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2023年10月8日 礼拝「愚か者、知恵のある者」列王記Ⅰ12:1~11

 みなさまは愚か者と言われたいですか。知恵のある者と言われたいですか。私たちはみ

な、愚か者とは言われたくはないでしょう。知恵のある者と言われたいと思うのですがい

かがでしょうか。キリスト信仰者となり、神の子どもとされた私たちは、なおさら、父な

る神から、主イエス・キリストから知恵のある者と言われたいと願うのです。

 さて、主なる神は、どのような人を愚か者と見なし、どのような人を知恵のある者と見

なすのでしょうか。今日私たちはダビデ王朝3代目の王を見ます。この王について客観視

すると、愚かだなと思うのですが、自分が当事者になると、多くの人は同じような過ちに

陥ってしまうのではないでしょうか。私たちは高慢を退け、謙虚を身につけるべきです。

 聖書に次のようなことばがあります。詩篇14篇1節。愚か者は心の中で「神はいない」と

言う。彼らは腐っていて、忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。

 創造者である、生けるまことの神を知らない、認めない、知ろうとしない者を、愚か者

と言うのです。人間社会の中で、どれほど知識に富み、知恵のある者と評価されていて

も、「神はいない」とまことの神の存在を否定する者を、神は、愚か者と呼ぶのです。

 それに対して、まことの神を知り、自分の神として正しく畏れる者は、知恵のある者と

呼ばれます。礼拝招詞で神の語りかけを聞きました。「主を恐れることは知恵の初め、聖

なる方を知ることは悟ることである」と。創造者であるまことの神を自分の神とする者は

神ご自身から様々な知識を教えられ、豊かに知恵をいただくことができます。

 ソロモンの死後レハブアムが王となりました。その時ソロモンの家来であったヤロブア

ムがエジプトから呼び戻され、レハブアム王との集団交渉に当たったのが今日の出来事で

す。ヤロブアムについては、11章26節からに説明があります。

 ソロモンは神からの豊かな知恵を与えられ、その知恵を用いてすばらしい国造りをした

けれど、真の意味で主なる神を恐れてはいませんでした。与えられた知恵を人間中心に

使ったのです。残念ですが、ソロモンは心の中で「神はいない」と言っていたということ

です。ソロモンは周辺諸国との和平のために、諸国の王女たちとも結婚する方策をとりま

した。そうして多くの外国の妻たちが持ち込んできた神々を礼拝する、偶像礼拝者となる

のです。主なる神はソロモンに対して二度警告されています。11章9~11節。

 ソロモンは、物質的な繁栄が続いていることは、主なる神が自分を認め、祝福しておら

れるからだと錯覚していたのです。偶像礼拝をやめなくても、背信の罪を犯していても、

主なる神は守り続けてくださるとの思いに陥っていたのでしょう。しかし背信を続け、偶

像礼拝をやめないソロモンを、なおも支えておられたのは、ソロモンを認めていたからで

はなく、父ダビデへの約束のゆえであり、ダビデに免じてのことなのです。そのことは

はっきりと語られています。11章12~13節。しかしソロモンは悔い改めませんでした。

神よりも妻たちを大事にしたのです。

 これが愚か者の実態です。心の中で、自分の神として主なる神を仰いではいない、人間

的な知恵は抱負であり、知識にも長けているけれど、主なる神のさばきが進められている

にもかかわらず、なおも悔い改めることをしない、そのようなソロモンは、まさに愚か者

そのものであったと言えるのです。

 先ほど交読した箇所に記されていたあの金持ちも同じです。物質的に祝福されているの

だから、自分は神に認められていると思い込み、自分の好き勝手な生活についても、自己

正当化します。主なる神に委ねられた富だからと、主なる神を愛し、隣人を愛するために

使おうとは考えず、自分を喜ばせることにだけ使おうとするその心の中で「神はいない」

と言っている結果なのです。自分は祝福されている。自分は守られている。だから何を

やっても、神に罰せられることはない。この富は神に祝されている証拠なのだと、自分で

自分に言い聞かせ、自己正当化し続けるのです。

 しかし主イエスは、神のことばを紹介されます。「愚か者。おまえのたましいは、今夜

おまえから取り去られる」と。主なる神が罰することを先延ばししないと決めたなら、私

たちへの救いの招き、悔い改めへの招きは終わります。神の前に富むことを知らないこの

金持ち、主なる神が委ねておられる物質的な祝福を、神のために、そのご用のために活用

しようしないこの金持ちは、口先では神の祝福と語っても、心の中では、主なる神を自分

の神とすることを拒絶していることは明白でした。そしてさばきは行われたのです。

 主なる神を信頼できない、主なる神を恐れることを知らない、愚かなレハブアム王は、

ヤロブアムを団長として集団で陳情に来たイスラエルの民に対して、虚勢を張り、高圧的

な態度で、彼らの願いを拒否し、さらに厳しく押さえつけると宣言したのです。これはソ

ロモンに仕えていた長老たちが進言した助言とは正反対のことでした。

 7節。長老たちはレハブアムに進言しました。王である「あなたが、この民のしもべと

なって彼らに仕え、彼らに答えて親切なことばをかけてやるなら、彼らはいつまでも、あ

なたのしもべとなるでしょう」。これは、主イエスが語られたことばに通じます。ルカ22

章26節。主イエスは、だれが一番偉いかと議論しあっている弟子たちに向かって、「しか

し、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若

い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようでありなさい」と。

 主なる神のことばは、この世の価値基準とは異なります。仕える者のようにして治める

というのは、人間的には難しいことでしょう。しかし主なる神が支配する領域において、

つまり治める立場にある者が、仕える者のようになる時に、そこに真の秩序が生まれ、平

和的な統治が生み出されるのです。主なる神が全能の力をもって統治されるからです。し

かし、治める者が仕える者の立場を取るなどというのは、主なる神をあがめない、この世

の考えには出て来ません。だから力で押さえ込むのです。

 レハブアムは周辺の王たちのように、王としての権威を振りかざし、脅しをかけて、従

順にならせようとしました。しかしそれが裏目に出ます。ソロモンの統治時代に、重い税

をかけられ疲弊していた民衆が、その軽減を嘆願しに来たのですから、自分たちの願いが

聞き入れられないと分かった時点で、ユダ部族以外の部族は、レハブアムに対して反旗を

翻すのです。こうしてイスラエル王国は南北に分裂しました。

 今週のみことば。箴言12章15節。「愚か者には自分の歩みがまっすぐに見える。しか

し、知恵のある者は忠告を聞き入れる。」愚か者の特徴は、与えられた権力や能力の中で

考え、立てた計画や政策は大丈夫だと過信することです。能力を超えることに関しては謙

虚になることができても、自分の能力の範囲内では、自分に間違いないと過信します。そ

うして、自分の手に負えない状態に襲われる時に、想定外であったとして慌てふためき、

もはや修復が見込めなくなるのです。列王記第一12章16節以降に記されているように、団

体交渉は決裂し、イスラエルの民はレハブアムを王とは認めずに離れていきました。

 レハブアムはそのような民たちを引き留めようとして役務長官のアドラムを遣わすけれ

ど、アドラムは石で打ち殺されてしまいます。ようやくレハブアムはただ事ではないと分

かり、エルサレムに逃げ出すのです。18節。

 長老たちは神の支配下にある国の成り立ちを知っていました。神のみ思いは、治める立

場にある者は仕える者となって国を治めていく時に、主なる神の祝福と守りとを豊かに受

け、国の秩序は保たれるということを知っていたのです。しかしレハブアムは愚か者でし

た。長老たちの助言に納得しなかったのでしょう。せっかく王という権威を受け継いだの

だから、しもべになどなりたくないと、その助言を嫌悪したのかもしれません。そうして

自分と同じ思いを共有する若者たちに相談したわけです。若者たちも権威、権力をひけら

かしたかったのでしょう。レハブアムの思いを代弁するのです。

 知恵のある者は忠告を聞き入れるのです。長老たちは、主なる神とソロモンとの関わり

も知っていました。そうしてレハブアムに対して、主なる神を恐れ、主なる神に信頼する

ことで、国を治める態度を進言したのでしょう。しかしレハブアムはその助言を退けまし

た。そうしてソロモンの王政を引き継いで、偶像礼拝をも続けるのです。

 さて、私たちの信仰生活を省みましょう。主なる神に、愚か者と言われるような信仰生

活を送ってはいないでしょうか。もしそのような信仰生活であるなら、すぐに悔い改める

必要があります。そうして父なる神に、知恵のある者だと言われる者となりましょう。表

面的にはそれなりの信仰生活を送っているように見えても、心の中で、神はいないと言っ

ているような信仰生活になっているなら、早急に悔い改めるべきです。主なる神は豊かに

赦してくださり、喜んで恵みと祝福に満たしてくださいます。私たちキリスト信仰者は、

神の御前で、知恵のある者としての信仰生活を、一歩、一歩、進めるのです。

 礼拝招詞のことば。「主を恐れることは知恵の初めである」。主なる神を神として崇

め、自分の主として歩む時、主からの知恵をいただくことになります。知恵とは、知識で

あれ、能力であれ、委ねられているもの、持っているものを宝の持ち腐れにしないで、上

手に活用させます。だから主なる神に知恵を求めるのです。私たちの父となられた神は、

私たちが知恵を求める時、私たちの求めに応じて、惜しむことなく、とがめることなく、

豊かに神の知恵を与えて、満たしてくださる方です。

 主を恐れて、主なる神を自分の神として生きる私たちでありましょう。「知恵のある者

は忠告を聞き入れる」とあります。真に人々を潤す祝福の器として整えられ、用いられる

私たちとなりましょう。主を恐れて、みことばに教えられて、知恵を豊かにいただく信仰

生活を高めていくのです。一歩一歩、みことばに養われることが大事です。




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