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2023年8月27日 礼拝「休息と安らぎ」マタイ11:28-30

 今日私たちは、主イエスによる招きのことばを見ています。主イエスは、わたしのもとに来なさいと招きます。主イエスのもとに行くなら、主イエスが休ませてくださると言うのです。招かれているのは、すべての人です。すべて疲れを覚えている人、重荷を負わされていると感じている人は、まず主イエスによって休ませてもらう必要があるからです。


 28節。主イエスは問いかけます。疲れを覚えていませんか。重荷を負わされていると感じていませんか。重荷を負わされていて、二進も三進も行かなくなってはいるなら、わたしのもとに来なさいと主イエスは招くのです。休ませてあげますと約束しておられます。


 主イエスが地上におられた時代の人々、イスラエルの人々は疲れていました。彼らの疲れは、モーセの律法を守らせようと、宗教指導者たちが決めた、数々の言い伝えの律法を負わされていたことによります。律法そのものは良いものです。神の定められた律法は、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、生けるまことの神を愛する、またお互いを、自分を愛するように愛するという、愛が支配する社会を作り上げるために定められたものでした。神は愛であり、神の自分への限りない愛で愛されていることを味わい知り、その愛に応えて神を愛し、互いに愛し合うことができるのです。神を愛し、自分を愛し、人を愛するために、様々な決まりが定めらたのです。


 しかし人は、この愛の律法を、形式的に、表面的に、義務的に守るように変えてしましました。「こうあるべきだ」「こうあらねばならない」「これをしてはダメだ」などと押しつけられると、これほど窮屈な要求はないと感じてしまいます。このように押しつけたのは宗教指導者たちでした。押しつけられた民衆は、律法を行うことで疲れ果てたのです。目的が分からないまま守らせられる決まりは重荷そのものでした。


 私たちも同じような経験をします。私たちの周りにもいろいろな取り決めがあります。学校には校則があり、近所づきあいにはその地域なりの作法があり、社会のいろいろな状況での決まりがあります。ルールは人間関係を良いものとし、社会の秩序を保ち、お互いが気持ち良く生活するために定められたはずです。しかし、規則を守ることそれ自体が目的になると、それらは強制させられ、互いを苦しめる重荷に変わるのです。


 当時のイスラエルは、宗教指導者たちが、人々を支配する道具として、神の律法を悪用していました。宗教指導者は、神にではなく自分たちに従わせるために、律法の文言を守らせようと、事細かな戒律を数多くつけ加えて、民衆に押しつけたのです。民衆は人の定めた言い伝えの律法の事細かな決まりに縛られ、疲れ果てていたということです。


 主イエスは招きます。すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。私たちは生けるまことの神、愛の神のもとにいることで、休息を味わうのです。まことの神以外に従わせられるとき、負わされるものは重荷となり、疲れ果ててしまいます。人に仕えるのではなく、主なる神と共に歩み、主なる神に仕えるとき、負わされる働きは重荷ではなく、疲れることもありません。大事なことは主イエスのもとに行くことです。そうするなら、主イエスは、あなたを休ませてあげますと、断言するのです。


 このように言い切る方は、人となられた生けるまことの神です。私たちの罪を赦すために、代わりに罪の罰を受けるために、死ぬために人として生まれ、事実、私たちの罪を の身に負って十字架で処刑されました。ナザレのイエスがローマ帝国で、十字架刑で処刑されたのは歴史的事実です。そして三日目に、ナザレのイエスが葬られた墓は空になり、イエスのからだをだれも指し示すことがないまま、現在に至っています。


 聖書は、主イエスの十字架ので身代わりの処刑と三日目の復活を大胆に宣言します。主イエスが三日目に死者の中から復活されたことによって、あの十字架の死は、事実、罪を赦すための身代わりの死であったこと、またナザレのイエスは生ける神が人となられたお方であることの証拠とされたのです。主イエスが罪の処罰を身代わりに受けくださったことで、信じる者に罪の赦しが与えられ、罪からの救いに与るのです。あの十字架の死は、生けるまことの神の、私たちに対する限りない愛の現れです。このお方、神ご自身が、あなたを休ませてあげますと断言して、招いておられるのです。


 まず休みが必要です。あなたは疲れていませんか。重荷を負わされていないでしょうか。休む必要を覚えていないでしょうか。まず休息を得ましょう。その上でたましいの安らぎを得るのです。忙しく動く回っているままで、追い立てられ、急かされている状態のままで、安らぎを得たいと思っても、それは無理な話です。まず休むこと、そして真の休息を得るのは、まことの神である主イエスのもとに行くことによってです。


 29節。主イエスの招きは、わたしのもとに来なさい、で終わっていません。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさいと続くのです。主イエスのもとで休むことは、何もしないこととは違います。重荷から解放され、疲れを癒やすことは大事ですが、何もしないままでは、真の満足を味わう生涯を歩むことはできません。責任を委ねられ、喜んでその働きをなすことで、私たちは真の満足を味わえるのです。


 主イエスから学ぶことが大事です。たましいに安らぎを得るための秘訣です。主イエスのもとで、自分の存在の意味や目的が分かり、どのように生きれば良いのか分かります。そしてその目的に則った生き方ができるように、適切な助けも与えられます。主イエスは神としての恵みで、真に休ませ、目的を知らせ、たましいに安らぎを得させるのです。


 自分の今の生活はとても変えられないと考えているでしょうか。一度冷静に、客観的に自分の実生活を眺め、検証してみてはどうでしょうか。自分の生活や考え方を固定化しないで、主イエスのもとで考えるのです。主イエスとの関係の中で、新しい生き方を模索してみるのです。試す価値がありますとお勧めします。いかがでしょう。


 主イエスは招きます。わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ますと。くびきとは2頭の家畜の首を、頑丈な横木で固定する道具です。くびきで2頭の家畜を固定させて、荷車とか鋤を引かせることで、一頭ではできなかった仕事を、それぞれの力を軽減して行うことを得させるのです。ただしくびきをかけられた2頭の家畜は、もはや自分勝手に動くことはできません。歩調を合わせるのです。


 私たちが招かれているのは主イエスのくびきを負うことです。しかも主イエスは、わたしは心が柔和でへりくだっているから、と言うのです。柔和でへりくだっている主イエスがパートナーです。心が柔和でへりくだっている主イエスが私たちを教え導きます。主イエスのくびきを負うことで、どのように歩めば良いのかを主イエスから学べるのです。これは、何と幸いではないでしょうか。心が柔和でへりくだっている主イエスに、安心してすべてを任せ、くびきを負って共に歩み、自分の存在の意味や人生の目的を教えられ、適切な助けをいただきながら歩むことになるのです。


 わたしのくびきを負って、わたしから学ぶなら、たましいに安らぎを得ると言われる主イエスは、私たちに完全な安らぎを、癒しを、そして解放と自由を与えるために、新しい生き方へと導かれるのです。主イエスは心が柔和で、私たちの状態にまで自分を低め、一人ひとりに最適なくびきを用意し、模範を示しながら、一歩一歩、私たちを主体的に、自分の価値や存在の目的を見出して生きる、幸いな地上生涯へと導いてくださるのです。


 愛する皆さま。主イエスのもとに行きましょう。主イエスと共に歩み、主イエスから学びましょう。約束は、休息と安らぎです。それが与えられます。試してみる価値があるのではないでしょうか。まず主イエスのことば、神のことばに触れ続けることが大事です。触れて学ぶのです。一回や二回などではなく、一年間試してほしいのです。主イエスから学ぶことは沢山あります。学べば学ぶほど、たましいの安らぎは確かなものとなります。忙しさに振り回されることなく、正しい優先順位を確立して、なすべきことをなすことができるようになります。


 30節。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからですと言われます。創造者である神、主イエスは、私たち一人ひとりの強さも弱さも、優れている部分も劣っている部分も、長所も短所も、すべてご存じの神です。私たち一人ひとりにふさわしいくびき、世界に一つしかない適切な特注のくびきを備えて待っておられます。だからそのくびきは負いやすいのです。不自由さを感じることなく、押しつけられている感じはしません。そして主イエスが負わせる重荷は軽いのです。主イエスがともに負ってくださるからです。心地よい疲れと回復、そして休息、さらにたましいに安らぎを得る地上生涯を歩みたいなら、主イエスのもとに行き、主イエスのくびきを負って、主イエスから学ぶのです。招きは明確です。招きに応じたときに与えられる祝福も明確です。招きに応じるだけです。


 私たちに招かれている信仰生活の基本は、毎週日曜日の礼拝です。木曜夜の祈り会で聖書を読み祈ることも大切な機会です。日々みことばに触れることも大事です。聖書から神のことばを聞く機会を多くし、積み重ねていくことで、私たちはこの世の流れに飲み込まれることなく、休息し、安らぎを得て、再びこの世に遣わされていくのです。


 礼拝に出なければならない、聖書を読まなければならないと自分を追い込むと、礼拝も聖書通読も重荷となり、疲れ、感謝も喜びもなくなってしまいます。愛する神を礼拝したい、愛する神の語りかけを聞きたい、神を身近に感じたい、恵みを味わいたいと、自発的で、喜びと感謝に満ちる礼拝を献げ、神のことばに触れる時を持つのです。そしてそれが私たちに真の休息を味わわせ、たましいに安らぎを得させるのです。


 一年間試してみてください。一年間試してみて、何の価値もなかったなら、その時やめれば良いのです。私の体験で言うなら、高校3年の夏から50年間、学生時代も、会社務めの時も、そして神学生時代、牧師の時代は勿論のこと、日曜礼拝と平日の祈り会に教会に集うという生活を続けていますが、不毛だった、無意味で無価値だったなどと思ったことはありません。日々みことばに触れ、神の愛とみこころを確認しつつ祈る生活、祝福と恵みを味わえる、毎日、毎週、毎月、毎年を過ごせています。まず一年間試してください。真の休息と安らぎを得、味わえるなら、これほどの収穫はありません。主の恵みと祝福に与る生活習慣を身につけたということです。


 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。主イエスのところに行く、主イエスと共に歩む、主イエスから学ぶ。その繰り返しです。




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