今私たちは老人週間を過ごしています。毎年15日から21日までを老人週間と定められて
いて、年配者たちへの敬意を表す時とされたのです。このように特別な日を定める必要が
あるのは、多くの人々が、お年寄りに対して敬意を示していないという現実があったから
ではないかと思います。しかし私たちは、聖書で主なる神が示しておられる、年配者たち
への見方を、私たち自身の年配者への態度としたいのです。そうして老人週間だからとい
うことではなく、いつでも、お年寄りに対して敬意を払う者でありましょう。
今年は、明日18日(月)が敬老の日です。それで今日、敬老祝福礼拝として、主なる神に
献げています。私たちは、これまで社会を作り上げてこられた人生の先輩たちに敬意を払
い、年配者たちに、変わらずに注がれている主なる神の祝福を確認して、主とともにある
ことの幸いを、改めて味わいたいのです。
だれもが長生きするなら、必ず年を重ね、年老いていきます。自分は若いと思っている
方々には実感できないでしょうが、必ず老年を迎えるのです。私にも若い日々がありまし
た。そうして今、老年を迎えています。若い頃には、お年寄りを見ていても、それがどの
ような状態であるのか、よく分かりませんでした。しかし今、体力、気力、意欲が減退し
ている現実と向き合っています。だれもが長生きするなら老年を迎えます。その時に、な
お主なる神を信頼し、主の守りと支えを確認する、幸いな晩年としたいのです。「たとえ
私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」と、主イエスを信じ
る信仰によって新しく生まれた私たちは、主にあって、日々新しさを確認するのです。
さて、みなさまが、一つのことを、主なる神に願うとしたら、それは何でしょうか。み
なさまの願いが一つ叶えられるのです。考えてみてください。何でしょう。究極の求めで
す。一つだけ叶えられるということです。よく考えてみてください。
イスラエル王国の2代目の王ダビデは、ただ一つのことを願いました。それが詩篇27篇
4節に記されています。ダビデにもいろいろな願いがあったでしょうが、その中で、一つ
のことを願うとしたら、これだということです。「いのちの日の限り、主の家に住む」と
いうこと、地上生涯が続く限り、どこにいても、どのような状況に置かれても、主なる神
とともにいて、主を自分の主として歩む、この幸いを私たちも味わいたいのです。
伝道者の書に有名なことば「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの
日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」があります。
老齢になり、自分の生涯を振り返ったとき、自分の人生は何だったのだろう、何の意味
も見いだせないと言うなら、本当に悲しいことです。そうではなく、今日の交読箇所にあ
る今週のみことば「年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂ります」と心から告白す
る生涯であるなら、どれほど幸いではないでしょうか。そして「主は正しい方。わが岩。
主には偽りがありません」と告げる、充実した、主なる神に用いられる、豊かに実を実ら
せる人生が約束されているのです。主とともにあることを求め続けるだけです。
皆さまはどちらを願うでしょうか。年老いたとき、何の楽しみもないと嘆くのか、それ
とも、年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂る人生を送るのか、どちらでしょう。
詩篇71篇1節。「主よ 私はあなたに身を避けています。」このように言い切ることの
できる信頼を主なる神に置いている信仰者は幸いです。3節の最後でも「あなたは私の
巌 私の砦なのです」と言い切ります。主なる神は巌であり、砦です。これほどの安全は
ありません。そうして5節。「神である主よ あなたは私の望み 若い日からの拠り所」
とずっと主なる神の守りと支えで抱かれてきた生涯を振り返るのです。
6節。創造者である神は、私たち一人ひとりをも母の胎内で組み立てられました。そし
て母の胎内から取り上げ、この世に誕生させてくださったのです。そうして、私は生まれ
たときから主なる神に抱かれて、地上生涯を歩んでいます。これは、すべての人に当ては
まる真理です。その人が主なる神を信じていてもいなくても、その存在を認めていてもい
なくても、主なる神が彼を母の胎内で組み立てられ、母の胎内から取り上げ、地上生涯を
与え、御腕に抱いておられます。そうしてキリスト信仰者となった私たちは、この事実を
認めて、今歩んでいます。主イエス・キリストを信じる信仰によって、創造者である神を
父なる神と仰ぎ、その御腕に抱かれて、これまでの生涯が支えられ、ずっと導かれてきた
という事実を感謝し、この現実を喜びつつ歩む者とされているのです。
今はまだ、創造者である神を認めることも、信じることもできない人をも、主なる神は
抱き続け、いろいろな方法で福音を知らせ、招き続けておられます。だから、先に主イエ
スを信じる者とされた私たちは、その人を母の胎内で形造り、母の胎内から取り上げて、
抱き続けておられる創造者である神を伝えましょう。その人の地上生涯が与えられている
限り、主なる神は招き続けておられるからです。
この詩の作者は、様々な困難、危険を通っています。10節からのところで、そのことが
窺えます。敵に囲まれ、いのちを狙う者が危害を企んでいます。11節。彼らは彼を中傷し
て言うのです。「神は彼を見捨てたのだ。追いかけて彼を捕らえよ。救い出す者はいない
から」と。それに対して14節。「しかし私は 絶えずあなたを待ち望み いよいよ切に
あなたを賛美します」と、どれほどの危険が迫っていようと、敵が危害を加えようと攻撃
してきても、信仰者は、全能の神に拠り頼み、期待して、主を賛美するのです。
15節では、作者は、主なる神の義と救いとを絶えず語り告げるのです。主なる神のみわ
ざのすべてを知ることはできないけれど、確かに神の愛とあわれみと支えがあり、目に見
える状況は危険が押し迫っていても、主なる神は最善に導いていてくださるのです。私た
ちを愛し、私たちの地上生涯を支えてくださる神は、私たちのためにも最善を備えて、導
いてくださるお方であり、どれほどの危険からも、御腕の中で守っておられるのです。
16節。作者は言います。「神である主よ。私はあなたの力とともに行きます。あなたの
ただあなたの義だけを心に留めて」と。老年になっても、変わらずに、主なる神の力と義
を確認して歩めるのは、本当に幸いです。主なる神が大能の力によって私たちを守ってく
ださいます。神が義とされることを、私たちも自分の義とするのです。神が義であり、神
が義と定められたことが、義だからです。それを心に留めるのです。
旧約の聖徒たちは、主イエス・キリストを知りません。しかし、主なる神を信じること
が、義とされることを知っていました。アブラハムは神を信じました。神はその信仰を彼
の義とされたのです。新約の時代に生きる私たちには、主イエス・キリストの十字架の死
が差し出されています。あの十字架は、私たち全人類の罪に赦しを備えるための身代わり
の処罰であり、それを事実として認め、受け入れるなら、罪の赦しに与るとの福音が提示
されたのです。これが今、神が定められた義の基準です。この義だけを心に留めて、神の
大能の力に支えられて、地上生涯を歩む私たちとされましょう。
17節。若い頃に生けるまことの神を自分の神と仰ぐ者の幸いが記されています。私たち
の神は、信じる者とともに歩み、教え続けてくださるからです。その生涯を体験として、
彼は証しているのです。そして今なお、神の奇しいみわざを告げ知らせていますと。
18節。「年老いて 白髪頭になったとしても 神よ 私を捨てないでください」との告
白は、年老いて、役に立たなくなったなら、神は自分を捨て去ってしまうのではないかと
いう不安からのことばではなく、自分が勝手に、そのような、神への不信仰になることが
ないようにとの願いのことばです。というのは、礼拝招詞で確認したように、主なる神は
語りかけておられるからです。「胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者
よ。あなたがたが年を取っても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても
わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す」と、主
なる神は、ずっと変わらずに、私たちを支え続けてくださるのです。
だから私たちが、主の信頼を裏切ってはなりません。不信仰になって、自分から離れて
しまうことがあってはならないのです。私たちの側で主なる神を捨て、離れない限り、主
が捨て去ることはありません。地上生涯が許されている間、招き続けておられるのです。
だからこの詩の作者は決意を述べます。「私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世
に。あなたの大能のみわざを 後に来るすべての者に」と語るのです。
20節。主なる神は私たちを、多くの苦難とわざわいとに遭わせられます。苦難とわざわ
いとに遭うことを許可されるのです。それは私たちを正しい道に導くため、また私たちの
主への信頼を確かにするための、主なる神のご配慮です。というのは、信仰の試練として
許可されるからです。私たちを愛しておられる神は、私たちの弱さをご存じです。私たち
の耐えられる限界もご存じです。そうして、私たちが耐えられる範囲の試練に遭わせ、耐
えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるのです。苦難とわざわいも
同じです。耐えられる試練で、私たちの信仰を成長させ、霊的に成熟させるためです。
5節。神である主は私の望みです。若い日からの拠り所です。この事実を味わい続けま
しょう。主なる神を自分の神、自分の主とあがめたその日から、私たちは、この事実を確
認し、この事実を生きているのです。
年配者のみなさまが、さらに主に祝された地上生涯、信仰の生涯を過ごされますよう、
主の恵みと祝福を祈ります。年老いても、なお実らせ、青々と生い茂る、そのような地上
生涯、信仰の生涯を送ることを得させるのは、どこにいても、どのような状況に置かれて
も、それがたとえ悲惨と言われる状況であったとしても、そこに主なる神はともにおられ
るという確信です。私たちが信じる神はインマヌエルの神です。神が私たちとともにおら
れるのです。だから私たちは、地上生涯を終えるまで、主から離れてはなりません。
今、まだ若いと思っているみなさまも同じです。自分の望みである主なる神を拠り所と
して、信仰の歩みを続けるのです。今を、そしていのちの日の限り、主の臨在を確認し、
ともにいてくださる主とともに歩む生涯を積み重ねるのです。
そのような歩みをする私たちに約束されていることは、年老いたときに、楽しみが何も
ないと嘆く晩年ではなく、年老いてもなお、実を実らせ、青々と生い茂る生涯、喜びと感
謝に溢れ、希望と平安に満ちた歩みであり、神の祝福と恵みを証する歩みなのです。
私たちは主イエスの十字架の贖いを自分のためであると信じ、受け入れた者たちです。
いのちを捨てるほどの愛で、主イエスに愛されている私たちです。年輩のみなさまも、若
い方々も、このお方の愛を味わいながら歩み、このお方を愛し、祝福と恵みに満ちておら
れる全能の父なる神をあがめる歩みを続けましょう。みなさまに主の豊かな恵みと祝福が
満ち溢れますように。
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