私たちは月に一度、旧約聖書の信仰者たちの信仰姿勢から、創造者である神を信じる信仰について確認しています。そして前回からソロモンを取り上げて、私たちの信仰について吟味しています。ソロモンはダビデの息子であり、イスラエル国家三代目の王として立てられました。このソロモンに委ねられた最大の使命は神殿建設です。その記述は6章からになり、次回、確認します。
今日の箇所は、主なる神が夢の中で、ソロモンが願うものを与える、だから願えと促したところです。5節。これは主なる神が、ダビデに約束された祝福を実現するためであると言えます。主のダビデに対する約束は歴代誌第一17章で確認できます。
ダビデが主のための神殿を建てたいとのビジョンを持った時、主なる神は預言者ナタンを遣わし、約束を与えた、その記述です。11節。主なる神はダビデに世継ぎの子を起こすこと、彼の王国を確立させることを約束なさいました。13節。主は恵みをその世継ぎの子から取り去ることはないと約束されたのです。このダビデへの約束に基づいて、主はソロモンを祝福し、あなたが願うものは何でも与える、だから願えと招いたのです。
22章6節。ダビデはソロモンに、主のために宮を建てることを命じます。7~10節。そして神のことばを伝えるのです。11~12節。そうして主の祝福を祈ります。主があなたに思慮と悟りを与えて、あなたをイスラエルの上に任命し、あなたの神、主の律法を守らせてくださるように。ダビデは心を尽くして主に従い通しました。そのダビデへの約束のゆえに、ソロモンは豊かな恵みを、主から受けたと言えるのです。キリスト信仰者の親である私たちも、こどもへの主の祝福を受け継がせるにふさわしい歩みを追い求めましょう。
列王記に戻りましょう。3章6節。主なる神からの、なんでも願えとの語りかけに対してソロモンは答えます。ソロモンは、主なる神が父ダビデに大いなる恵みを施されたことを確認します。それは父ダビデが真実と正義と真心をもって、主の御前に歩んだからですと、その理由を述べます。ソロモンは、真実と正義と真心をもって主の御前に歩む者を、主なる神は大いなる恵みで満たしてくださる方であると告白するのです。
そうして父ダビデが自分のために祈った祈りを思い起こすのです。父ダビデは、主があなたに思慮と悟りを与えて、主の律法を守らせてくださるようにと祈ったのでした。それで9節。ソロモンは主なる神に求めるのです。善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心を与えてくださいと。
この求めは、主なる神に喜ばれました。私たちも主なる神に祈り求めます。みなさまはどのようなことを祈り求めてきたでしょうか。求めているでしょうか。今週のみことばにある神の約束を見ましょう。まず神の国と神の義を求めなさいと命じられています。まずです。第一に求めることは、神の国と神の義であること、これが主なる神の私たちへのみこころです。まず神の国と神の義を求めると、神の国と神の義はもちろんのこと、日々の地上生活で必要とするものはすべて与えられると約束されています。
神の国とは神が支配する領域です。神の支配の及ぶ領域が神の国です。つまり私たちが神の支配下に自分を置くこと、神の支配に自分を差し出すことを求めること、それが神の国を求めることです。神の義とは、神が義とされることです。神が義そのものであり、神の基準が義です。私たちが義と認められるのは、神を神とする時です。私たちは神の支配に自分を置き、神と神の基準に自分を合わせる、これらを第一に求めるなら、神の国と神の義に加えて、日々の必要はすべて与えられると、祝福が約束されているのです。
11節。主なる神はソロモンの求めを喜ばれました。一般的に求めるであろうその求めを述べながら、あなたはそれを求めなかったと喜ばれたのです。自分のために長寿を、自分のために富を、敵のいのちを願わずに、正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、と主のみこころに添う願いをしたと評価されたのです。
12節。みこころに添う願いはそのままかなえられます。主イエスは語られました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」また使徒ヨハネも、彼の手紙の中に書き送りました。「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」
主なる神はソロモンの求めに従って、知恵と判断の心を与えると約束されました。ソロモンのように知恵と判断する心を持つ者は起こらないと言われ、実際にソロモンは知恵と知識と判断力に満たされ、多くの箴言をまとめ、人々に知恵を教えました。
13節。そのうえソロモンが願わなかったものをも与えると主なる神は語られたのです。富も誉れも、そしてソロモン在任中には、ソロモンに並ぶ王は一人もいないと。これはダビデになれた主の約束そのものの実現です。その王座はとこしえに堅く立つと。
14節。その上で主なる神はソロモンに促します。父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むようにと招いたのです。そうするなら、あなたの日々を長くしようと祝福を約束されたのです。
この招きは私たちにもなされています。主なる神は私たちにも、全人類に対して、わたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むようにと招きます。そうするなら私たちへの約束も同じです。あなたの日々を長くすると祝福を約束するのです。日々を長くするとは、単に寿命が長くされるということ以上に、その日々において、主の恵みと祝福を満たしてくださるという約束です。主なる神は愛の対象として私たち人間を造られました。そして祝福と恵みで満たしてくださるのです。それは造られた本来のあり方、創造者である神を自分の神として仰ぎ、神の基準に歩むなら、主の恵みと祝福に与るということです。
イスラエル王国初代の王サウルは、主なる神を軽んじ、主なる神の道に歩もうとはしませんでした。自分の好みに身を任せ、主の道から外れたのです。彼の生涯は不幸そのものであったと言えます。神の恵みと祝福から遠ざかったからです。二代目の王ダビデは、主の道を追い求めて、主の道に歩み続けようとしました。ダビデも間違いを犯しましたが、素直に悔い改め、主とともに歩むことに立ち返りました。それが主のみこころにかない、主に喜ばれる者となり、大いなる恵みを受けたのです。
ソロモンは、主なる神の、わたしの道に歩むようにと招きに応じて、王としての歩みを始めました。そうして主なる神はソロモンを祝福で満たします。主がソロモンに与えられた素晴らしさは4章29~34節に記されています。34節。「彼の知恵のうわさを聞いた世界のすべての王たちのもとから、あらゆる国の人々が、ソロモンの知恵を聞くためにやって来た」とまとめられています。まさにソロモンに並ぶ者は一人もいないということです。
ソロモンは箴言に、「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることである」と記しました。天地万物を創造されたまことの神を自分の神とし、創造者である神から聞くことが知恵を得る秘訣です。神の語られることばによって、神ご自身を知ることが、私たちに悟りを与えるのです。主の兄弟ヤコブはその手紙に書き記しました。「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。」
私たちは神の知恵に欠けていると正直に認めることが大事です。自分は知恵がある、知識があると自惚れてはなりません。知恵に欠けていると自覚する者は、神に知恵を求めます。そして神は、求める者に知恵を与えてくださるのです。創造者である神を正しく恐れて、神のことばを土台にするなら、私たちは真理を生きることになります。
主イエスは語りました。「南の女王が、さばきの時にこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。」神が聖なる者として遣わされた自分から、どうして神のことばを聞かないのかと言われました。主イエスから神のことばを聞こうとしない人々に対して、その罪のあり方を断罪されたのです。
私たちは今、神のことばが聖書として残された時代に生きています。だれもが聖書から神のことばを聴くことができます。しかし多くの人は、神ご自身から聞こうとしないで、人の悟りで神を、また世界を考えようとします。神はご自分のことを、また世界のことを聖書で現しておられるのに、神のことばから聞かないで、人間の悟りで神を、世界を理解しようとするので、真理を知ることができないでいるのです。主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ることです。私たちは謙虚に神のことばに、聖書に向き合うことが必要です。
パウロはコリントの教会に次のように書き送りました。「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。」宣教のことばの愚かさ、つまり、十字架につけられたキリストを信じる以外に、神を知ることができないように定められたということです。人間的な知恵では、十字架につけられたキリストを信じ、受け入れることはできません。処刑された男を救い主と信じることは愚かだと判断するからです。
まさに「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かです。しかし救われる者たちには神の力」なのです。私たちが神の知恵に生きること、つまり神の語られることを基盤にして生きることが、私たちを救いへと導き、そして私たちを神の知恵に生かすのです。
ソロモンは、主を恐れることから、王としての生涯を始めました。神に知恵を求めたのです。そのようなソロモンに、主なる神は知恵を与え、判断の心を与えました。そして恵みと祝福で満たされたのです。私たちも聖書から、神のことばを聞くことができます。聞く思いがあり、聞こうと決断すればできます。時間を確保して、聖書を開くだけです。そうして神のことばを自分の心に豊かに住まわせるなら、私たちの地上生涯もまた、主の恵みと祝福で満たされます。まず神の国と神の義を求める第一歩は、聖書を開くことです。
詩篇の作者は告白しました。「どれほど私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。それがいつも私の思いとなっています。あなたの仰せは私を敵よりも賢くします。それがとこしえに私のものだからです。私には、私のすべての師にまさる賢さがあります。あなたのさとしが私の思いだからです。私は、老人たちよりも見極めができます。私があなたの戒めを守っているからです。」
旧約の神の民も、新約の神の民も、神のことばを愛し、どれだけ心に住まわせたかが、神の知恵に生きる鍵となりました。私たちには聖書が与えられています。ここに神のことばがあり、教え、戒め、さとしがあるのです。主なる神に知恵を求めることは、キリスト信仰者とされた私たちには、実に、簡単なことなのです。
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