top of page

2023年8月6日 礼拝「御父が御子に与えた人々」ヨハネ17:6~19

 今日私たちは、私たちがキリスト信仰者であるなら、私たちは父なる神が御子イエスに与えた人々であるという事実を確認します。私たちが主イエスを信じる信仰を持つことができたのは、父なる神が私たちを、御子イエスに与えたからです。


 十字架の死を前にしての主イエスの祈りを見ています。今日の箇所は、直接的には12弟子たちのための執り成しの祈りです。主イエスとの関係が確認され、イスカリオテのユダを除く11弟子の守りが祈られています。この祈りは、私たちのための祈りでもあります。


 6節。主イエスの弟子となった人々のことを、主イエスは、父なる神が世から選び出して与えてくださった人たちと言います。主イエスは繰り返し「あなたが下さった」という言い方をされます。2節。7節。8節。9節。父なる神が御子イエスにお与えになり、その人々を主イエスがご自分を信じる者となるように関わり、導かれました。その人々は神のみことばを守ったと言われたのです。


 7節。彼らは、自分たちが父なる神から出た者であることを知っています。これは私たちキリスト信仰者にも当てはまります。私たちキリスト信仰者は、父なる神が御子主イエスに与えてくださった者たちであり、私たちは、自分自身が父なる神から出ていることを知っています。パウロがエペソ人への手紙で「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方(キリスト)にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」と書き送った通りです。そうして私たちは「この恵みのゆえに、信仰によって救われたのです」とある通り、主イエスを信じる信仰を持つ者となりました。主イエスを信じることができたこと、それ自体が神の賜物です。


 8節。人として来られた神の子キリスト、主イエスの使命は、父なる神が語らせることを語るということです。ここに人となられた神、主イエスの謙遜と従順があります。自分に委ねられた使命に誠実に、忠実に歩んだことが分かります。弟子たちは主イエスが語られた神のことばを受け入れたことで、主イエスが父なる神から出て来たこと、父なる神が主イエスを遣わされたことを信じたのです。このことは私たちも同じです。私たちキリスト信仰者も、主イエスを父なる神から遣わされてこの世に来たことを信じたのです。5:24


 9節。主イエスは弟子たちのために願うと言います。父なる神が主イエスに下さった人たちのためにお願いすると言うのです。彼らは父なる神のものだからです。


 10節。と同時に、彼らは主イエスのものでもあります。というのは、主イエスのものは父なる神のもの、父なる神のものは主イエスのものでもあるからです。10章で、主イエスは、ご自分と父なる神は一つである、同一の本質であると言われましたが、まさに御父と御子は同一、同等の主なる神です。御父と御子は同一の主なる神でありながら、私たちとの関わりにおいては、御父が計画し、御子がそのみこころを実現する役目を担われたのです。御父が御子に下さったすべての人に、御子が永遠のいのちを与えるのです。17:2


 11節。主イエスはこの後捕らえられ、翌日、十字架刑に処せられ、3日後に死者の中から復活し、その40日後に天に帰って行かれます。しかし弟子たちは残され、主イエスの十字架と復活の証人となり、罪の赦しと罪からの救いの福音を宣べ伝える働きをします。地上に残される弟子たちの守りを祈り、そうして彼らが一致を保つようにと祈るのです。


 12節。主イエスが地上におられた間、弟子たちは主イエスが守ってくださいました。だから12弟子として選ばれた者たちは、様々な問題を抱えながらも、主イエスによって守られたのです。ただイスカリオテのユダだけは、滅びの子として滅んだのです。それは聖書が成就するためでしたとありますが、詩篇41篇9節「私が信頼した親しい友が 私のパンを食べている者までが 私に向かって かかとを上げます」の実現です。


 13節。主イエスの祈りは、弟子たちが守られるようにとの祈りとともに、弟子たちに聞かせる祈りでもあります。父なる神のみこころに従って、御子イエスは父なる神のもとに行くことになります。その方法は十字架で処刑され、殺されること、そうして三日目の復活によることであると、弟子たちが後で分かるための祈りです。主イエスは神のみこころを行うことを喜びとしています。その喜び、神のみこころを喜びとするという喜びが、弟子たちのうちに満ちあふれることを約束する祈りです。


 14節。主イエスが弟子たちに語られたことばは、神のみことばです。それを主イエスは弟子たちに与えました。そして神のことばを神のことばとして受け取った弟子たちは、神の側のものとなり、この世のものではなくなったので、この世、神に敵対する者たちに憎まれる存在となるのです。この世は主イエスを憎みました。主イエスはこの世のものではなく、この世のものとならなかったからです。弟子たちは当初、この世のものでした。多くの人々と同じです。しかし彼らは主イエスが語られることばを受け入れ、主イエスの弟子となりました。この世のものではなくなったのです。だから世から憎まれるのです。


 15~16節。主イエスが弟子たちのためにお願いするのは、この世から取り去ること、すなわち天の御国に迎え入れることではなく、この世の悪い者から守ってくださることです。この祈りは、地上生涯を歩む私たちキリスト信仰者も心得ておくことが重要です。私たちも主イエスを信じて、神の側のものとなりました。この世のものでなくなったので、私たちキリスト信仰者も、世から、創造者である神を信ぜず、神に敵対する者たちから憎まれます。しかし私たちをも、父なる神は守っておられるのです。


 17~19節。主イエスは祈ります。真理によって弟子たちを聖別してくださいと。あなたのみことばは真理ですと言うのです。私たちは主イエスの宣言を知っています。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と主イエスは言われました。また主イエスは「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」とも言われたのです。主イエスこそが真理であり、主イエスのことばにとどまる者は真理を知るのですが、ここで主イエスは、あなたのみことばは真理ですと言われます。


 私たちが真理によって聖別されるのは、神のことばに、主イエスのことばにとどまることによってです。そして私たちは今、身近に真理に触れることができます。聖書が完成しており、信仰と生活との唯一、絶対の規範が、私たちの手もとにあります。主イエスは真理によって彼らを聖別してくださいと祈りました。私たちキリスト信仰者も同じです。


 私たちが聖別されること、すなわちこの世から、俗世間から聖別されるのは、主イエスによって、この世に遣わされるためです。この世のものではなくなった私たちキリスト信仰者は、この世でキリストの証人となるために、この世に遣わされたのです。


 今日私たちは、主イエスの祈りを確認しました。この祈りは、直接的には、主イエスの最後の夜をともに過ごした弟子たちのための祈りですが、それはそのまま、現代を生きる私たちキリスト信仰者のための祈りとしても適用できる祈りです。


 私たちが主イエスを信じる信仰に導かれたのは、父なる神が私たちを選び出して、神の御子、主イエスに与えてくださった結果です。先行的な神の恵みによって選ばれ、主イエスを知る者となり、主イエスをキリストとして、救い主として信じ、自分の主と崇める者となりました。そうして私たちは、神のことばによって、真理によって聖別され、この世に、主イエスから遣わされたのです。この世のものでなくなった私たちが、この世に染まるのではなく、この世に証しするために遣わされたということです。


 私たちがみことばによって、真理によって聖別された存在であることが、キリストの証人とされることです。そうして私たちは、父なる神が、その全能の力によって、悪い者から守ってくださることを体験しているのです。この与えられている立場を自覚し、日々父なる神の守りの中を、平安のうちに、大胆に歩む私たちであることを確認しましょう。


 私たちもまた、御父が御子に与えた人々です。今週のみことば。あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。感謝ですね。私たちは永遠のいのちを生きているのです。



Comments


bottom of page