私たちは9月まで、14回にわたって、主イエスが十字架前夜に、弟子たちに語りかけら
れたことばと祈りを見てきました。今日からはルカが記した十字架への道を確認します。
9章51節でルカは、天に上げられる日が近づいて来たころのことであったと記し、イエス
は御顔をエルサレムに向け、毅然として進んで行かれたと記します。この9章51節から19
章27節までが、ルカが独自に記録した箇所であり、それを毎月少しずつ読み進めます。
今日私たちは、主の弟子として歩むと題して、ここに出て来る4種類の弟子のふるまい
と主イエスのことばを見ます。そうして私たちが、キリスト信仰者として、主イエスの弟
子にふさわしく整えられていく、そのための信仰姿勢を身につけたいのです。
52節。主イエスはエルサレムへ急いでいたので、サマリアを通ることにしました。サマ
リヤ人とは、北イスラエル王国がアッシリア帝国によって滅ぼされた際に、帝国の他の地
域から連れて来られた人たちと北イスラエルの残りの民との混血の人々の子孫です。その
ようなサマリヤ人を、ユダヤ人は見下し、付き合いをしませんでした。ユダヤ人は、ガリ
ラヤとユダヤの行き来を、サマリヤ地方を避け、ヨルダン川東側を通ってしたのです。
ヨハネの福音書4章の箇所で、主イエスは一人のサマリヤ人の女性に福音を知らせ、救
いに導くために、サマリヤ地方を通りました。その時には、その女性の証しを通して、多
くのサマリヤの人々が主イエスから直接話を聞き、そして信じたのです。主イエスと弟子
たちは、サマリヤに二日ほど滞在されたことが記されています。
52節に記された、ご自分の前に使いを送り出されたとありますが、もしかしたらヤコブ
とヨハネが使いに出されたのかもしれません。彼らは主イエスのサマリヤ宣教が豊かな実
を結ぶようにと期待して、一所懸命準備をしたものと考えられます。
53節。しかしこの時主イエスは、十字架で死ぬという使命で、エルサレムに急いでいま
した。つまりサマリヤは、ただ単に通過するための宿泊場所と考えていたのでしょう。そ
のような状況で、サマリヤ人はイエスを受け入れなかったということです。
54節。その状況に、ヤコブとヨハネの兄弟が憤りを覚えます。そして主イエスに訴える
のです。もしかしたら、自分たちが精魂込めて準備したので、主イエスの福音宣教が豊か
な実を結ぶことにあると期待していたのかもしれません。しかし結果は、何の実も結ぶこ
とはありませんでした。彼らの準備は無駄に終わったように感じたのかもしれません。
そうして主イエスに許可を求めました。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼし
ましょうかと。何ともすごいことばですが、ヤコブとヨハネにしてみれば、そのような報
いを受けても当然だと考えたわけです。主イエスを信じる機会を備えたのに、信じれば救
いに与ることができるのに、拒むことの恐ろしさを知らしめようとしたと言えます。
しかし53節。主イエスは二人を叱るのです。私たちも、ヤコブとヨハネと同じような意
識を持つことがあります。特に一所懸命に準備をした時ほど、その結果が思わしくないと
憤りや失望で、意気消沈するかもしれません。ここで私たちは自己吟味をしたいのです。
主のみわざを自分のわざに貶めていないかとの吟味です。自分が一所懸命に準備して、事
を行うことは大切であり、すべきです。誠実に、忠実に、主に仕える思いで準備をし、事
を行うことは、主の恵みと祝福に与ります。しかしそれが、自分のわざにしてしまうと、
思い通りに事が進まない時に、怒りや憤りが沸き起こり、過剰な報復へと引きずられるこ
とになるのです。私たちが主に仕えるのは、主のみわざを行うためではなく、主が私たち
を用いて、ご自分のみわざを行われる器となるためです。これを間違うと、ヤコブとヨハ
ネのように、主に叱責される行動を起こすことになりかねません。
主イエスを受け入れる者は救われるが、拒む者は滅ぼされて当然です。罪の報酬は死で
あり、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちだからです。ヤコブ
とヨハネは、主イエスを受け入れないサマリヤの人たちに対して怒りを覚え、滅ぼすこと
の許可を得ようとしました。しかしこれは、主のみこころではありません。主なる神がそ
の人に、地上生涯を与えている限りおいて、その人への救いへの招きが閉ざされることは
ありません。その人の肉体の命が保たれている限り、人が滅ぼしてはならないのです。
私たちキリスト信仰者は主の弟子として、自分の思い通りに事が進むことを欲するので
はなく、主のみわざが推し進められていることを確認し、主なる神が、私たちを用いて、
ご自分のみわざを行っておられることを求め、それを喜ぶ者となりたいのです。
57節から、3人の人と主イエスとの関わりが記されています。57節と61節の人は、自
分から主イエスについて行く、従いますと、彼らの信仰の表明をしました。59節の人に
は、主イエスが、わたしに従って来なさいと招きました。その3人との関わりの中で、主
イエスはそれぞれ異なることばを語っておられます。
57~58節。この人は主イエスに自分の決断を告げます。あなたがどこに行かれても、私
はついて行きます。素晴らしい信仰告白です。しかし主イエスは彼の真意に向き合わせる
のです。狐にも住処とする穴があり、空の鳥にも巣があるけれど、自分には枕するところ
もないけれど、その覚悟はあるのかと。主イエスと一緒なら安全だ、安心だと考えている
なら、それは見当違いであると告げ、その覚悟をもって、ついて来るようにと促したので
す。その覚悟がないなら、軽々しく、ついて行きますなどと言ってはなりません。主イエ
スの進む道は、困難であり、迫害であり、危険です。世の人々、主なるまことの神を求め
ない人々の間で、主イエスを信じて、主イエスとともに歩む者も、迫害と危険にさらされ
ることがあるからです。その覚悟をもって、ついて来るようにと促したのです。
59~60節。主イエスが、わたしについて来なさいと招きました。しかし彼は、父の葬
りを優先させたのです。私たちが父母、兄弟などの葬り、その他の関わりを大事にするの
は大切です。創造者である神は、あなたの父と母を敬えと命じておられるからです。
しかし主イエスが、すぐに従って来なさいと命じられたなら、主イエスの招きを優先す
ることが、弟子として求められている態度です。そのような危急の主のみわざに参与する
ようにと招かれた時には、何を差し置いても、主に従うことが大事です。私たちが日々み
ことばに触れ、祈りをする中で、そのような、主から招きを覚えることがあります。その
時に、すぐに従えるように、心備えをしておくことが弟子としての態度です。
61~62節。3人目の人は、主イエスに対して、あなたに従いますが、まず、自分の家の
者たちに、別れを告げることを許してくださいとお願いします。これの何が悪いのかと、
私たちは考えてしまいます。この要望は当然だろうと。しかし主イエスは、神の国にふさ
わしくないと断言されました。
鋤に手をかけてから後ろを見ると言われました。鋤は農業用具であり、土を深く掘り返
す時に使うものですが、主イエスの時代には、牛などの家畜に引かせて地面を耕していま
した。鋤は柄の先に土に突き刺すまっすぐな板状の金具がついています。ですからちゃん
と前を見ていないと、まっすぐに地面を掘り起こすことができなく、畝は曲がってしまう
のです。ですから鋤に手をかけたなら、目標を決めて目を定めておくことが大事です。
主イエスに従うと言いながら、家の者たちに別れを告げるような行動は、神の国にふさ
わしくないと言われます。主イエスに従うことを決めたのなら、主イエスに従うことを最
優先にする優先順位を身につけるようにと招かれたのです。特にこの文脈では、主イエス
とともにエルサレムに行くという危急の時であり、そのままいのちを奪われることになる
かもしれません。後ろを見ている余裕はないということです。
これら3人は、主イエスについていく、従うと、この世での良い報いがあると期待した
のかもしれません。これまではそうだったのでしょう。しかし主イエスとともに歩むこと
は十字架への道に進むことであり、世の人々に憎まれ、排除されることも覚悟すべき歩み
です。私たちも今は、平穏かもしれませんが、いつ憎まれ、迫害を受け、排除されるかは
分かりません。その時に、主イエスから離れることにならないように、しっかりと主イエ
スに結びついていることが大事です。優先順位をしっかりと身につけ、主イエスに従うべ
き時に、それを妨げるものを何も持っていてはならないのです。今週のみことば。
Comments