年に一度ですが、私たちは日曜礼拝を召天者記念礼拝とし、先にこの世を去り、天の御国に凱旋された信仰の先輩たちを記念しています。この記念礼拝にご遺族のみなさまをもお迎えでき、嬉しく思います。今日は「天に国籍がある幸い」と題して、主イエス・キリストを信じて永遠を生きるいのちが与えられた者は、天に国籍がある天国民とされていること、そしてこのことがいかに幸いであるのかを聖書から確認します。
私たちは愛する方や近しい方の死の現実を前にするとき、自分もまた死ぬべき存在であるという事実と向き合うことになります。法事とか記念会の場でも、死の現実に向き合います。普段は日常生活に追われていて、あまり死の現実を考えないで過ごしている私たちにとって、死の現実に向き合う機会は得がたいと言えます。自分の存在について考え、死と死後についても考えることは大事だからです。
私たちはだれもが、いつかは死の時を迎えます。この世を去って行く時が来ます。これは避けられない現実です。この現実から目を背けるのではなく、自分の死と死後について考えることは重要です。私たちはだれもがみな、肉体の死を迎えます。しかし肉体の死を迎えたとしても、永遠を生きるいのちを持っている者は、肉体の死を恐ろしく思うことはなくなります。死は、国籍のある天、自分の故郷に帰ることだからです。
週報に13名の方を記載しました。この方々は、地上生涯において、イエス・キリストを知り、自分の救い主として信じた人々です。主イエスは宣言されました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか」と。主イエスが宣言されたとおりに、これらの一人ひとりは、死んでも生きるいのちを受け取り、この世を去りました。彼らの肉体は骨になり墓に葬られ、やがて土の塵に戻りますが、その霊、人格は、創造者である神の許で、存在し続けるのです。
20節。しかし、私たちの国籍は天にあります。主イエス・キリストを信じた者は、この事実を声高らかに宣言します。しかしとは、19節に記された人々、イエス・キリストを信 ようとしない人々に対しての「しかし」です。その人々にとって、死は呪いであり、恐れとなります。自分がどこから来てどこに行くのか、死んだ後どうなるのかが分からないという不安はとても深いものです。しかし、主イエスを信じる者たちの国籍は天にあり、その人たちにとっての死は、この地上での旅を終えて、自分の国籍のある天の故郷、万物の創造者あり、救い主である神の御許に帰ることです。だから死別の悲しみや寂しさはあるけれど、死そのものは、悲しみ、寂しさ以上の喜びに変えられているのです。
私たちの国籍は天にあります。皆さんはこの宣言をどう受け止めるでしょうか。主イエスを信じた当初、私はこのことばを、ただ単に、自分はこの地上での生涯を終えて死んだなら、必ず天国に行くのだと考えていました。この考え自体は間違ってはいません。しかしこの考えには重大な欠陥があります。それは、今のこの時点において、すでに天国民であるという事実認識の欠陥であり、霊的祝福を味わわないまま、ただ将来に対する淡い希望を持つだけになるという欠陥です。キリスト信仰者は、今、この地上生涯で、天の御国の住民であるという喜びと感謝、感動を味わいつつ歩む日々を過ごす者たちです。
また私は、自分は二重国籍を持っていると考えたこともありました。私は日本の国籍を持ち、日本人としての責任が委ねられています。その責務を果たすことは当然です。と同時に、天に国籍を持っていて、その時が来たなら天の御国に帰ることになる。これほどのすばらしい約束、希望はないと考えていました。これも間違いではありませんが、重大な不備があるのです。つまり、この地上生涯において、この世で委ねられている社会的な責任を果たすということには誠実であっても、天の御国の住民としてふさわしく生きることに不誠実になりうるからです。この世に対しては誠実に責任を果たしているつもりが、いつしかこの世の流れに同調していて、結果として主権者である神に対して誠実な歩みをしなくなっていることがあるのです。死後の将来ではなく、今、正に、この時点において、国籍は天にあるとの事実認識で歩むとき、この世で委ねられている責任を誠実に果たすとともに、神の国の住民としても、誠実で忠実な歩みに進ませるのです。創造者である神を愛して歩むことが、この世に対しても、真に、誠実に仕えることを得させるのです。
20節。私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。主イエス・キリストは一度、この地上に来られました。神であるお方が、人となって、私たちの世界に生まれ、約33年の生涯の後、十字架で処刑されました。ローマ帝国の総督ピラトが、この人には罪は認められないと繰り返し宣言したにもかかわらず、極悪人が処刑される十字架刑で処刑されたのです。
この日本でもクリスマスは特別な日とされています。そのクリスマスは主イエスの誕生を記念する日です。主イエスは人間の赤ちゃんとして生まれ、私たちと同じように育ち、十字架刑で殺されました。しかし三日目に死者の中から復活することで、あの十字架は、私たち全人類に罪の赦しを備えるための、身代わりの処罰であることを明らかにし、この身代わりは自分のためであったと受け入れ、主イエスを救い主と信じる者に、主イエスは永遠を生きるいのちを与え、天に国籍を持つ者にしてくださったのです。
そうして神の定めの時に、主イエスは再び来られます。そのおいでを私たちは待ち望んでいるのです。それは21節。私たちの死ぬべきからだ、この朽ちていくからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださる時だからです。
先ほど交読したコリント人への手紙第一15章には、次のように対比されていました。現状とからだと復活のからだの対比です。朽ちるものが朽ちないものに、卑しいものが栄光あるものに、弱いものが力あるものに、血肉のからだが御霊に属するからだによみがえらされるとあります。これが聖書に記された神の約束です。この約束の実現を待つのです。
先に天の御国に凱旋された信仰の先輩たちは、主イエス・キリストが復活のからだを与えてくださる救い主として来られるのを待っています。主イエス・キリストを信じて、永遠を生きるいのちを与えられている私たちキリスト信仰者も、その日を待っています。主イエスが来られる前に、肉体の死を迎えるなら、復活のからだが与えられる日として待ち望み、肉体のいのちが続いている間に主イエスが来られるのを迎えるなら、一瞬のうちに栄光のからだに変えられるのであり、その日を待ち望んでいるのです。
コリント人への手紙第一15章に「私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」とありますが、その日を希望をもって待つことに変わりはありません。これが国籍を天に持つ者に与えられている約束であり、これほどの幸いは、ほかにありません。
私たちの肉体はやがて朽ちていきます。そして私たちが見ている世界、この地球も宇宙も、天地万物は朽ちるのです。神の定めた世の終わりの時に、すべては跡形もなく消え去り、新しい天と新しい地が再創造されます。その時永遠を生きるいのちが与えられている者たちは、栄光に輝く主イエスのからだと同じ姿に変えられ、永遠を新しい天と新しい地に住むのです。これが神の約束です。
聖書は、死は眠りであると言います。眠っている者はやがて目覚めの時を迎えます。それが主イエス・キリストが再び来られる時です。その時、すでに肉体の死を迎えた者と、地上生涯を生きている者がいます。みなが眠るわけではありませんとは、その時生き残っている人々のことを指しているのです。しかし死んだ者たちは眠っているのであり、主イエスの再臨の日に目覚めます。死者の肉体は朽ち果てます。しかし神のかたちとして造られた私たち人間は霊的な存在であり、その霊、私という人格は残っています。死者は眠りに入り、神の定めた時に新しい肉体に復活するのです。天上のからだ、朽ちないからだ、栄光あるからだ、力あるからだ、御霊に属するからだに、よみがえるのです。
すでに主イエスを信じている方は、神の約束をしっかりと握りしめ、希望をもってこの地上生涯を主とともに、主にあって歩みましょう。まだ主イエス・キリストを信じていない方は、神の約束を確認し、神が備えられた救い、罪の赦しが自分にも差し出されていることを確認し、罪の赦しを受け取っていただきたいのです。
創造者である神、あなたを母の胎内に形造られた神は、あなたを愛しておられ、救いを備えて招いておられます。救われるに必要なことは、主イエス・キリストを信じること、十字架で備えられた罪の赦しと罪からの救いを、自分のためであったと感謝して受け取ることです。その時、永遠を生きるいのちが与えられ、天に国籍を持つ者となります。そうして、死は恐怖ではなくなり、喜びと感謝、希望に変わるのです。この幸いを自分のものとして、ぜひ受け取っていただきたくお勧めします。
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