霊的な交わりをし、信仰を確認し合いながら、時を過ごしたとい
うことです。喜びと感謝に満たされ、主の恵みと祝福を味わい直して、新たな週を、主と
ともに、主にあって、主のために歩む歩みを確認したのだと考えられます。
12節。トロアスの聖徒たちは、ひとかたならず慰められたとあります。主のあわれみは
尽きないからだとあります。主の恵みは朝ごとに新しいとあるとおりです。
私たちは今日の箇所から、週の初めの日の礼拝、会合について確認します。初代教会が
毎週夜を徹しての集まりをしてはいないと思いますが、彼らは、救われた喜びを味わいな
がら、週の初めの日に、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをする
ようになっていたということです。一日の労働を終え、疲れを引きずりながらも、一つ所
に集まり、主への礼拝を献げる、その毎週の姿、様子を窺い知ることができます。
初代教会のキリスト信仰者たちは、ユダヤ人も、異邦人も、ともどもに、休日ではない
日曜日に、一日のそれぞれの働きを終えた後に、集まっていました。なぜでしょうか。特
にユダヤ人たちは、土曜安息日にではなく、週の初めの日、日曜日に集まりを持ち、神へ
の礼拝を献げることに、どうして変わったのでしょうか。ユダヤ人にとっては、安息日律
法に背くことは、肉的に考えると、相当抵抗があったと言えます。骨の髄まで安息日律法
に縛られており、安息日を守らないことへののろいの恐れも相当あったと思われます。
しかし彼ら、ユダヤ人キリスト者たちは、安息日に神への礼拝を献げることから、日曜
日に礼拝を献げることへと変えていきました。それは旧約の律法から解放され、新約に生
きる者とされたからです。古い契約は、神が定めた律法、神のことばに従うことで神の民
とされるという契約です。しかし新しい契約は、神が遣わされた神の子、キリストを信じ
ることで、神の子どもとされるという、全く新しい契約として提示されたのです。
主イエス・キリストが十字架で死なれたこと、それは全人類の罪の身代わりの処罰を受
けたことであり、そうして罪の赦しが差し出されました。十字架で処刑されたナザレのイ
エスを神の子、救い主と仰ぎ、十字架の身代わりの死と復活を信じる信仰によって罪の赦
しを受け取ることで、神との新しい契約が成立し、神の子どもとされる特権に与ることに
なるのです。古い契約は破棄されました。律法を守る義務はなくなったのです。
キリスト信仰者となったユダヤ人たちは、安息日律法から解放されました。そうして主
イエスの十字架の死と復活とを覚えて、主イエスの復活の日に集まり、礼拝を献げること
へと変わっていったのです。キリスト信仰者が立つべき信仰の基盤は十字架と復活にあり
ます。主イエスの復活の事実が信仰生活の土台となったのです。
だからキリスト信仰者たちは、主の復活を記念して、週の初めの日、日曜日に集まりを
持ち、主への礼拝を献げ、十字架の死と復活による罪の赦しと罪からの救いに与ったこと
を証していたのです。
コリント人への手紙第一16章2節。「私がそちらに行ってから献金を集めることがない
ように、あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手
もとに蓄えておきなさい」とパウロは聖徒たちに勧めました。この手紙はエペソで3年に
及ぶ福音宣教の滞在終盤に書かれたものです。初代教会は週の初めの日、日曜日に集まり
を持っていたこと、礼拝を献げていたことが分かります。いつも、とあります。キリスト
信仰者たちは、ユダヤ人も、主への礼拝を、日曜日に献げていたのです。
今も、安息日礼拝を献げる人たちがいますが、彼らは古い契約に縛られているというこ
とです。新しい契約では、主イエスが大祭司として、私たちのために執り成してくださっ
ています。祭司と律法についてはヘブル人への手紙で説明されています。7章11節。古い
契約では、レビ族の祭司職に基づいて律法を与えられました。新しい契約では、アロンに
倣ってではなく、メルキゼデクに倣ってと言われる、別の祭司、主イエスが立てられまし
た。12節。祭司職が変わったので、律法も変わったのです。9章1節。古い契約における
礼拝の規定について説明され、11節、新しい契約における礼拝の規定が述べられています。
15節。キリストは新しい契約の仲介者であり、大祭司として、神の右の座で、私たちの
ために執り成しておられます。古い契約は新しい契約に取り換えられました。安息日律法
は無効となり、礼拝の規定も変えられたのです。主イエスの復活によって、十字架の身代
わりの死による罪の赦しと罪からの救いは完全に有効となりました。主イエスを信じ、十
字架の贖いを自分のためであると受け入れる者は、罪が赦され、神の子どもとされ、永遠
のいのちに生きる者とされたのです。だから初代教会は、ユダヤ人キリスト信仰者を含め
て安息日に集まることを止め、週の初めの日、日曜日に集まり、主の復活を記念し、救い
を喜び、感謝して、聖餐式を行い、主への礼拝を献げていたのです。
私たち主イエスを信じる者たちは、日曜日が休日にされた今、この日に集まり、主の復
活を記念し、救いの喜びを味わい、喜んで主と主の教会に仕える者とされています。日曜
日の休日は、彼らキリスト信仰者たちが、一日の仕事を終えて、主への礼拝を献げるため
に集まっていた、その積み重ねの中で、与えられた賜物なのです。
私たちも、初代教会のキリスト信仰者たちに倣って、日曜日の休みを、自分を喜ばすた
めに使うのではなく、救いを喜び、感謝して、主への礼拝を献げるために集まり、かしら
であるキリストにしっかりと結びつき、キリストのからだである教会が愛のうちに建てら
れるために、からだの器官である私たちが、互いに組み合わされ、つなぎ合わされ、それ
ぞれの部分がその分に応じて働くことを追い求めて、霊的成長を目指すのです。
まずは神の家族が一堂に集まって、父なる神への礼拝を献げることを、最重要課題とし
て取り組みましょう。主イエスの十字架と復活を喜び、感謝して、聖霊に導かれつつ、日
曜日の教会生活、礼拝生活を最優先にする信仰生活を身につけていきましょう。そのよう
な信仰生活をするキリスト信仰者を、主は豊かな恵みと祝福で満たしてくださるのです。
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