今日私たちは、創造者である神が、私たちをどう見ておられるか、どのように関わろう
としておられるかを確認します。そうして、私たちも、神の見方を身につけ、互いを、ま
た自分自身を、その存在のゆえに、尊重する者、愛する者となりましょう。
私たちは人を評価するとき、どのような基準で判断しているでしょうか。また自分を評
価するときはどうでしょうか。私たちは一般的に、何ができるかという基準で人や自分を
評価することが多いと思います。この世の判断基準は、その人の有用性の分だけ存在価値
があるとします。有用性がなければ存在の価値はないとするのです。
1997年に、社会保障先進国と言われるスウェーデンで一つの報道がなされました。そ
れは、1930年代から70年代まで、社会補償を充実させ、なおかつ出費を抑えるために、
有用性を基準に不妊手術を強制したという報道です。社会補償費がかかりそうな人の出生
を予め除外するための政策です。恐ろしいことですが、有用な人は存在価値があり、そう
でなければ存在価値がないとの考え方を突き詰めて行くときの当然の結果です。
私たちの国日本でも、優生保護法という法律の下で、1948年から1996年まで、これと
同じことが合法的に行われました。進化論を真理であるかのように教える国、日本では、
当然のことと考えられてきたし、そのように考える人は今も多くいます。
私たちにはそれぞれ、その人固有の持ち味や能力があります。しかしそのすべての持ち
味や能力が有用であると認められるわけではありません。多くの人が有用と認める能力に
価値を認めているということです。だれもがそれぞれに、様々な能力を持っています。し
かしその能力が、多くの人々から評価されなければ無用と判断されるのです。
子どもたちの多くは、学力という一つの能力で、有用性が評価されます。学力があれば
有能であり、学力がなければ無能であるかのように判断されます。基礎的な学力を身に付
けることは大切です。学ぶ力が乏しいことはいろいろな面で支障をきたすでしょう。しか
し学ぶ力が全くないとしたら、その子には存在価値がないのでしょうか。障害を抱えてい
るなら、存在価値がないと見なされるのでしょうか。能力偏重の考え方では、そういう人
は社会のお荷物と見なされるでしょう。子どもたちは、数多くある能力の一つ学力で、存
在価値まで評価されてしまうのです。物質的な豊かさと無関係に、心は本当に貧しい社会
なのだと思わされます。
私たちキリスト信仰者は、能力で評価する考え方から自由になりました。自分も含め、
存在それ自体にすばらしい価値があると知らされています。何もできなくても、有用、無
用の人間の評価に関係なく、存在そのものに価値を認める者とされたのです。
今日の聖書の箇所は、預言者イザヤを通しての、主なる神からの神の民とされたイスラ
エルへの呼びかけです。4節の2行。主なる神が語りかけていることは、イスラエルの現
状に関わりなく、その存在を、高価で尊いとし、愛の対象とするということです。
イザヤが神の預言者として活動したのは、紀元前750年頃から700年頃にかけてです。
今から2700年ほど前の歴史です。世界史を知っているなら、当時の世界の覇者の変遷につ
いて知っているでしょう。イザヤの時代には、アッシリヤ帝国が世界を治めていました。
次に新バビロニア帝国、続いてメディアとペルシア連合による帝国、ギリシア帝国、ロー
マ帝国と、世界の覇者が変わっていきます。
ダビデ王国として栄えたイスラエルは南北2つの国に分裂しました。罪が蔓延し、宗教
的にも道徳的にも堕落し、荒廃したのです。その結果、北王国イスラエルは紀元前720年
頃にアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、南王国ユダは紀元前580年頃、新バビロニヤ帝国
によって滅ぼされます。神の民として選ばれたイスラエルは、まことの神と共に歩むこと
がいかに幸いであるかを全世界に証しし、神の祝福を分かち合うために立てられたのに、
彼らはまことの神ではなく、他国の神々を慕い求めていて、もはや神の民としての存在価
値は全くないと言えるほどに堕落した状態でした。
42章18~19、24~25節。イザヤを通しての神の叱責と糾弾、そして審きが記されてい
ます。神の民としての存在意義を全くなくしているイスラエルの現状を指摘した上で、43
章の語りかけがあるのです。このままイスラエルが背信を続けるなら、滅ぼさざるを得な
い状況の中で、なおも存在そのものに価値を認めて、その存在そのものの価値を知らせた
上で、本来のあるべき状態に戻るようにと招くのです。救いへの招きです。
主なる神は堕落しきっているイスラエルに語りかけます。わたしの目には、あなたは高
価で尊い。わたしはあなたを愛していると。なぜでしょう。なぜ主なる神は背信を続け、
神の民としての存在意義がなくなっているイスラエルに、なおも、あなたは高価で尊い、
あなたを愛していると語りかけるのでしょう。不思議です。
1節。イスラエルを造ったのは主なる神ご自身、神の民として選び出したのも神ご自身
です。ここにその存在価値があります。何をしているか、何ができるかではなく、どうい
う存在であるかに、その存在価値があるのです。神が造り出し、神がエジプトでの奴隷状
態から贖い出したので、イスラエルには大きな価値があります。だから、その目的に添っ
た歩みをするようにと招くのです。存在する目的に適う歩みをすることが大切であり、幸
いだからです。そしてご自分と共に歩むようにと呼びかけ続けました。
私たち人間も物を作る能力があります。他の動物にはできません。人間だけが神のかた
ちに造られたので、物を作る能力が与えられているのです。私たちが物を作るときに、目
的を持って作ります。特に道具などはその目的がはっきりしています。時計は時を刻むよ
うに作られています。楽器はすばらしい演奏に耐えられるように、照明も、冷蔵庫も、テ
レビも、その他のどんなものでも、それが作られた目的があるのです。
たとえば非常に優れたデザインに造られた時計があったとして、インテリアとしても十
分に耐えられ、見る人々を魅了するとします。その所有者はその時計をインテリアとして
飾るのです。やがて時計は電池が切れ動かなくなりますが、インテリアとして十分な価値
があるのでそのままにします。その時計に心があったなら、みなが自分のデザインを褒め
るのを喜びはしません。時を刻み、それを人々が見て生活をするとき、その時計は時計と
しての存在のゆえに満足するのです。存在するものは何でも、その目的にふさわしい形、
あり方で存在するとき、真の意味で満足し、幸せを味わうのです。
人格が与えられ、霊的な存在とされた人間である私たちが、自分の存在意義や目的を知
りたいと思うのは当然です。自分の存在の目的に適った歩みが分かり、そのように生きら
れるなら、その生涯はどれほど幸いであり、満足できるものとなるでしょうか。自分らし
さが活かされて、心からの満足を味わう人生となるのです。しかし私たちは、自分は何の
ために生きれば良いのか分からなくなっています。これが多くの人々が抱える深刻な問題
です。何のために生きるのか、真に自分らしくとはどう生きることなのか。みなさんは、
自分の存在の意味、生きる目的を知って歩んでいるでしょうか。
主なる神は私たちにも語りかけておられます。あなたは高価で尊い。わたしはあなたを
愛していると。本当に嬉しいことばです。今までは何かができなければ認められないと考
えていました。何かができて、その分だけ価値があるかのように思わされていました。し
かし何もできなくても、存在そのものが尊いと言われるのは、本当に幸いです。
主なる神はさらに招くのです。あなたの持ち味を生かし、あなたの個性を発揮し、あな
たに委ねられた存在意義に生きるようにと促します。そのためにわたしと共に生きるよう
にと呼びかけておられるのです。私の持ち味、私の個性、私に委ねられた存在の目的、意
義を知り、それを活かすためには、造り主、私の創造主のもとに行く必要があります。
造り主だけが真の意味で、あなたの持ち味を知っておられます。造り主だけが真の意味
で、あなたの存在の目的をわきまえておられます。造り主だけが真の意味で、あなたを、
一人ひとりを、主体的で、その個性にふさわしく活かすことができるのです。人は創造者
である神から離れた時に、自分の存在の意味も、何のために生きるのかという存在の目的
も、どのように生きれば良いのかという生きる術も、すべて見失ったのです。
多くの人々が自分の存在の意味も、何のために生きるのかという生きる目的も、どのよ
うに生きれば良いのかという生きるための術も、分からなくなっている中で、誰かに認め
てもらうために、何かをしなければという思いを持ちます。何かをすることによって自分
の存在の価値を現そうとするのです。しかしその何かとは、その時代の多くの人々が要求
することです。そして多くの場合、自分の個性や持ち味とは異なる要求にさらされ、自分
に無理を強いることになるのです。その結果、疲れを覚え、空しさを感じます。人は自分
そのものの、存在そのものの価値の大きさを見えなくされているのです。
イスラエルは神の語りかけを無視し、神の民として生きることを拒み続けました。その
決断を尊重して、主なる神は、北王国イスラエルをアッシリヤ帝国によって、南王国ユダ
を新バビロニヤ帝国によって滅ぼされたのです。彼らに対しても、主なる神の語りかけは
変わりません。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛していると。
私たちに対しても同じです。主なる神様は私たちに対しても、わたしの目には、あなた
は高価で尊いと言われます。わたしはあなたを愛していると語りかけるのです。何ができ
るからではなくて、何もできなくても、今は反逆していても、高価な者であることには変
わりはありません。尊い存在だから、そのように言われるのです。
だから創造者である神は、神のひとり子イエス・キリストを人としてこの世に誕生させ
ました。私たちに罪の赦しを備え、罪からの救いに与らせるために、十字架で身代わりの
処罰を受けさせたのです。その上で、愛と恵みを携えて招いておられます。
罪とは、創造者である神を自分の神としないあり方です。あるべき状態から逸脱してい
ること、それ自体が罪です。罪の状態、的外れの状態で歩む結果、数々の間違いを犯し、
具体的な様々な罪を犯すのです。
主イエスは十字架で、私たち全人類に罪の赦しを備えるために、私たちの罪に対する処
罰を代わりに受けました。これが贖いです。贖いとは、代価を払って買い戻すことです。
1節に、あなたを贖ったとありますが、新約に生きる私たちには、主イエスの十字架によ
る贖いです。主イエスは代価として、十字架でご自分の血を流されました。ご自分のいの
ちという代価で私たちを買い取ったのです。私たちは招かれています。全人類が招かれて
います。その招きに応じることで、贖いを自分のものとし、救いを味わうのです。
招きを拒むことは、赦しを拒むことであり、自分が犯した罪のゆえに、滅ぼされます。
赦しとはなかったことにすることです。罪を犯さなかったことに見なす、罪がないものと
見なすということです。私たちは神の愛と恵みを覚え、罪の赦しを受け取るために、招き
に応じましょう。救いとは創造者である神とのあるべき状態に戻ることなのです。
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