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2023年6月11日 礼拝「主の計画が実現する」列王記I 1:32〜53

 今日はまず、今週のみことばを確認することから始めましょう。「万軍の主が計画されたことを、だれがくつがえせるだろうか。御手が伸ばされている。だれがそれを押し戻せるだろうか。」預言者イザヤのことばです。主の計画が実現するというテーマで、今日の聖書の箇所を見ますが、万軍の主が計画されたことを、人間は、そしてだれも覆すことはできないことを確認します。ですから私たちは、主のみこころに自分を合わせて歩むことが真に幸いな地上生涯を歩むことになると心したいのです。


 今日私たちは、主なる神の絶対的な主権と、私たち人間の自由意思との関わりについても確認します。神の主権と人間の自由意思との鬩ぎ合いは、私たち人間の理性で納得できる説明をなし得ない事柄の一つでもあります。主の計画が実現することを人間はとどめることができません。主なる神のご主権は絶対です。この、神の絶対的な主権と人間に与えられている自由意思とを同じ次元、同じ土俵で考えるなら、この二つは相反しており、私たちは矛盾していると感じるのです。神の主権を強調するなら、私たちに自由意思があることは否定されます。私たち人間の自由意思を強調するなら、神の絶対的な主権を否定することになるのです。しかし現実には、神の絶対的な主権があり、私たち人間に自由意思が与えられていることも、両方とも事実です。


 これまで私たちはダビデの生涯を見、その信仰姿勢から、私たちの信仰姿勢について吟味してきました。主がダビデを選びました。彼に恵みを与え続けたのです。そしてダビデも、主の恵みに応えて、主のみこころを追い求め、従ってきました。ダビデは年老い、一線を退く段になっても、王位継承をしない中、王子アドニヤが王となる宣言をします。その経緯が先ほど交読した箇所に記されています。1章5節から。


 アドニヤはダビデの四男として生まれています。長男アムノンは三男アブシャロムに殺され、アブシャロムもクーデターのときに戦死しました。ダビデの次男についてはほとんど情報がないので、その生死はこの時点で不明です。今や四男アドニヤが最も王位に近い存在となっていたということです。彼は野心を抱いて、王座に就こうと画策をし、それに同調する者たちも少なからずいて、王の就任式を行ったのです。


 しかしこれは主なる神の計画とは違っていました。主の選びはアドニヤではなく、ソロモンです。ソロモンの選びの経緯は歴代誌Ⅰ22章6節からに記されています。このダビデへの主の語りかけは、ソロモンが生まれるずっと以前のものです。サムエル記で確認するなら、サムエル記Ⅱ7章で、バテ・シェバ事件の前に語られています。


 ソロモンの誕生は、ダビデが姦淫と殺人という大きな罪を犯し、その罪の悔い改めをした後に、神の恵みによってバテ・シェバによってなされたものです。そしてダビデは神の計画をバテ・シェバに伝えていたと考えられます。主のご計画では、ダビデの後継者はソロモンであり、その選びはソロモンが生まれる前になされていたのです。


 この経緯を見ていくときに、私たちは間違った考えを持ってはなりません。神の主権を強調し過ぎると、神の選びは、ダビデとバテ・シェバとの間に生まれるソロモンであり、ダビデが姦淫の罪を犯すことも、バテ・シェバの夫ウリヤを殺す罪を犯すことも、そして未亡人となったバテ・シェバを妻に迎えることも、主なる神の計画にあるのだから、ダビデを罪に定めることはできないと主張できてしまいます。


 そうしてこのことを拡大解釈していくと、私が罪を犯したのは、神の絶対的な主権で計画されたことであり、私には罪はないし、私に罪があると糾弾すること自体が間違いであると、自分に都合良く解釈して、自己正当化を主張する人も出てくるでしょう。


 私たちは間違わないようにしましょう。主なる神がダビデの後継者としてソロモンを選ばれたことは明確ですが、ダビデの姦淫と殺人の罪がなければソロモンの誕生はなかったと考えてはなりません。ソロモンが選ばれたのは、ダビデによる姦淫と殺人の罪と関係はないのです。ダビデは自分の犯した罪を心から悔い改めました。そして主なる神はその罪を赦し、憐れんでくださり、主なる神がその悲劇的な状況を益に変えてくださって、ソロモンの誕生へと導いたのです。ダビデが罪を犯さなくても、ソロモンは誕生します。それはバテ・シェバとは違う妻から生まれることになるということです。


 神の絶対的な主権と人間の自由意思の関わりは、人間の理性や理解を超えており、私たちは軽々しく、神の絶対的な主権によることか、人間の自由意思によることかなどを断定してはならないと確認しましょう。主なる神は絶対的な主権をもってこの世界を、そして私たちを導いておられます。そして主の計画は実現します。と同時に、私たちは自由意思をもって、主なる神に背くことをしますし、間違いを犯します。また主なる神に従うことをします。主なる神は、私たちの自由意思による決断や行動を最大限尊重されるのです。神の絶対的な主権と人間の自由意思による行動の鬩ぎ合いは私たちの理解を超えており、私たちは自分の納得に重きを置いてはならないのです。私たちは神の御前に遜って、神のみこころを思い、神の御思いに自分の思いを合わす努力をすることが大事です。


 12~13節。ソロモンが王位を継承することについて、バテ・シェバは知っていました。預言者ナタンも神のご計画を知らされていました。それはアドニヤも、また側近の者たちにも知らされていたのではないでしょうか。しかしダビデが年を重ね、大分衰えたにもかかわらず、王位継承について明確な宣言をしないので、アドニヤが野心を抱いたのです。そして、アドニヤの野心に同調することによって、権力の座に着こうとする人々がいました。神の計画と主権に従うことを拒む人々です。


 アドニヤが王位に着こうと画策しているのを知り、それに同調しない人々の中で、預言者ナタンがすぐに行動を起こしました。ソロモンの母バテ・シェバによって、ダビデに神の計画を確認させるのです。また事態は悠長に構えていられないほど逼迫していることを告げさせます。17~21節。預言者ナタンもダビデの心を確認します。22~27節。


 ダビデの対応は敏速でした。29~30節。主のみこころの確認です。主が語られた、そのことばをもってバテ・シェバに誓った、そのことばの通りを今日行うと告げたのです。38~40節。ソロモンの王位就任式はその日のうちに行われ、ソロモンはダビデの任命による正当な王として宣言されたのです。


 さてアドニヤと彼に与した人々のその後を見ましょう。ダビデがソロモンを後継の王とし、その就任式が行われました。そして町中が大喜びしていることが、アドニヤとその同調者に伝えられたときの様子が41~48節に記されています。49節。彼らは自分たちがいかに恐ろしいことをしたのかに気づき、すぐにアドニヤから離れるのです。自分を利する思いで集まった者たちは、害が及ぶと分かれば、すぐに離れてしまします。情けないことですが、これが現実です。人に期待する者の悲惨な結果です。


 私たちは確認しておきましょう。主の計画は実現します。主なる神がなさろうとすることを、人がとどめることはできません。ここに主なる神の絶対的な主権があります。また主のみこころではないことを人が行おうとしても、それは頓挫させられます。主なる神に受け入れられるのは、私たちに与えられている自由意思を、主なる神に従うことに用いることです。主が喜んでくださること、主が良しとされることを選び取るのです。


 今日の箇所での登場人物は、主のご計画に従わないで、自分の野望を遂げようとした人アドニヤと彼に同調する人々、主のご計画に従う行動を起こすべきだと示された預言者ナタン、ナタンの促しに従って行動を起こした人バテ・シェバとダビデ、自分からは何もしないで主の導きを待っていた人ソロモン、などです。


 私たちはアドニヤと彼に与する人々にならないようにしましょう。主のご計画に反することは、どれほど用意周到に行ったとしても、必ず頓挫します。それは罪です。その結果は悲劇的な結末をもたらします。もし自分が、神のみこころ、ご計画に反することを行っていると気づいたなら、すぐに悔い改めることが大事です。その刈り取りは辛いものとなるかも知れません。しかし主なる神は、罪の結果を益に変えるお方です。


 私たちは神のご計画に与ることを喜ぶ者、喜びとする者でありたいのです。この時のソロモンのように神のみわざ、導きを待つのか、ナタンのように神のみわざを推し進めるために、先陣を切る役を果たすのか、バテ・シェバやダビデのように、神のみわざに、促されて素直に参与するのか、その神のみわざによって、その時々によって、自分に委ねられる立場、役割は違っているかもしれません。しかしどのような役を担うとしても、主のみこころにふさわしく、主のご計画の実現に、神の側にいる者として参与し、神のみわざに参与する光栄を拝したいのです。私たちは日頃から、主なる神のみこころを確認し、みことばの約束に自分を合わせて歩む一歩を進めることが大事です。箴言19:21。


 主の計画こそが実現するのです。だから私たちは、私たちに与えられている自由意思を主なる神に聞き従うことに用いる者、主の計画の実現を見る者とされましょう。自由意思を神に背くことに使うことのないように注意したいのです。



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