今日私たちは、ひとりの女性と主イエスとの出会いを見ます。この出会いを通して、この女性は完全に生き方を変え、真の幸いを味わうことになる、その始めの部分を見ます。この女性はサマリア人、主イエスはユダヤ人です。9節に、ユダヤ人はサマリヤ人と付き合いをしなかったとありますが、これはユダヤ人によるサマリヤ人への差別が理由です。
ユダヤ人は神の民イスラエルとしての純血を保っていました。南ユダ王国は新バビロニア帝国に滅ぼされ、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたけれど、主なる神の不思議な歴史への介入によって、新バビロニア帝国が滅ぼされた時に、ペルシアのキュロス王がユダヤ人を自国に戻して、エルサレムに神殿を再建することを許可したのです。
サマリヤ人は他民族との混血です。北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされた 時、アッシリアの王はイスラエルの人々を帝国内の別の地域に移住させ、帝国内の他の民族を北イスラエルの土地に連れてきたので、混血となりました。そのため、サマリア人たちを、ユダヤ人たちは見下し、差別していたのです。ガリラヤ地方とユダヤ地方の間にサマリア地方があり、ユダヤ人はサマリヤを通らずに、ヨルダン川の東側を遠回りして、行き来していました。4節で、しかし、サマリアを通って行かなければならなかったとは、普段はしない特別な行動を取ったことを指し示しています。
主イエスはあえてサマリアを通って、ひとりの女性と会わなければならなかったということです。この女性のこれまでの生き様については18節に記されています。今一緒に住んでいるのは夫ではなく、これまで5人の夫と結婚しては、別れていたということです。
この女性について、一つの可能性を想像します。この女性は結婚生活に過大な期待を抱いていたと考えられます。結婚生活に自分の理想を求めていたということです。しかし現実は違っていました。自分の望んでいたような満足が得られない。何かが欠けている。その何かを彼女は、他の男性に求め、当然の結果として離縁させられる。その男性と再婚しても、また同じ結果になる。その繰り返しが5回にも及んだということです。この女性はある意味、自分に正直なのかもしれません。しかしあくまでも自己中心であり、相手のために自分を変えることはしなかったということです。この女性は、自分の心を真に満たすものを結婚に求めました。しかしもはや、諦めていたと思われます。
私たちも心を満たそうと、何かを求めていることはないでしょうか。程度の差はあっても、自分の理想を実現させようとして、富を求めたり、社会的地位や名誉を求めたり、権力を求めたり、学歴を求めたり、娯楽や快楽を求めたりします。それらで満足を得ようとしているのです。しかし残念ながら、真の満足は得られないのです。
これらの水を飲む者はまた渇くのです。一時的には満足を覚え、達成感を味わいます。一時的なので、新たな追求が始まります。富を得たなら、もっと多くの富が欲しくなります。生活が安定してくると、もっと快適で、裕福な生活を求めます。ある地位に達したなら、もっと上の地位を求めたくなります。快楽で心を満たしたつもりなら、次はもっと刺激の強い快楽を求めます。私たちの追求はとどまるところを知りません。というのは、この世が与えるものでは、心の渇きを完全に潤し、心を満たすことはできないからです。この世には私たちの心を完全に潤すことのできるものは何もありません。
さてこの女性は、主イエスと出会います。この女性にとっては偶然ですが、主イエスにとっては憐れみと恵みによる必然でした。この女性はただ、水汲みのために井戸へ来たのです。だれにも会わないようにと時を見計らって来ました。6節に第6時とありますから真っ昼間だったことが分かります。普通水汲みは朝か夕方に行ない、そこで婦人たちは井戸端会議に花を咲かせます。しかしこの女性は人目を避けて、だれもいないであろう時刻に井戸にやって来たのです。だれもいないはずの井戸に一人のユダヤ人男性がいました。しかし気にも止めずに水を汲もうとしたのです。7節。この見知らぬ男性から声をかけられるとは思いもよらないことでした。
しかし主イエスは、この女性に会うためにサマリアを通られたのです。ここに神の憐れみがあります。どんなに自堕落な生活をしているように見えても、神から見放されたり、見捨てられたりすることはありません。どのような過去を持っているとしても、その人の救いには何の影響も及ぼさないのです。だれに対しても救いは差し出されています。その救いを受け入れるか拒むかは、救いの提供を受けた側の責任です。主イエスはこの女性に神の救いを差し出すために、サマリアを通らなければならなかったのです。
私たちにも同じです。いろいろなかたちで救いが差し出されています。私たちが受け入れるなら神の救いに与ります。この女性は当初、主イエスが差し出す救いに関心はありませんでした。宗教的なものを求める気などさらさらなかったと言えます。霊的なことには全くの無関心でした。その女性がどのような女性であるかのすべてを御存じの上で、主イエスは「水を飲ませてください」と声をかけました。謙遜に水を求めたのです。
9節。当時は、男性が女性に何かを求めるというようなことは考えられないこと、しかもユダヤ人とサマリア人は犬猿の仲ですから、ユダヤ人の男性が、サマリアの女性である自分に水を求めたことに、この女性が驚くのは当然です。主イエスはこのように自分を低めて会話の糸口をつかみました。ここからも主イエスの謙遜さと愛の深さが分かります。神の救いはいつでも神の側から提示されるのです。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです」と主イエスは言われましたが、この女性に救いを差し出すために、主イエスはこの女性の位置まで自分を低めたということです。
主イエスは飲み水を題材として、この女性に、心の渇きに気付かせようとされました。この女性にとって解決されなくてはならないのは、霊的な渇きです。心の渇きが潤されなければ、この女性の自堕落のような生き方は変わりません。私たちも同じです。霊的な渇きが潤されければ、真の満足は得られないのです。飲み水はこの女性の関心をひくものでした。水は私たちの肉体のいのちを保つために必要不可欠なものだからです。
水が豊富である日本に生きている私たちには、切実に感じられないかもしれませんが、雨が余り降らず、乾燥しているパレスチナ地方において、水は死活問題です。日本でも冬に雪が降らなかったり、空梅雨の年など、水不足が起こり、水の大切さを思い知ることがあります。私たちが意識するしないにかかわらず、私たちの身体にとって水は大切なものです。水がなくなれば、私たちのからだは渇き、いのちの危険にさらされます。それ以上に心の渇き、霊的な渇きは、私たちを霊的に死なせるのです。
私たちが心の渇きを覚えるのはなぜでしょうか。なぜ心に空洞があるように感じ、むなしい思いになるのでしょうか。それは私たちが霊的な存在だからです。日本では、進化論が真理であるかのように教えられています。物質からいのちが誕生し、単細胞から複雑な細胞を持つ生命体へと進化し、やがて高等生物に進化して、私たち人間が誕生したと教えられています。しかし物質から霊的な人間が誕生することについて、進化論では説明ができません。また、なぜ人間は永遠という概念を持つのか、なぜ自分の存在意義を求めるのか、人格的な営みはどうしてあるのかなど、進化論では全く説明ができないのです。神が霊的な存在として人間を創造したからと考えるのが合理的です。
10節。ここで主イエスは、あなたが神の賜物を知り、わたしがだれであるかを知っていたならと言いました。つまり知らないから渇いています。知っているなら求めます。求めたなら生ける水が与えられるのです。知らないから求めません。求めないから渇きを潤す生ける水は与えられません。では、神の賜物とは何でしょうか。
使徒パウロはローマ人への手紙に「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と書き送りました。神の賜物は永遠のいのちです。救いの恵みであり、神との平和です。私たち人間は創造者である神に造られた霊的な存在、固有な人格を持つ存在です。私たち一人ひとりは目的をもって、神に創造されました。人間は進化の産物ではなく、神が目的をもって創造した唯一無二の存在です。
人間は神とともに生きる存在として造られたのです。だから創造者である神から離れた時に、その人間の心に空洞ができるのです。自分が何のために存在するのか、何のために生きていけば良いのか、生きる意味、目的が分からなくなります。そしてその空洞は創造者である神以外の何ものによっても決して満たすことはできないのです。ここに私たちの心の渇き、霊的な渇きの原因があります。13~14節。心の渇きは富や地位、権力や快楽などで潤せたように思えても、また渇くのです。もっと高い地位、もっと多くの富、もっと刺激的な快楽を求め続けます。諦めるまで、飽くなき追求が続くのです。
15節。この女性は、その水を下さいと求めました。まだ霊的な問題には気付いていないけれど、求めたのです。私たちも求めることが必要です。この女性は求めました。それで主イエスは彼女が抱えている真の問題に触れたのです。16節。主イエスはすべてを知っていて「あなたの夫を呼んできなさい」と言われました。彼女の取り扱われなければならない罪の現実に触れたのです。この女性は「私には夫がいません」と答え、その問題に触れないようにします。18節。主イエスは優しく、彼女の実態を明らかにされました。
私たちも同じです。創造者である神と無関係に生きるというあり方が根源的な罪であると認め、様々な罪や過ちを犯してきたという罪の実態を正直に認めることが大事です。自分の心に空洞があることに気づいているでしょうか。何かで満たそうといろいろと試してきたけれど、一時的には満足が得られたと思ったけれど、その満足は続かず、空しさを覚えてきたのではないでしょうか。そうしてもう、諦めてしまい、あるいは考えないようにしているかもしれません。しかし心に空洞があると感じていないでしょうか。
私たちの心にある空洞は、創造者である神だけが満たすことができます。創造者である神以外のもので満たそうとしても隙間が生じるので、満足は続かないのです。しかし神の賜物である主イエス・キリストを迎え入れるなら、創造者である神、主イエスが決して渇くことのない生ける水を与え、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。
創造者である神は私たちに、造られた本来のあり方に戻るようにと招きます。25~26 節。この女性は、ご自分をキリストであると明かされた主イエスを受け入れました。その結果29節。人目を気にすることから解放されて、人々に主イエスを証したのです。そうしてさらに主イエスを知り、信じる者となりました。
私たちも同じです。主イエスを信じる時、主イエスは、決して渇くことのないいのちの水を与えてくださるので、私たちもいのちの水を生きることになるのです。これは神からの一方的な恵みによるプレゼントです。受け取るなら与えられる賜物です。受け取りを拒否することもできます。それは勿体ないことです。報酬は拒否できません。罪の報酬は死です。しかし賜物が差し出されています。私たちはその賜物を受け取るだけです。
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