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2023年7月2日 礼拝「永遠のいのちとは」ヨハネの福音書17章1〜5節

 主イエスによる、十字架直前での、弟子たちへの語りかけも、前回で終わり、今日の箇所は、主イエスの祈りが記されています。これは弟子たちにも聞かせる祈りです。


 16章33節で、主イエスは弟子たちに、この世で苦難に遭うことを予告されました。と同時に、主にあっての勝利も約束されたのです。だから苦難に遭っても勇気を出しなさいと励まし、ご自分はすでに勝利していると告げたのです。


 17章1節。主イエスは「時が来ました」と祈り出しました。13章1節では「ご自分の時」と表現し、それは「この世を去って父のみもとに行く」時と述べておられます。これまで主イエスは「わたしの時」はまだ来ていないと繰り返していましたが、いよいよ定めの時、十字架での身代わりの処罰を受ける時が来たことを意識して祈るのです。


 十字架での死は、神の御子が父なる神の栄光を現すためであり、子の栄光が現される時でもあります。十字架で重罪人として処刑され、殺されることが、栄光を現す時となるというのは、分かり難いかもしれません。しかし主イエスの十字架の死と復活によって、主イエスは人となられた神であることが明らかとなり、主イエスを人として遣わしたのは父なる神であることが示されることで、父も子も、神としての栄光が現されるのです。


 2節。父なる神は、神の子主イエスに、すべての人を支配する権威を下さいました。すべての人を支配する権威が主イエスに委ねられ、父なる神が下さるすべての人に、子が永遠のいのちを与えるのです。それは十字架の死という、神のみこころを行うことで、主イエスに与えられる権威です。この点をパウロは、ピリピ人への手紙2章6~11節に書き記しました。「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、・・・自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、・・・天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてがひざをかがめ、すべての舌が、『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」


 主イエスの十字架での死と、三日目の復活により、イエス・キリストは主であることが公に示され、イエス・キリストは主であると信じる者たちの告白により、父なる神に栄光が帰せられるのです。子が父なる神の栄光を現すために、子の栄光が現されたのです。


 3節。永遠のいのちについて、主イエスはその真理を知らせます。永遠のいのちとは死後に与えられるいのちではありません。単に永遠を生きるいのちということ以上の、質的に全く新しいいのちを生きるということです。主イエスを信じる者が、信じた時に与えられるいのちであり、神を知るいのちです。主イエスは、永遠のいのちとは、唯一まことの神である父なる神と、父なる神が遣わされた人となられた神、イエス・キリストを知ることだと言われました。この「知る」とは、知識として知っているということではなく、体験として味わい知る、神との人格的な交わりをする、深い信頼関係の中で知ることです。


 まことの神を自分の神としてあがめ、自分は神の民であるとして日々を歩む。まことの神を自分の父として仰ぎ、自分は神の子どもとされた事実を喜び、神の愛を味わい、神を愛するがゆえに、神のことばを生きることを喜びとする。そのいのちです。


 このことをヨハネは、彼の手紙でも書き記しています。ヨハネの手紙第一1章3節。私たちが見たこと、聞いたことをあなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。私たちは、神との人格的な交わりを深めて、さらに正しく神を知るのです。


 ヨハネの福音書17章4節。御子イエスの地上生涯は、神のみこころを行う歩みであり、神のわざを成し遂げた生涯でした。人間には行えない様々なしるしとしてのわざ、人々が奇蹟としか言わざるを得ない様々な不思議、神のわざを行うことで、自分は唯一まことの神から遣わされた神の子であることの証明とされたのです。主イエスが為す様々なしるしを見て、人々は神をあがめました。まさに、わたしは地上であなたの栄光を現しましたと宣言するにふさわしい地上生涯でした。


 そうしてこの後主イエスは、神のみこころに従って、十字架での死に向かうのです。十字架の死はのろいです。極悪人が処刑される死刑の方法であって、十字架で処刑されることそれ自体では栄光を現すことにはなりません。しかし三日目の復活によって、主イエスの十字架での死は、私たち全人類の罪に赦しを備える、神の救いの方法であることが明らかに示され、イエス・キリストは主であると宣言されるのです。そうして主イエスを遣わされた父なる神が、まことの神であると認められ、神の栄光が現されます。


 5節。ここで主イエスは、人となるために受肉し、母マリアの胎に宿る前に、父なる神と共に持っていたあの栄光、創造者である神としての、わたしの栄光を現してくださいと祈ります。人となられた主イエスは、地上生涯において、いつも神そのもののお方でした。神のわざを行うことで、神としての栄光を現してもいたのです。しかし人々は主イエスを神として認めることはしませんでした。仕える者の姿で、人々に仕えたことで、主イエスの神としての栄光は、信じない人々には隠されていたということです。


 主イエスが神としての栄光を現してくださいと祈っているのは、その祈りを聞いている弟子たち、そして聖書に記された主イエスの祈りを確認している私たちのためです。主イエスは人となられた神です。まことの神であり、まことの人であるお方です。人としての地上生涯のすべてにおいても、神そのもののお方でした。そのお方が、私たち全人類の罪に赦しを備えるために、十字架で罪ののろいを受けて処罰され、死んで葬られ、三日目に死者の中から復活することで、主イエスは神そのものであることが明らかにされるということです。主イエスの復活が事実であるなら、人はそれを受け入れなければなりません。復活など信じられないと拒んではならないのです。


 主イエスの復活は事実であるとした方が、その後の歴史を合理的に説明できます。逆に主イエスの復活は嘘偽りとすると、その後の歴史を合理的に説明することができなくなるのです。なので私は、主イエスの復活は事実として受け入れます。そうして主イエスは人となられた神と受け入れます。主イエスは、十字架で身代わりの処罰を受けて、私たちに罪の赦しを備えられた救い主であると仰ぐのです。主イエスは神であるので、主イエスが語られたことばは、すべて真実として受け入れるのです。これは当然の帰結です。


 永遠のいのちとは、唯一まことの神である父なる神を知ること、父なる神が遣わされた人となられた神、イエス・キリストを知ること、です。この人となられた主イエス・キリストが、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。


 では、どのようにして、私たちは、永遠のいのちを得るのでしょうか。ヨハネの福音書5章24節。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。ヨハネの手紙第一5章12~13節。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。5章20節。この方(御子イエス・キリスト)こそ、まことの神、永遠のいのちです。主イエスを自分の神、自分の主とあがめて歩んでいる者が、永遠のいのちを生きている者です。そして主イエスの再臨の時、私たちは朽ちないからだ、栄光のからだ、天上のからだが与えられ、新しい天と新しい地に、永遠に住むのです。


 私たちキリスト信仰者は、主イエスを知り、日々霊的な交わり、人格的な交わりをし、主イエスとの、父なる神との、深い信頼関係の中に歩んでいること、それ自体が、永遠のいのちに生きていることです。逆に、永遠のいのちが与えられ、永遠のいのちに生きている者は、日々父なる神、子なるキリスト・イエスとの信頼関係の中で、神のことばを歩もうとするのです。信仰生活が生き生きとした歩みとなるよう、さらに主イエスを、父なる神を深く、正しく知る者となりましょう。



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