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2023年6月25日 礼拝「招きは地上生涯のみ」ルカ16:19~31

 みなさまのお祈りを本当にありがとうございました。背後の祈りに支えられて、先週に行われた召天式も結婚式も、臨時の全国運営委員会での責任も、無事に終えることができました。召天式では死について、そして復活の希望について、確認しました。


 私たちは必ず死の時を迎えます。このことに関しては例外はありません。裕福であっても貧しくても、健康であっても病弱でも、高学歴の人も、学ぶ機会を持てなかった人も、男も女も、大人もこどもも、創造者である、生けるまことの神が定められたときに、だれもが必ず、死の時を迎えるのです。


 みなさまは、自分が死んだ後、どこにいるか分かっているでしょうか。人々は、死後のことについて様々な考えや意見を述べています。ある人は、人は死んだなら、それで消滅してしまうと考えます。ある人は、輪廻転生という考えを持ちます。生きている時に良いことをしたのなら、来世において良い人生を送ることができる。今不幸なのは、前世において悪いことをしてきたその報いだとするのです。輪廻転生の考えでは、この世界はずっと続いていて、私たちはいろいろなものに変わりながら生き続けるのです。


 しかし聖書は、この世界には終わりが定められているとします。天地万物の創造から始まり、新しい天と新しい地の再創造までが、この世界の存在です。私たちは、創造者である神がいのちを与えたのでこの世に生まれ、そして神が定めた寿命を全うしてこの世を去ります。生まれ変わることはありません。私という人格は、私だけのものであり、地上生涯一度だけの存在です。肉体は朽ち果て、私という人格、霊は、これを下さった神に帰るのです。今日私たちは、主イエスが語られた話から、私たちの死と死後を確認します。


 さて、もし私たちの存在がこの地上生涯だけで、死と共に消滅するとするなら、私たちはお互いの生涯に不公平さを感じます。互いの生涯を比較するなら、そこには明らかに優劣があるからです。生まれた時から裕福な中で育ち、あまり努力しなくても、一生涯をあり余る豊かさの中で過ごす人もいれば、倹約に倹約を重ね、地道に働き続けても、なおその日暮らしが精一杯の生涯を送る人もいます。平和に楽しく一生を過ごす人もいれば、苦痛と苦悩の中で苦闘し続ける人もいます。今私たちは、豊かで平和な国に住んでいますが、日々死の危険にさらされて過ごし、命を失う人もいます。その他、いろいろな不平等 や不公平を上げることができます。


 私たちの地上生涯を比較するなら、まさに不平等であり、不公平です。しかし私たちの生まれた時と死ぬ時を見るなら、みな平等、同じであることに気づきます。


 まず、私たちの生まれた時を考えてみましょう。私たちは誰も、自分の意思で生まれたのではありません。生まれる環境を決めてもいません。みなさまの中で、自分の両親はこの人が良いと決めて、その上で生まれてきた方はいるでしょうか。誰もいないはずです。また生まれる時は何も持っていませんでした。すべての人が裸で、自分の力では生きることもできない状態で生まれてきたのです。この時点では全く同じです。


 次に、死ぬ時を考えてみましょう。自分がどんなに莫大な財産を持っていたとしても、すべてを残していくことになります。逆に膨大な借金に苦しんでいたとしても、死と共に解放されます。遺族や連帯保証人がその借金を引き継ぐことにはなりますが、その人自身はすべてから解放されるわけです。死と共に、この地上での関わりはすべて解消します。知識も、地位も、功績も、名誉も、そのほか地上生涯で手にするどんなものも、死と共にすべてをおいていくのです。私たちは裸で去っていきます。地上で得たすべては取り去られることになります。みな平等です。


 このように、誕生と死を考える時、すべての人は同じであることが分かります。地上生涯が違うだけです。聖書の宣言を見るなら、創造者である神が私たちにいのちを与えました。その生涯となる環境をも与えられたのです。つまり神が違った環境を備え、異なる生涯を与えたのです。このような観点に立つなら、私たちは自分に与えられた生涯をどのように歩んだかが重要な意味を持つことになります。自分は、この地上でどのように生きたのか、自分の置かれた境遇をどのように用いたかが問われることになるのです。


 聖書は宣言します。ヘブル人への手紙9章27節「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と。創造者である神が語られました。人は死後もなお存在します。この地上生涯について、神の公正なさばきを受ける時が定まっています。


 伝道者の書には「土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る」とあります。人はだれもが死にます。死ぬ時、何も持っていくことはできません。すべての人が公平に死にます。そして死は終わりではありません。私たちの肉体は朽ち果てます。地に帰ります。しかし霊は神に帰り、永遠の存在として残るのです。


 今日の聖書箇所、ルカの福音書を16章を見ましょう。ここに二人の人物が登場します。これは主イエスによる例え話ではありません。主イエスが権威をもって、死と死後について語られたものです。貧乏人のラザロと名前が伏せられた、ある金持ちの死と死後です。


 主イエスは裕福に暮らす金持ちと極貧の生活を送るラザロの、対照的な二人を登場させることによって、私たち全員をその範疇に入れたのです。金持ちの生活ぶりが19節です。彼は金の力によって贅沢三昧の暮らしを続けました。与えられた莫大な富を、彼は高価な服装に身を包み、贅沢に遊ぶことに使ったのです。彼は人のことには無頓着で、自分さえ楽しめれば良いという思いで、必要だからというよりも、買うことができるので高価な衣服をいくつも揃え、買うことができるので、食べ残すことが平気な食事を毎日して、贅沢に遊び暮したのです。


 彼の家の門前に貧乏人ラザロがいました。空腹を少しでも満たすことができればと考えて、この金持ちに憐れみを期待していたということです。しかもラザロは全身おできに包まれるという、貧困だけではなく、病いによる苦しみをも被っていたのです。しかしこの金持ちは、憐れみの心を全く示さずに、贅沢を続けました。


 地上の生涯だけを比較するなら、不公平です。しかしこの二人には、公平な死が待っていました。そして死後の描写がなされます。ラザロは死んで、その亡骸は町の外のゴミ捨て場に捨てられたと思われます。金持ちは死んで、大々的な葬儀がなされ、その亡骸は丁重に葬られたことでしょう。ラザロはほとんどの人に知られないまま、悲しむ人もないままこの世を去っていきました。金持ちは多くの人々が見守る中、その死を悼み悲しむ人々に見送られてこの世を去っていったのです。死の直前まで、そして葬りにおいても雲泥の差がありました。でも、死そのものは同じです。そして何も持っていくことはできませんでした。すべてを切り離されてこの世に残して、裸でこの世を去ったのです。


 さて、金持ちとラザロの死後は、どのように描写されているでしょうか。主イエスは二人の死後の状況を話されたのです。ラザロは神の使いたちに導かれて、先祖アブラハムのふところ、すなわちパラダイスに連れていかれ、慰めを受けています。一方、この金持ちは炎の中、ハデスで苦しんでいます。この違いはどこから来ているのでしょうか。


 24節からの、この金持ちとアブラハムとの会話から、その理由が分かります。25節だけを見ると、生前に良いものを受けていると死後苦しみを受け、生前悪いものを受けていると死後に慰めを受けるように思うかもしれません。しかしそれは違います。


 ここで問題にされているのは、自分の置かれた状況においてどのように生きたかです。自分に委ねられた人生をどのように生かし、自分が与えられた物をどのように用いたかが問われているのです。29節、31節のアブラハムのことばから、モーセと預言者、すなわち旧約聖書にある、神のことばに聞き従うか否かが問われています。そして28節、30節の、この金持ちのことばから、彼自身も、彼の兄弟たちも、神のことばを無視して生きてきたことも分かります。この金持ちは、多くの財産を主なる神から委ねられました。その、物質的な祝福は、彼が神のことばに従って、助けを必要としている人々の必要を満たすために委ねられたものです。しかし彼は、それを自分の楽しみのために使いました。自分の助けを求めてきたラザロのためには、何も使おうとはしなかったのです。ここに彼の罪があります。彼が死後に審きを受け、苦しみの中に置かれたのは、彼が金持ちだったからではありません。神のことばを無視する、つまり神ご自身を無視して、委ねられた物質的な祝福を、自分を喜ばせるためにだけ使っていたことによるのです。


 ラザロが慰めを受けたのも、彼が貧乏人だったからではありません。彼は極貧の中に置かれても、そこで神を仰ぎ、神に信頼して生きていました。なぜ自分が貧しさの中に置かれているのか、それを知ることはなかったけれど、貧困と病苦とは、ラザロを創造者である神から遠ざけることはありませんでした。なぜなら彼は、父祖アブラハムの信仰に倣っており、この世では旅人であり寄留者であること、そして天にある故郷に憧れていたので、この世の苦しみが、ラザロから神への信仰を失わせることはなかったからです。


 さて主イエスが語られた金持ちとラザロの話を通して、私たちは3つのことを確認します。1つ目は、死後も人は存在し続けることです。そして死後、人は慰めを受けるか、あるいは苦しみに会うか、どちらかです。霊はこれを与えた神に帰るのです。


 2つ目は、死後の二つの状態にいる者は、互いに行き来することはできません。26節。この二つの領域は完全に隔離されており、交流することは全くできないのです。つまり死後の状態を、死後に変えることはできません。死者供養をどれほど熱心にしても、それで死後を変えることはできません。


 その当然の帰結として3つ目があります。今の生き方が死後を決めます。創造者である神を自分の神として、神に聞いて生きようとしたのか、それとも自分勝手に生き続けたのか、その選択が死後のあり方を決定するのです。死後に、変える機会はありません。


 聖書は招きます。あなたの創造者を覚えよと。人は神のかたちとして、神に似るように造られました。創造者である神に聞いて生きる者として造られたのです。しかし私たちはだれもが、神に聞こうとせず、自己中心に生きてきて、様々の罪を犯してきました。罪の強弱や多少は違っていても、さばかれるべき罪として残っています。


 しかし創造者である神は憐れんで、神に立ち返る機会を備えてくださったのです。主イエス・キリストの十字架によって、全人類の罪の処罰は終わり、罪の赦しが差し出されています。キリストの十字架を信じる時、神は、あなたの罪は赦されましたと、私たちへの無罪の宣言をしてくださいます。私たちは必ず死にます。公正なさばき主である神の御前に立ちます。その時、数々の罪を犯してきたにもかかわらず、神の宣告を聞くのです。あなたにはさばくべき罪はない。すべての罪の処罰は十字架によって終わっていると。


 神は私たち一人ひとりに語りかけます。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。このお方を自分の神として信じ、受け入れるだけです。



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