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2023年8月20日 礼拝「本物と代用品」使徒の働き19:11~20

 使徒の働きを読み進めています。今日の箇所は、パウロによる第3次伝道旅行のエペソでの出来事です。それまで魔術を行っていた人々が、主イエスを信じ、生けるまことの神を知ったことで、それまで大切に保管し、また研究を続けてきた、貴重な財産、大事な宝物とも言える魔術の書物を焼き捨てる出来事と、そこに至る経緯が記されています。


 エペソはアジア州の州都であり、州の最大都市です。パウロはここに3年間滞在し、みことばを語り続けました。アキラとプリスカ夫妻の家を拠点としたのではないかと考えられますが、その結果、アジア州に住む人々は皆、主のことばを聞くという画期的な働きがなされたのです。その働きの2年3ヶ月を過ぎた頃の出来事が今日の箇所です。


 11~12節。パウロの手を通してなされた神の驚くべき奇跡の記述です。私たちは驚くべき働きを見聞きすると、それに直接関わった人を称賛しやすいのですが、聖書は、そのような間違いをさせないようにと注意深く記します。その素晴らしい働きは、その人を用いる主なる神のみわざです。称賛すべきは、その人をお用いになる主なる神ご自身です。


 13節。ナザレのイエス、十字架で処刑されたイエスこそ救い主、主なる神であると宣べ伝え続けるパウロを通して、病人が癒され、悪霊が追い出されている様子を見ていた者たちが、不遜にも真似事をして、人々の称賛を得ようとしました。


 14節。彼らはユダヤ人であり、しかも祭司長の息子という特別な恵みを受けていたにもかかわらず、主なる神が最も忌み嫌われる異教のわざの一つ、巡回祈祷師になっているのですから、これほど嘆かわしい悲劇はありません。巡回祈禱師とは、魔術や呪術を使い、有名な人の名前を持ちだして、その人のことばとして語り、様々な不幸を除去する祈禱師です。彼らは試しに、主イエスの名を唱えて悪霊を追い出そうとしました。


 15節。悪霊のことばです。悪霊の存在を否定してはなりません。そして悪霊を侮ってはならないのです。悪霊はサタンと一緒に、主なる神に背いた御使い、天使たちです。創造者である神が自由意思を持つ存在として創造された被造物です。私たち人間と違って、肉体を持っていません。サタンと悪霊たちは、私たち人間を創造者である神から引き離そうとしており、主なる神はそれを許可しておられるのです。私たちは、サタンの誘惑、様々な霊的策略に惑わされるのでなく、主イエスを信じ、父なる神を信じることが大切です。


 ヤコブの手紙2章19~20節。悪霊たちも、神は万物の創造者お一人だけであると信じています。しかし彼らは、そのお方を自分の神として崇め、聞き従う意志はありません。 神を神として信じるとは、そのお方に従うことを意味します。信じてはいるけれど、自分 の生き方を変えたいとは思わない信じ方もあるのです。悪霊どもはさばきの時が来ることも知っていて、その日の来るのを恐れて身震いをしています。滅ぼされることになったと しても、神には従いたくない、これがサタンとその仲間の実体です。私たちはどうでしょ うか。私たちの信仰は、神に聞いて生きることを願う信仰でありたいのです。


 使徒の働き19章15~16節。人間はどれほど魔術的な力を持っていても、悪霊の足元には及びません。まことの神から権威が委ねられていなければ、悪霊を制御することはできないのです。文明が進んでいる現代社会において、悪霊は、聖書の時代とは異なり、前面に出てくることはせず、習俗や文化や思想的なものの背後に潜んで、その働きをしています。その目的は私たち人間を主なる神から遠ざけ、私たちが神を愛し、神に仕えることをしないように、私たちの心を惑わそうとしているのです。


 そして私たちが心を開くなら、悪霊は私たちの心を支配し、聖書の時代と同様に、いわば悪霊つきのような現象を引き起こすこともあります。私はまだそのような場面に遭遇したことはありませんが、この日本においても悪霊との直接対決を行う、その現場にいた人の証言を聞いたことがあります。悪霊は存在し、様々な霊的な現象の背後には悪霊が関係していることを覚えて、警戒していることは大事です。


 悪霊を恐れる必要はありません。しかし悪霊を侮ってはなりません。悪霊もまた主イエスの権威に服従させられます。しかし私たちが自分の力で対決しようとするなら、悪霊に対しては非力であると覚えなければなりません。私たちは主イエスとともにあり、主イエスから権威を委ねられなければ、悪霊を退けることはできないのです。


 16節。主イエスを信じる信仰による本物の権威を委ねられたパウロと、主イエスの権威の借り物で済まそうとした7人の巡回祈祷師との、悪霊との対決の結果は、正反対のものとなりました。主なる神はパウロの手によって悪霊を服従させ、多くの悪霊に憑かれた 人々に解放と救いとをお与えになりました。しかし巡回祈祷師たちは、主イエスの名を借りて悪霊を追い出そうとしたけれど、返り討ちに会い、怪我をすることになったのです。


 私たちも同じです。主なる神が私たちを通してご自分の働きをなさるなら、私たちの手によって悪霊を従わせることもなさいます。私たちが追い求めることは、自分を主なる神に明け渡すこと、そして主なる神が私たちを自由にお用いになれるように、自分を主に従順にならせることです。私たちが救い与り、神の子どもとされたのは、私たちが、神に聞き従って生きる者となるという、造られた本来の生き方に戻るためなのです。


 パウロと悪霊、巡回祈祷師たちと悪霊、この2つの対決を通して、本物は何かが明確にされました。17節。本物の神がどなたであるのかが分かり、そのお方を自分の神として受け入れるとき、人は真の意味で神を恐れる者とされます。もし私たちが、神を恐れる思いが少ないなら、まだ主なる神を真の意味で、神として受け入れていないと言えます。


 18節。主イエスを信じた人たちは変えられました。自分たちの行為を告白し、明らかにしたのす。告白せざるを得ない、主なる神に対する正しい恐れを抱きました。罪が赦されなければ、神にさばかれる。これほど恐ろしいことはないとする神への恐れが、彼らをして罪の告白に引き出したのです。自分がどれほど神に対して罪を犯してきたかを知り、その罪から立ち返ろうと悔い改める心を込めて、罪の告白をし、赦しを求めました。


 19節。魔術を行っていた多くの者は、自分の限界を知っていました。人をごまかして、それなりの力を持っているように演じることはできても、悪霊には対抗できるほどの力はないことを正直に認めたのです。そして今、悪霊をも支配する権威が、主イエスを信じる者に与えられることを知り、主イエスこそ主権者であると認めて、代用品を捨て去り、本物を受け入れたのです。焼き捨てた書物の合計は、銀貨5万枚になったとあります。


 ギリシアの通貨でドラクマ銀貨とするなら5万日分の労賃です。1年に300日働くとして150年を超える年収分が灰となり、煙と消え去りました。本物を受け入れることで、何ととてつもない出来事となるのでしょうか。真の悔い改めに導かれるとき、この世の損得勘定に左右されない、真の霊的な祝福を求める行為へと導かれるのです。そしてそれらは祝福の基となり、大きな証となって人々の心を捉えました。


 20節。主のことばは力強く広まり、勢いを得たいったのです。どっちつかずの信仰生活では、人々への影響はほとんどありません。主なる神のものであるという明確な生活は、人々に大きな影響を与え、本物を求めている人に、本物を知らせることになるのです。


 私たちはイエスこそ主であると知り、信じることができました。本物の神を自分の神として崇める者となったのです。もし私たちが今もなお、代用品を手放せずに、どっちつかずのような信仰生活をしているなら、ここではっきりと、自分は本物を手にすることができたのだから、すべての代用品を捨てる決断をしてはどうでしょうか。主なる神を神として聞き従い、そのような生き方の邪魔になっているものを捨てるということです。その時私たちを主はお用いくださり、人々が主の祝福に与る、祝福の器とされるのです。


 私たちの身近な人たちで、まことの神を知らないがゆえに、様々な異教的なものを大事にしている人たちに対しては、彼らに同調して、彼らの異教的な習俗に合わせることはできませんが、彼らの信仰や、彼らが大事にしていることを尊重するのは重要です。彼らも本物が分かった時点で、今まで大切にしていたことがまことの神の代用品であったことが分かり、代用品を捨てることができるからです。私たちは執り成し祈り続けつつ、証しの生活を続けましょう。



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